第15話 元聖女、女王と対峙する
「……何!?」
森の奥から轟いた咆哮が、グロリアの声をかき消した。
木々が激しく揺れ、枝の折れる音が次々と響く。茂みの向こうでは太い幹が軋み、何か巨大なものが近づいてくるにつれ、足元の土まで震え始めた。
「……来る」
ソレイユは食べかけのスモークチーズを革袋へしまい、クロスボウを構えた。
その視線の先で、一本の木がゆっくりと傾く。
幹を押しのけて現れたのは、黒々とした毛皮に覆われた巨大な獣だった。
先ほど仕留めたブラックベアと同じ姿をしている。しかし、その体格は比較にならない。盛り上がった肩の筋肉は岩のように分厚く、四肢は大木の幹を思わせるほど太い。
長い爪が土を抉り、歩くたびに肩が枝を折る。茂みを押し潰して全身を現した巨獣に、五人の視線が集まった。
「……ちょっと。何よ、あれ……」
グロリアの笑みが消えた。
「な、なんという巨体でござるか……!」
エストはレイピアを抜き、半身になって構える。その傍らで、レネットも大きな橙色の帽子のつばを持ち上げた。
「わぁ~……おっきいねぇ~」
「いやぁ、こいつはまた立派だねぇ」
アパッチは穏やかな声を漏らしながらも、すでに杖へ手を掛けている。
巨大なブラックベアは五人へ目を向けず、地面に横たわるオスの死骸へ近づいた。
鼻先を寄せ、何度か匂いを嗅いだあと、前脚でその身体を押す。反応がないと見るや、今度は力を込めて揺さぶった。
低い唸り声を漏らしながら、ブラックベアはゆっくりと頭を持ち上げる。
その様子を眺めていたグロリアは、ふとオスの両前脚へ目を留めた。
深く刻まれた幾筋もの古傷。
「……まさか、あの傷って……」
「いやぁ、ずいぶん大きな奥さんだねぇ」
アパッチの一言に、グロリアは何ともいえない顔になる。
「……恐妻家だったのかしらねぇ。さしずめ、ブラッククイーンってところかしら?」
「……ユニーク」
その直後、メスのブラックベアが牙を剥いた。
凄まじい咆哮が森を震わせ、レネットの帽子が揺れる。オスの死骸を跨いだブラッククイーンは、まっすぐ五人へ向かってきた。
「っと、冗談言ってる場合じゃなかったわねぇ!」
アパッチは背負った鞄から、先ほどの火炎杖とは別の一本を取り出した。独特な形状の杖頭には、加工された魔力触媒が組み込まれている。
「……アパッチくん。それ、まさかまた試作品じゃないでしょうねぇ?」
「うん、今度は別の仕組みを試してみようと思ってねぇ」
「真面目にやりなさいよぉ!」
叱られたアパッチは、手元の触媒を少し名残惜しそうに眺めた。
「そうだねぇ。今回はちょっと大きすぎるか」
右手には新しい杖、左手には魔力石の砕けた杖。
二本を左右へ開き、褐色の巨漢はブラッククイーンの正面に立った。
「グロリアさん、レネットちゃんと下がっていてね」
「言われなくてもそうするわよぉ! アパッチくん、頼んだわよ!」
グロリアはレネットを促して後方へ退く。太い幹が並ぶ木立まで距離を取り、二人は前方を見渡せる位置に身を寄せた。
その間にも、ブラッククイーンは猛烈な勢いで迫っていた。
丸太のような前脚を右の杖で逸らし、続く爪を左の杖で捌く。アパッチは隙を突いて懐へ踏み込もうとしたものの、相手はすぐさま向きを変え、反撃を許さない。
左右から迫る前脚を二本の杖で捌くものの、反撃に転じる隙がない。足元を抉られるたびに、アパッチは後退を余儀なくされた。
「いやぁ、こいつはなかなか手強いねぇ」
普段と変わらない声とは裏腹に、煤の残った額には汗が滲んでいる。
再び前脚が振り上げられた、そのとき。
ブラッククイーンの頭のすぐ脇で閃光が弾けた。
立て続けの爆発が顔面を襲い、黒い毛皮が炎と煙に包まれる。アパッチが間合いを取る間にも、さらに一本のボルトが爆煙へ飛び込んだ。
木の上ではソレイユがクロスボウを構えていた。紫色の羽根飾りが枝葉の間から覗き、眠たげな目は煙の中心を追っている。
新たな爆発が起こり、獣の姿が見えなくなった。
「やったの~?」
後方からレネットの声が届いた直後、煙の奥で低い唸り声が響く。
煙を振り払って現れたブラッククイーンは、顔の半分が焼け焦げ、血に濡れていた。それでも勢いは衰えず、再び牙を剥く。
「……ちっ。頭、吹っ飛ばしてR15指定にするつもりだったのに」
「何言ってんの!? 作者が困るからやめなさいよぉ!」
グロリアの怒声をよそに、ソレイユは次のボルトを装填する。
眼下ではアパッチが再び獣を引きつけていた。前脚を受け流した杖が脇腹を打ち、巨体がわずかに傾く。
その隙へ、エストが駆け込んだ。
「拙者も参るでござる!」
アパッチの脇を抜けて側面へ回り込み、レイピアを突き込む。細身の刃は分厚い毛皮を貫き、ブラッククイーンの脇腹へ深く沈んだ。
しかし、引き抜こうとした腕が止まる。
「……むっ!?」
柄を握り直しても、刃はびくともしない。
分厚い筋肉に締めつけられ、レイピアは肉の奥に固定されていた。踏ん張って力を込めるものの、ブラッククイーンが身を捩るたびに腕ごと引っ張られてしまう。
その頭がエストへ向いた。
巨大な前脚が持ち上がり、鋭い爪が頭上へ迫る。
「エストくん!」
後方からレネットの声が響いた。
足元に琥珀色の魔法陣が広がり、鮮やかな橙色の光がエストを包み込む。
前脚が地面を抉ったとき、そこに彼の姿はなかった。
グロリアたちが控える木立のそばに光が灯り、レネットの目の前へエストが現れる。
「危なかったねぇ~、エストくん!」
「かたじけない、レネット殿! まさか、あの筋肉に刃を捕らえられるとは……!」
エストは空になった右手を見下ろした。
レイピアはまだブラッククイーンの脇腹に突き刺さったまま。獣が暴れるたび、肉から突き出した柄が激しく揺れている。
「……これは、ちょっと骨が折れるわねぇ」
前方ではアパッチが押されながらも持ちこたえ、ソレイユが樹上から射撃を続けていた。しかし、杖の一撃もボルトも、先ほどのオスほどには効いていない。
グロリアは胸元の金色のロザリオを握り、頭上へ掲げた。
「気張りなさい、あんたたち!」
凛とした声に応えるように、ロザリオが眩い輝きを放つ。
幾筋もの金色の光が木々の間を駆け抜け、仲間たちへ降り注いだ。アパッチの逞しい身体と二本の杖、樹上のソレイユが構えるクロスボウにも光が宿り、エストとレネットも柔らかな輝きに包まれる。
やがて光はそれぞれの身体と装備に溶け込み、淡い金色の輝きを残した。
「おおっ……! これならば、まだ戦えるでござる!」
エストは包帯の巻かれた拳を握り締め、ブラッククイーンを見据えた。
「そういうことよぉ。あんたたち、頼んだわよ!」
直後、ブラッククイーンの前脚がアパッチへ振り下ろされた。
金色の軌跡を描いた右の杖がその一撃を弾き返し、アパッチは間合いを詰めた。続く左の杖が顎を打ち上げ、ブラッククイーンが数歩よろめく。
「いやぁ、これはありがたいねぇ」
反撃しようとする獣の前脚を、アパッチは左の杖で押さえ込み、右の杖で肩を強打した。巨体が後ずさったところへ、樹上から金色の尾を引くボルトが飛来する。
ソレイユの狙いは前脚の関節。厚い毛皮を貫いたボルトが深く食い込み、続く二本も同じ箇所を射抜く。ブラッククイーンの踏み込みが鈍った。
「……エスト。剣、右」
短い声に、エストが顔を上げた。
レイピアはブラッククイーンの右脇腹。アパッチが正面から注意を引きつけ、ソレイユの射撃も反対側へ集中している。
「レネット殿、頼めるでござるか!」
「うんっ!」
エストの足元に琥珀色の光が走り、その姿が消えた。
ブラッククイーンの右脇腹に橙色の閃光が弾け、エストが現れる。
突き出したレイピアの柄を握ると、エストの手から金色の光が伝わり、刀身を淡く輝かせた。
「ぬぅぅ……!」
足を踏ん張り、全身に力を込める。筋肉に捕らえられていた刃が肉を裂き、今度は確かに動いた。エストは一息にレイピアを引き抜き、その勢いのまま後方へ跳ぶ。
追いすがる巨大な前脚を、横から飛び込んだアパッチの杖が打ち払った。
「助かったでござる、アパッチ殿!」
「いやぁ、よかったねぇ。これでまた一緒に戦えるよ」
ブラッククイーンが咆哮し、両前脚を力任せに振り回した。
爪が草木を薙ぎ払い、折れた枝が宙を舞う。それでもアパッチは退かず、二本の杖で攻撃を捌きながら、相手の正面へ回り込んでいった。
その頭上では、ソレイユが隣の木へ移っている。広いつばの帽子が枝葉に紛れ、クロスボウの先端だけが獣の動きを追っていた。
ブラッククイーンの攻撃が一瞬途切れた。
アパッチは大きく踏み込み、左右の杖を振るう。前脚を打ち払って懐を開くと、間髪入れずに胸元へ二本の杖を叩き込んだ。
「よいしょっと!」
鈍い衝撃音とともにブラッククイーンが仰け反り、両前脚が地面から離れる。
「……そこ」
樹上から金色の尾を引いた爆発ボルトが放たれた。
胸元へ突き刺さった瞬間、轟音とともに炎が噴き上がる。分厚い毛皮が裂け、その下の肉まで大きく抉れた。
さらに二本目が、露わになった傷口へ飛び込む。
激しい爆発に鮮血が飛び散り、ブラッククイーンが苦痛の咆哮を上げた。
胸元を血で濡らしながらも暴れる獣を、アパッチが二本の杖で牽制する。
「エストくん、今だよ!」
少し離れた位置で、エストが腰を落とした。
金色に輝くレイピアを両手で正面に構える。その切っ先は、爆発によって深く傷ついた胸元へ向けられていた。
エストは地面を蹴り、弾丸のような勢いで巨獣の胸元へ突進した。
レイピアが傷口から深々と突き入り、そのまま心臓を貫く。
しかし、ブラッククイーンは倒れない。
最後の力を振り絞り、左右の前脚でエストを挟み潰そうとする。深く踏み込んだ姿勢からレイピアを引き抜いたものの、迫る爪を避けるには間に合わない。
その足元に、琥珀色の魔法陣が浮かび上がった。
橙色の光が弾け、巨大な前脚同士が激しく打ち合わされる。
そこにエストの姿はない。
グロリアたちが控える木立のそばへ、レイピアを握ったエストが現れた。
その向こうでブラッククイーンがよろめき、前のめりに崩れ落ちる。地響きとともに土埃が舞い上がり、周囲の木々が揺れた。
しばらく後脚が痙攣していたが、やがて動かなくなった。
森に静けさが戻る。
エストはレイピアについた血を払い、荒くなった呼吸を整えた。
「……今度こそ、討伐完了でござるな」
「うん、そうみたいだねぇ」
アパッチも二本の杖を下ろし、穏やかに笑う。着流しは煤と泥で汚れ、足元の草履にも土がこびりついていた。
ソレイユは木から降りると、クロスボウを装備帯へ戻した。革袋から先ほどのスモークチーズを取り出し、いつもの眠たげな顔で口へ運ぶ。
「……お腹、空いた」
「さっきから食べてばっかりでしょうがぁ!」
グロリアの声を気にも留めず、ソレイユはチーズを齧っている。
「そうそう、ソレイユちゃん。ルルちゃんとの約束、忘れてないわよねぇ?」
「……忘れてない」
「なら、いいわ」
グロリアは胸元から煙草を取り出した。
火をつけ、深く吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出す。木漏れ日の中へ紫煙が立ち昇り、ようやく肩の力が抜けた。
「ふぅ~……なんとかなったわねぇ」
足元には最初に仕留めたオス。その向こうには、さらに巨大なメスのブラックベアが横たわっている。
二頭を眺めていたグロリアが、煙草をくわえたままぽつりと漏らした。
「……これ、追加討伐報酬って出るのかしら?」
そして、ちらりとレネットへ目を向ける。
大きな橙色の帽子の下で、レネットは困ったような笑顔を浮かべた。
「疲れたし、大きいから分けて運びたいの~」
「……ですよねぇ~」
グロリアの肩ががっくりと落ちる。
オスだけでも相当な大きさだというのに、メスはその倍近くもある。傷んだ部分を除きながら解体するとなれば、骨の折れる作業になりそうだった。
「……今日は解体だけで一日潰れそうねぇ」
煙草を片手に、グロリアは森の木々の隙間から覗く青空を仰いだ。




