第2話 元聖女、散る
開拓都市ホープロード。
かつて未開の大地に築かれた小さな開拓拠点は、今や王都にも匹敵する大都市へと発展している。幾重もの城壁の外では今日も新たな土地が切り拓かれ、拡張工事の槌音が絶えない。
そんな街の一角にあるカジノも、朝から大勢の客で賑わっていた。遊技機の音楽にコインの触れ合う音が重なり、威勢のいい声があちこちから上がる。
その中で、一人の女性が遊技機の前に立ち、難しい顔で腕を組んでいた。
「……うん、間違いないわね。今日はこの台よ」
白金色の長い髪には赤い差し色が入り、薄紫色の丸眼鏡の奥では自信ありげに目が細められている。黒を基調とした法衣には金色の装飾が施され、胸元には立派な聖印。その装いは、賭博場よりも教会の祭壇に似つかわしい。
服装だけを見れば、さぞ高名な聖職者と思われるだろう。
もっとも、本人が熱心に眺めているのは女神の教えなどではない。遊技機の上部に表示された、前日の遊技履歴である。
「昨日は散々吸い込んで、そのまま閉店。これだけ凹んでいるんだから、今日は設定変更が入っている可能性が高いわ。それに朝イチだもの。絶対に熱いはずよ」
女性は数字をもう一度確かめ、満足そうに椅子へ腰を下ろす。
隣では先客の男が黙々と遊技を続けていた。女性の独り言に一度だけ横目を向けたものの、口を挟む気配はない。
「ふふん。見てなさいよ。今日は午前中にがっつり稼いで、お昼はちょっと贅沢しちゃおうかしら」
腰に下げた革袋から取り出したコインを投入口へ滑り込ませる。軽快な音楽とともに三つの回胴が回り始め、女性の口元には早くも勝利を確信したような笑みが浮かんだ。
「さあ、お願いね!」
◇
「……おかしいわね」
それからしばらく後。
遊技機の上部に表示された数字は増え続けているのに、下皿にはコインがほとんど残っていない。朝の威勢はどこへやら、女性は数字と下皿を交互に眺めていた。
「昨日の履歴から考えれば、そろそろ当たってもいい頃なんだけど……」
納得がいかない様子で唇を尖らせ、懐の煙草入れから一本取り出す。唇に挟んで火をつけ、ゆっくりと煙を吸い込んだあとも、その目は遊技機の表示から離れない。
「まあ、朝イチから素直に出る台ばかりじゃないし。こういうのは多少回してみないと分からないものね」
新たなコインを取り出そうと革袋に手を伸ばした、そのとき。隣の台から景気のいい払い出し音が響いた。
先ほどまで黙々と遊技していた男の下皿には、コインが山になっている。男はそれを箱へ移しながら、こちらの視線に気づいて顔を上げた。
「……おめでとうございます」
「どうも」
にこやかに祝福し、自分の台へ向き直るまで、わずか数秒。女性の口元からはすっかり笑みが消えていた。
「……隣は出てるのにねぇ」
煙草を灰皿の縁に置き、恨めしげに男の台を見やる。だが、遊技機の表示を見直すうちに、その顔つきが変わっていく。
「いや、待って。隣が出ているってことは、この辺りに高設定が入っている可能性は十分あるわよね? だったら私の台だって……」
「そうよ! むしろ期待できるじゃない!」
勢いを取り戻した女性の手から、次のコインが投入口へ吸い込まれていく。隣の男はちらりと見ただけで、何も言わなかった。
しかし、回しても回しても当たりは来ない。
革袋の膨らみが目に見えて小さくなるにつれ、女性の顔からも余裕が失われていく。
「……ちょっと待ちなさいよ。昨日あれだけ吸い込んで、今日もこれだけ吸い込んでるのよ? そろそろ吐き出しても罰は当たらないでしょうが……!」
遊技機への文句が隣まで届いたらしい。男がこちらを向いた。
「姉ちゃん、そんなに昨日の履歴を信用しないほうがいいぞ。今日の設定とは関係ないかもしれんし」
「もちろん、それくらい分かっていますよ? ただ、店側の立場になって考えてみてください。昨日あれだけ負けたお客さんがいるんですもの。今日くらいは少しサービスして、気持ちよく帰ってもらおうと考えるのが普通じゃありません?」
先ほどまでの悪態が嘘のように、女性は涼しい顔で持論を語る。
「……いや、店も商売だからなぁ」
「そう! 商売だからこそよ! 目先の利益だけを追って、お客さんが離れてしまったら元も子もないでしょう?」
男は口を開きかけ、結局そのまま閉じた。自分の台へ目を戻す前に、短く一言だけ残す。
「まあ、頑張ってくれ」
「ええ、ありがとう。お互い頑張りましょうね」
上品な笑顔で応じ、短くなった煙草を灰皿で揉み消す。
「……ふふ、甘いわね。そんな考えだから設定の入った台を見逃すのよ」
なお、隣の男の下皿には、すでに新しいコインが溜まり始めていた。
◇
昼を過ぎる頃には、女性の姿から朝の余裕がすっかり失われていた。
背もたれに悠然と身体を預けていた面影はなく、今では遊技機の画面へ食い入るように顔を近づけている。薄紫色の丸眼鏡は頭の上へ押し上げられ、整えていた白金色の髪にも乱れが目立つ。
「……いや、まだよ。まだ全然いけるわ」
革袋を開くと、底に残ったコインがわずかな音を立てた。朝にはずっしりと重かった袋も、今や片手で簡単に持ち上がる。
「これだけ回したんだから、そろそろ当たりが来るはずなのよ。ここでやめたら、今まで使った分が全部無駄になっちゃうじゃない」
残りのコインを数え、また袋に戻す。
「それに、もし今やめて、次に座った誰かが大当たりでもしたら……」
そこまで口にしたところで、女性の顔が険しくなった。
「……絶対に嫌だわ。ここまで育てたのは私なのよ? 他の誰かに美味しいところだけ持っていかれるなんて、そんなの許されるわけないじゃない!」
思いがけず大きくなった声に、近くの客たちが振り返る。
女性ははっと口をつぐんだ。何人もの客と目が合うと、即座に背筋を伸ばして上品な笑みを作る。
「……失礼。少し熱くなってしまいました」
軽く頭を下げる姿だけなら、胸元の聖印も相まって、いかにも気品のある聖職者だ。
もっとも、次の回転が外れた途端、その笑顔も消え失せる。
「……なんでよぉ」
額を遊技機の縁へ預け、情けない声を漏らす。しばらくうなだれたままだったが、不意に顔を上げた。
「……そうよ。こういうときこそ、神頼みじゃない」
胸元の聖印を両手で包み込み、静かに目を閉じる。つい先ほどまで遊技機を睨んでいた険しい顔つきは、祈りを捧げる者の穏やかな表情へと変わっていた。
「女神ティア様……どうか、この哀れな子羊に御慈悲をお与えください」
その声は、直前まで遊技機に悪態をついていた人物と同じとは思えないほど落ち着いている。
「私は今、人生の岐路に立たされています。どうか迷える私に、進むべき道をお示しください……」
隣の男は回胴を止める手を一瞬止め、祈り続ける女性とその遊技機を見比べた。なんとも言えない顔つきである。
やがて祈りを終えた女性が目を開くと、そこには晴れやかな笑みがあった。
「……よし。いける気がするわ!」
「姉ちゃん、本当に大丈夫か?」
「ええ、もちろん! こう見えても私、昔は女神様に直接祝福していただいたこともあるんですから!」
「……へえ、そりゃすごいな」
「でしょう? だから今回だって、きっと大丈夫よ!」
男は苦笑いを浮かべ、自分の台へ向き直る。
女性は残りのコインを投入口へ滑り込ませた。
「さあ、ここから逆転よ!」
その直後、遊技機から普段とは違う音が鳴り響いた。
「……え?」
画面いっぱいに色鮮やかな光が走り、三つの回胴が激しく回転する。女性は椅子から浮き上がりそうな勢いで身を乗り出した。
「ちょ、ちょっと……これって……!」
第一の回胴が止まり、大当たりを示す図柄が現れる。
続く第二の回胴にも、同じ図柄。
「き、来た……! 来たわよ!」
思わず声が裏返った。
あと一つ。
最後の回胴にも同じ図柄が揃えば、待ちに待った大当たりだ。
女性は胸元の聖印を握りしめ、祈るように最後の停止釦へ手を伸ばす。
「お願い……お願いだから……!」
今度こそ報われる。
朝から積み重ねてきた苦労が、ようやく実を結ぶ。失ったコインを取り戻し、それどころか大きな利益を手にすることさえ夢ではない。
かつて女神の祝福を授かった少女が、今再び奇跡を求める。
その切なる願いは、果たして天へと届くのか。
運命の第三回胴が、ついに停止する。
――が、ダメッ……!
「…………え?」
最後の図柄だけが、一つずれていた。
女性は画面を見つめたまま動かない。隣の男も気の毒そうに彼女を見ている。
「……うそ」
長い沈黙のあと、女性は小さく首を振り、無理やり口角を持ち上げた。
「いやいや、まだよ。まだ終わってないわ。次、次こそは……」
慣れた手つきで下皿へ手を伸ばす。
だが、指先に触れたのは冷たい底板だけだった。
「……ん?」
もう一度、下皿の奥へ指を入れる。
何もない。
「……あれ?」
端から端まで探り、今度は身を屈めて直接覗き込む。
空っぽだった。
念のため隅の方まで指を這わせてみても、やはり一枚も見つからない。
女性はしばらく下皿を覗いたまま固まっていたが、やがて腰の革袋に手を伸ばした。袋を逆さにして振ってみる。
何も出てこない。
もう一度、今度は少し強く振る。
からっぽの革袋が、頼りなく揺れるばかり。
「…………」
女性の口が半開きになった。
「……全部、なくなっちゃった」
隣の男が何とも言えない顔を向ける。それでも女性は、もう周囲の視線など気にする様子もなく、力なく椅子の背もたれに身体を預けて煌びやかな天井を仰いだ。
「あは……あははは……」
乾いた笑いが漏れる。
「いやぁ……参ったわねぇ……」
懐から煙草入れを取り出して一本を口に咥え、火をつける。深く吸い込んだ煙を吐き出すと、白い筋が天井へ向かって細く立ち昇っていった。
周囲では相変わらず軽快な音楽が鳴り、コインの払い出し音に客の歓声が重なっている。その賑わいの中、女性は煙草を指に挟んだまま天井を見上げていた。
かつて王都アクロポリスのティア大聖堂で、女神ティアから直々に祝福を授かった少女。
人々を救うことを誓い、その名を広く知らしめた聖女。
その名は、グロリア。
二十六歳。
現在は開拓都市ホープロードにて、ギルド『雲外蒼天』のギルドマスターを務めている。
そして今、その元聖女はカジノで全財産を失い、途方に暮れていた。
「…………ルルちゃん、前借りさせてくれるかなぁ」
グロリアは天井を見上げたまま、力なく呟く。
しばらく煙草を吸い続け、短くなった吸い殻を灰皿に押しつける。口元に浮かぶのは、諦めの混じった苦笑いだった。
「……無理だろうなぁ」
返事の代わりに聞こえてくるのは、陽気な遊技機の音ばかりだった。




