第14話 元聖女、獲物を追い詰める
「……婆ちゃんじゃない」
「はいはい、わかったわよぉ。それよりソレイユちゃん、肝心のブラックベアはどうなったの?」
グロリアが話を戻すと、ソレイユはスモークチーズを口に運びながら、森の奥を指さした。
「……見つけた。大きいオス。両方の前脚に、傷がいっぱい」
「あら、ちゃんと調べてたのねぇ。だったら、さっさと帰って報告してちょうだいよぉ。ルルちゃんが心配してたでしょうが」
「……日向ぼっこ、気持ちよかった」
「それはもう聞いたわよ!」
グロリアの怒声にも動じず、ソレイユは残っていたスモークチーズをゆっくりと噛みしめる。つばの広い紫色の帽子の下では、相変わらず眠たげな目が細められていた。
「まったく……。まあいいわ。せっかくここまで来たんだし、そのブラックベアも仕留めて帰りましょう。案内お願いねぇ」
「……ん」
スモークチーズの入った革袋を腰へ収め、ソレイユは木々の間へ歩き出す。先ほどまで日向ぼっこをしていたのが嘘のように、その足取りには迷いがない。
森の奥へ進むにつれ、木々の幹には深い爪痕が目立ち始めた。湿った土には大きな足跡が続き、折れた枝には黒い毛が絡んでいる。ソレイユはそれらを一瞥するだけで進路を選び、落ち葉の積もった斜面や倒木の上を軽やかに進んでいく。
「いやぁ、これはまた立派な爪痕だねぇ」
アパッチが幹に刻まれた傷を眺める。その幅は大柄な男の手を広げても収まらないほどで、エストもレイピアの柄に手を添えながら周囲を警戒していた。
やがてソレイユが片手を上げる。
「……近い」
木立の向こうから枝の折れる音が響き、五人の足が止まる。続いて聞こえてきたのは、重いものが地面を踏みしめる鈍い音。
ソレイユが茂みを押し分けると、その先には黒々とした巨体があった。
ブラックベア。
分厚い毛皮に覆われた胴体は樽のように太く、四肢は逞しい筋肉に包まれている。地面を掻く爪も鋭く、通常個体を明らかに上回る体格だ。
とりわけ目を引くのが、両前脚に刻まれた幾筋もの古傷。黒い毛並みを分断するように傷跡が交差し、一部は白く変色していた。
「……あら? 思ってたより小さいわねぇ」
巨体を眺めていたグロリアが、少し意外そうな顔をする。
「いやぁ、普通のブラックベアよりずっと大きいと思うけどねぇ」
「それはそうなんだけど。依頼の話を聞いたときは、もっととんでもないのを想像してたのよ」
ブラックベアが鼻を鳴らし、五人の方へ頭を向ける。低い唸り声とともに大きな口が開き、鋭い牙が露わになった。
それでもグロリアは慌てる様子もなく、薄い色の丸眼鏡越しに獲物を見定めている。
「ま、何にせよ副収入のチャンスよ! みんな、毛皮はなるべく綺麗に残してちょうだいねぇ!」
「はっはっは! 承知でござる!」
エストのレイピアが鞘から抜かれ、その細い刃が木漏れ日を受けて輝く。ソレイユも装飾の施されたクロスボウを手元に引き寄せた。
一方、アパッチが背負い鞄から取り出したのは、先端に赤い魔力石を埋め込んだ一本の杖。骨と爪を加工した装飾には、先日手に入れたダイアウルフの素材が使われている。
「いやぁ、ちょうどいい機会だねぇ。さっそく試してみようか」
「……ちょっとアパッチくん。あんた、何する気?」
「この前作った火炎杖だよ。まだ一度も試してないからねぇ」
「さっきの話聞いてた!? 毛皮を綺麗に残してって言ったでしょうがぁ!」
「大丈夫、大丈夫。理論上は普通の火球が飛ぶはずだから」
「その理論上っていうのが信用できないのよぉ!」
グロリアの抗議を聞き流し、アパッチは杖先をブラックベアへ向ける。
「燃え盛る炎よ、我が前に集いて――」
「だから待ちなさいってばぁ!」
「――ファイアボール」
赤い魔力石が眩い光を放った。
その輝きは瞬く間に強まり、石の内部を走る亀裂から閃光が漏れ出す。アパッチの穏やかな笑みが、わずかに不思議そうなものへ変わった。
「あれぇ?」
次の瞬間、轟音とともに杖の先端が爆発した。
黒煙が勢いよく噴き上がり、周囲に土埃が広がる。グロリアは咄嗟に両腕で顔を庇い、レネットは大きな橙色の帽子を押さえて身を縮めた。
「きゃあっ!?」
エストも思わず後ずさるなか、煙の中心には人影が一つ。
赤いマンバンから草履の先まで、全身煤にまみれたアパッチである。杖先の魔力石は粉々に砕けていたが、本人はその破片を眺めて首を捻るばかり。
「……いやぁ、おかしいなぁ。ちゃんと火球になるはずだったんだけどねぇ」
「だから言ったでしょうがぁ!!」
グロリアの怒声が森に響き渡る。
エストとレネットは互いの顔を見合わせ、揃って何ともいえない表情を浮かべた。
「……えぇ~……」
そして、ブラックベアまでもが口を半開きにし、煤だらけの大男を呆然と見つめていた。
しばしの沈黙。
やがて我に返ったブラックベアが激しく唸り、アパッチへ向かって突進する。巨体が地面を蹴るたびに落ち葉が舞い上がり、巨大な前脚が頭上から振り下ろされた。
アパッチは壊れた杖を両手で握り直し、斜めに構えて迎え撃つ。
まともに受ければ身体ごと押し潰されかねない一撃。しかし、杖に前脚が触れた瞬間、アパッチはその勢いに逆らわず、角度を変えて横へ受け流した。
行き場を失った前脚が地面を叩き、ブラックベアの上体が大きく傾く。
「よっと」
その懐へ踏み込むと同時に、アパッチの杖が唸りを上げた。
横っ面を打ち抜かれたブラックベアは、巨大な頭を跳ね上げられ、四肢をもつれさせながら横倒しになる。重い胴体が地面を叩き、周囲に土埃が舞い上がった。
「いやぁ、やっぱりこっちは安定してるねぇ」
「最初からそうしなさいよぉ!」
グロリアの怒鳴り声を背に、ソレイユが倒れたブラックベアへクロスボウを向ける。
眠たげな表情は変わらない。
「……臓物をぶち撒けろ」
「ちょっとソレイユちゃん! あんた、爆発ボルト使うつもりでしょう!?」
グロリアが慌てて制止する。
「爆発ボルトなんて使わなくても仕留められるでしょ!? 普通のボルトを使いなさいよぉ!」
ソレイユはしばらくグロリアを見つめていたが、やがて小さく舌打ちした。
「……ちっ」
クロスボウのカートリッジを外し、通常ボルトを収めたものへ交換する。その手つきは手慣れたものだったが、明らかに不満そうな顔つきである。
「……まったく、どいつもこいつも……」
グロリアがぼやく間に、倒れたブラックベアが巨体を起こし始めた。
アパッチの一撃はよほど効いたらしく、四肢はふらつき、頭も低く垂れたまま。足元の土を掻いてどうにか体勢を整えるものの、先ほどまでの勢いは見られない。
「いやぁ、思ったより効いたみたいだねぇ」
アパッチが杖を構え直す。
ブラックベアは低く唸りながら五人を睨みつけていたが、やがて身を翻し、森の奥へ逃げようとした。
「あっ、逃げるわよ! エストくん、お願い!」
「承知でござる!」
グロリアの声に応じてエストが駆け出す。緑色の外套を翻し、木々の間を抜けてブラックベアの前へ回り込んだ。
逃げ道を塞がれた熊は後脚で立ち上がり、巨体をさらに大きく見せる。頭上から振り下ろされる太い前脚を、エストは身を沈めて回避。そのまま懐へ飛び込むと、レイピアの切っ先がブラックベアの顔面を鋭く突いた。
血が散り、苦痛の咆哮が森を揺らす。
ブラックベアが後退しようとしたところへ、ソレイユのクロスボウからボルトが続けざまに放たれた。
狙いは後脚。
次々と突き刺さるボルトに脚の踏ん張りが利かなくなり、巨体が大きく傾いた。
その瞬間、アパッチが地面を蹴る。
二メートル近い巨躯からは想像もつかないほどの速さで距離を詰め、両手に握った杖を大きく振りかぶった。
「エストくん、下がっておくれ!」
「承知!」
エストが素早く身を引いたことで、ブラックベアとの間に一筋の道が開く。
そこへ踏み込んだアパッチの全身が大きく捻られ、杖が弧を描いた。
振り抜かれた一撃が、ブラックベアの顔面を正面から捉える。
巨大な頭が弾かれ、巨体は後ろへ倒れ込んだ。太い四肢が地面を叩き、落ち葉を巻き上げながらもがく。しかし、その動きも長くは続かず、やがて完全に静まり返った。
エストはレイピアを構えたまま慎重に近づき、しばらく様子を確かめる。
「……うむ。息絶えたようでござる! いやはや、さすがアパッチ殿! 見事な一撃でござった!」
「ははは。エストくんとソレイユちゃんが隙を作ってくれたおかげだねぇ」
煤だらけの顔で穏やかに笑うアパッチに、エストも満足そうな笑みを返した。
その横を通り過ぎたグロリアは、早くもブラックベアの毛皮を調べ始めている。顔面や後脚には傷が残っているものの、胴体の黒々とした毛並みには目立った損傷もない。
「あら、思ったより綺麗に残ってるじゃない! これなら十分高値がつきそうねぇ!」
上機嫌で毛並みを確かめていたグロリアの隣に、エストがしゃがみ込む。
「……それにしても、妙でござるな。この古傷、いったい何と争えばこれほどのものを負うのでござろうか」
両前脚には何本もの傷が交差し、とりわけ深い箇所には毛も生え揃っていない。実際に近くで見ると、離れたところからではわからなかった傷の深さが際立っていた。
「そうねぇ……確かにちょっと気になるわね」
グロリアは傷跡をしばらく眺めたが、やがて肩をすくめる。
「まあ、森の奥にはもっと強い魔物もいるでしょうし、珍しいことでもないんじゃない?」
「ふむ……そういうものでござろうか」
エストがもう一度傷を確かめていると、その背後からアパッチの独り言が聞こえてきた。
「いやぁ、触媒の分量かなぁ……。それとも術式の伝達部分をもう少し調整したほうが……いや、魔力石の比率かもしれないねぇ」
振り返ったグロリアの目に入ったのは、煤だらけのまま砕けた魔力石を調べるアパッチと、少し離れた木の根元でスモークチーズを食べるソレイユだった。
「……ほんっと、自由な連中ねぇ」
「ははは。次はきっとうまくいくと思うよ、グロリアさん」
「次も爆発する未来しか見えないんだけど……」
そんなやり取りにもお構いなしに、ソレイユはスモークチーズを口へ運んでいる。
グロリアは呆れた顔をしながらも、ブラックベアの死骸へ向き直った。
「さて、と。レネットちゃん、これ街の解体場までお願いできる?」
「うん、いいよ~!」
大きな鞄を揺らしながら、レネットがブラックベアへ近づいていく。
その巨体に手を伸ばした、そのときだった。
森の奥から、凄まじい咆哮が轟いた。
腹の底まで震わせるような重低音が木々の間を駆け抜け、枝葉が激しく揺れる。鳥たちは一斉に飛び立ち、周囲の大気までもが震えていた。
レネットが思わず手を引っ込め、エストは反射的にレイピアへ手を伸ばす。ソレイユもスモークチーズを食べる手を止め、音のした方向へ顔を向けた。
グロリアの表情から、それまでの笑みが消える。
「……何!?」




