第四話
室内に起床時刻を知らせる目覚ましが鳴り響く。
駆は布団の中から手探りで時計を探すと、ベルを止めた。そのままのっそりと布団から起き上がって、駆は時間を確認する。
午前五時……駆にとっていつも通りの起床時刻だが、一般の学生からしたら駆の起床時間は早いかもしれない。まだ朝日も出ていない時間帯だ。
別に本来、駆にはここまで早く起きる必要はない。特別自宅と学校の距離が離れているわけでもない。駆の家と学校は、距離で言えば約二キロ、時間にすれば三〇分の道のり。
あと一時間は寝ていても十分に学校に行く支度はできる。
では何故こんな朝早くに駆は起床するのか。それは……
「眠いけど……爺さんに起こされていた時の感覚が残ってるんだよなぁ」
祖父が生きていた時の生活リズムが、身体に染みついているからだった。どういうわけか二度寝をしようにも、五時以降になると駆の目が冴えてしまう。
駆は大きな欠伸を一つすると、ぼさぼさになった頭を掻いて、エレナが寝ている隣室の方を向いた。きっとエレナはまだ夢の中だ。
昨夜の夕食での話し合いによって、同居することになったエレナ。彼女には隣の部屋を使ってもらっている。もっと離れた部屋でもよかったのだが、他の部屋は掃除が行き届いていない為、埃っぽかったのだ。
「はぁ……顔でも洗うか」
駆は首に手を当てて、コキコキと鳴らすと洗面所に向かった。
蛇口をひねり、水を出す。その水を両手で掬い、駆は顔を洗った。冷たい水の刺激によって、寝起きの頭にかかった薄靄が晴れていく。
タオルを手に取って濡れた顔を拭く。その時、背後に気配を感じて駆が振り返ると、そこには眠そうに目を擦るエレナが立っていた。エレナが着ている大きい藍色の浴衣は寝ている時に着崩れたのか、だらしなく肩が見えている。
元々は祖父の客が家に泊まるときに使用する浴衣だったのだが、エレナの寝間着が無かったため、客間のタンスから見つけた浴衣で代用してもらった。
エレナは「日本らしい」、と言って喜んでいたが……
近いうちにエレナの外着や寝間着を買いに行かないといけないな……と思いつつ、駆は露出している肩から目を逸らして、挨拶をした。
「おはよう、エレナ」
「うにゅ……おはよ、駆」
駆が洗面所を空けると、エレナはフラフラと危なっかしい足取りで洗面所の前に立つ。
その様子を見る限り、あまり朝に強くないようだ。
「眠そうだな。もっとゆっくり寝ていてもいいんだぞ?」
顔を洗い始めたエレナに、駆は新しいタオルを差し出しながら声を掛ける。
顔を拭いたエレナは少しぼんやりと視点の定まっていない目で駆を見ると、ゆっくりと口を開いた。
「そういう……わけにもいかないのじゃ。駆が起きてるのに……居候の儂が寝てるなんて許されないんじゃよぉ。…………むぎゃ!」
「だ、大丈夫か?」
そう言いながら廊下に出て行くエレナだったが、何もない所で躓き、壁に頭を強かとぶつける。その鈍い音に、駆は急いで頭を押さえるエレナに近寄った。
「だ……大丈夫じゃ。おかげで目が覚めた」
「そ、そうか?」
痛そうに目に涙を浮かべて頭を押さえるエレナ。その言葉の通り、エレナの口調は多少の眠気は感じられるものの、先ほどとは異なっているようにも思える。
エレナは背中を伸ばしながら小さな可愛らしい欠伸をすると、壁に手をついて立ち上がり、困り顔の駆を見た。
「ふぁあ……まだ少し眠いのぅ。駆は朝が早い」
「そうかもしれないな」
「ふにゅう……」
駆がエレナの頭にポンポンと手を置くと、エレナはニヘっと顔をほころばせる。
「ん?」
エレナの頭に手を置いた時、エレナの頭に髪とはまた異なるフワフワの毛があった気がして目を向ける。しかしエレナの髪に変わった様子はない。
「……気のせいか?」
「ぬ? どうかしたのか、駆」
駆の呟きを聞いて、エレナの瞳が駆を見つめる。
なんでもない、とエレナに笑いかけると、駆は手櫛で寝癖を整えながら台所へ向かう。エレナも駆の後を追ってきた。
「さて、少し早いけど朝食にするか」
「ふむ。それなら私に任せてくれ」
「え? 頼んでいいのか?」
掃除もそうだが、エレナが手伝ってくれるのなら確かにうれしい。駆の視線を受けたエレナは、自信気に控えめな胸を張った。
「もちろん! 居候が家事を手伝うのは当然じゃろう。料理はしたことはないが……使用人たちには一応やり方は教えてもらっておったし、何とかなる…………多分」
「だ、大丈夫か? やっぱり料理は俺が……」
「大丈夫じゃ! ほら、駆にもやることがあるじゃろ?」
「やること……ねぇ」
心配そうな顔をしていたことが気に障ったのか、エレナが手を腰に当てて頬を膨らませる。駆を見上げるその姿は、小さくて愛らしい。
エレナの言葉に、駆は考えるように目線を上に向けた。すると駆は、昨日放課後に部長の中丸とした練習試合の約束を思い出す。
「そうだな。なら頼めるか? 冷蔵庫に入っているものは好きに使ってくれていいから」
「うむ。任された」
エレナの料理に若干の不安は残るが、部長との約束を無下にすることは出来ない。相手は日頃自分の勝手な行動を許してくれている部長だ。こういう時ぐらい、いい状態で挑まないと失礼だろう。
「俺は庭にいるから、朝食ができたら呼んでくれ」
「了解したぞ!」
駆に朝食を任されたエレナは嬉しかったのか、小走りで台所に向かう。その背中に駆が声を掛けると、エレナは笑顔で返事をして台所に消えた。
駆は自室に入り、ハンガーに掛けてあるジャージに着替えると、部屋の隅に置いてある竹刀袋を掴んで廊下に出た。
玄関では平八が丸まって眠っていた。駆は起こさないように静かに平八の横を通り抜ける。駆が横を通ると、平八はピクッと耳を動かしたが、起きることはなかった。
「百二、百三、百四……」
「今朝もやっているのか……立派だな」
庭に出た駆の耳にまず届いたのは、一定のリズムで唸る鋭い風切り音と女性の凛とした掛け声だった。
それが聞こえてくるのは隣の家……未来の自宅からである。家を仕切る壁の存在でその様子は分からないが、どうやら未来は日課の早朝の素振りをしているようだ。
この日々の努力が、未来の部活動の結果に繋がっているのだろう。
「精が出るね、姉さん」
駆は壁の向こう側で素振りをしているだろう未来に声を掛ける。しばらく壁の向こう側では風切り音と掛け声が続いていたが、キリがいい百五十を数えたところで風切り音が止んだ。
「駆君? 珍しいね。駆君も素振り?」
壁の向こうから聞こえてきたのは未来の声だった。その声は素振りが原因か、少し息が弾んでいる。
「うん。実は今日の放課後に、中丸部長と試合をすることになって……」
駆の言葉に未来が苦笑する気配がした。
「ああ、だから中丸君は昨日機嫌が良かったのね」
「……それ、本当?」
未来の言葉に中丸が自分と試合をしたいのは、部活に参加しない幽霊部員の俺をボコボコにしたいからなんじゃないだろうか。一瞬駆は不安に思う。
未来は駆の不安げな気配を感じ取ったのか、含んだように笑った。
「うん。中丸君……去年の駆君との試合で、ずっと思う事があったみたいだよ」
「去年の試合って俺が反則負けになった試合だったよね? どう見ても、あれは間違いなく俺の反則負けだったけど」
駆は竹刀袋から、使い込まれて持ち手が真っ黒になった竹刀を取り出す。そのまま竹刀を構えると素振りを始めた。
久しぶりの素振りだったが、竹刀は自分の身体の一部のように手に馴染む。
「鋭い素振りだね。駆君、それで久しぶり?」
「そう……だね。竹刀を持ったのは二週間ぶりかな」
五十回ほど振っただろうか。壁の向こうから未来が話しかけてくる。駆は素振りを止めることなく返事をした。
壁からは未来の深いため息が聞こえる。
「それだけ剣道から離れていたのにその風切り音か……もう才能だね」
駆はその言葉には返事をせずに淡々と素振りを続ける。しばらくすると未来も素振りを再開したのか、隣の壁から風切り音と掛け声が聞こえてきた。
そのまま言葉を交わすこともなく素振りを続ける駆と未来だったが、不意に自宅から何かが割れるような音と、エレナの叫び声が聞こえ、素振りをしていた手を止める。
「か、駆君……今のは? すごい音と……女の子の叫び声が聞こえたけど?」
「……実は今お客さんが来ているんだよ」
「み、見てきた方がいいんじゃないかな?」
「そうだね」
駆は未来の言葉に頷き、竹刀を袋にしまうと、駆け足で自宅に戻っていった。
「……なんだこりゃ」
リビングに足を踏み入れた駆が見たのは、地面に散らばった白い破片と、それを半泣きで集めるエレナの姿だった。
中から聞こえた音は、皿が割れる音だったのだろう。駆は一緒に破片を集めるためにエレナに近づくと、エレナが振り返った。
エレナの目が駆を見て大きく見開かれる。
「あ、あの……」
「怪我はないか?」
「……え? だ……大丈夫」
皿を割ってしまったことで叱られると思っていたのか、エレナは駆の言葉を聞いて顔に戸惑いを浮かべる。駆はエレナの腕を取り、怪我が無いことを確認すると、周囲の状況を確認した。
見ると、皿の破片が飛び散っている中心には椅子が置いてある。多分エレナは、高い所にしまってある皿を取ろうとしたのだろう。そして手を滑らせるか、バランスを取れなかったかして、皿を落としてしまったようだ。
「あ、あの……すまぬ、駆。儂の不注意じゃ」
「言ってくれたら取ったのに……まぁ、怪我が無くて本当によかった」
「……へ? それだけ……か? 儂を怒らぬのか?」
駆は微笑むとエレナを立ち上がらせる。
「わざと割ったわけじゃないんだろ? なら、次から気をつけて……としか言わないよ」
「う……うむ。本当にすまぬ」
「廊下を出てすぐの部屋に箒とちり取りが置いてあるから、取ってきてもらえるか?」
「わ、分かった!」
駆の指示を受けたエレナがリビングを出て、箒とちり取りを持って戻ってくる。駆は散らばった破片を丁寧に全て掃き取ると、ビニール袋に入れて縛った。
破片を入れた袋に「危険物」、と油性マーカーで書き込んで、ごみ収集の日に忘れないように出すために玄関に置く。
リビングに戻ると、エレナが俯いて座っていた。箒とちり取りは片づけたのかリビングには無い。
駆は向かい側に座ると、失敗して気落ちしているエレナに声を掛けた。
「そう落ち込むな、エレナ。失敗は誰にでもある」
ビクッとエレナの肩が小さく揺れる。ゆっくりと顔を上げたエレナの目は、いつ涙を流してもおかしくないほどに潤んでいる。
「でも……儂は居候で……駆にすでに迷惑を掛けておるのに……更に……」
「……別に迷惑なんて思ってないけどな。それに、俺の為に朝食を作ろうと頑張ってくれたんだろ? なら俺も叱ろうとは思わないよ。……ただ」
そこまで言って駆はテーブルに置かれた料理を見て、うんざりとした表情になった。
「これが……朝食か?」
「……え?」
駆の呟きにエレナの目が点になる。
駆が戸惑いを見せる理由。それは、テーブルに並べられた料理だ。
トーストは問題ない。エレナの手元で湯気を立てるココアも、駆の手元にあるコーヒーも問題はない。
問題なのは……
「これ……酢豚とから揚げだよね? ……でこれが」
「みそスー……いや、みそ汁だったな。日本人の朝はこれで始まると聞いて作ったんじゃが……何か間違っていたか?」
「間違ってはいない。いや……朝食としては間違っているのか?」
テーブルの中心、大皿にこれでもかと盛られた酢豚とから揚げだった。照明に照らされて輝きを放つ酢豚には香りのよい甘酢のあんがかけられ、食欲をそそる。から揚げも家で作ったとは思えない黄金色で、見る人を釘付けにすること間違いなしの見た目だ。
……だが、
「この料理……朝から重くないか? それに……量が多い気が」
「あ、あはは……やっぱりかの?」
駆の言葉にエレナも乾いた笑い声をあげる。どうやら本人も同じように思ってはいたようだ。なら何故、朝食でここまでの肉料理を作ってしまったのか。
「なんで――」
「うぅ……朝食を任されたことが嬉しくて……張り切っていたら、気付いた時には……」
「そ……そうか」
俯くエレナから澱んだオーラが出ているように見えて、駆はとっさに目を逸らした。
「わふぅ……」
するとその目線の先には悲しげになく平八がいた。その姿を見て駆は思い出したようにエレナに声を掛けた。
「なあエレナ……平八のご飯は?」
「……あ」
その瞬間、リビングの空気が凍った。
結局、平八のご飯は駆が作った。
エレナが作ったご飯を食べた駆。エレナの肉料理はどれも、舌鼓を打つほどおいしかったが、やはり朝食にしては重い料理だった。
味噌汁については……何故かコーンスープの味がした。
美味しかったから問題はなかったのだが……
ともかく朝食を食べ終えた駆は、重い料理を食べたことによる胃もたれに悩まされながら学校に向かうのだった。




