第9話 見上げるようになった旦那様
「おはようございます、リゼット」
朝の光が差し込む窓辺で、低く穏やかな声がした。
リゼットは、手にしていたティーポットを危うく取り落としそうになった。
振り返ると、いつの間にか真後ろに、背の高い青年が立っている。
「こ、公爵様。驚かせないでください」
「すみません。声をかける前に、リゼットの髪が目に入ったので」
ユリアンは柔らかく微笑んで、リゼットの手からそっとティーポットを取り上げた。
見上げなければ、その顔が見えない。
あの日、リゼットの肩ほどしかなかった少年は、今では頭ひとつ分以上も高くなっていた。
(いつの間に、こんなに大きくなったのかしら)
リゼットがこの屋敷に来てから、七年あまりが過ぎていた。
ユリアンは十七歳。
リゼットは、二十五歳になった。
王宮の監査が入ってから、公爵家は少しずつ変わっていった。
辞めさせられていた使用人たちが呼び戻され、屋敷には人の声が戻った。
暖炉には、どの部屋にも十分な薪がくべられるようになった。
オズワルドは、今も後見人として東棟に住んでいる。
けれど、財務の実権を失ってからは、以前のように大きな顔をすることはなくなった。ユリアンと顔を合わせても、苦々しげに目を逸らすだけだ。
そして、朝食の時間も戻ってきた。
窓辺の小さな丸テーブルは、いつの間にか、二人で使うには少し大きめの白いテーブルに変わっていた。
ユリアンが成長するにつれて、あの小さなテーブルでは足がぶつかるようになったからだ。
「リゼット、座ってください。お茶は僕が淹れます」
「公爵様にそんなことをさせるわけには」
「させてください。リゼットに淹れてもらってばかりでしたから」
ユリアンは慣れた手つきで、二つのカップに紅茶を注いだ。
黒い髪は少し伸びて、襟足にかかっている。
すっと通った鼻筋に、切れ長の紫色の瞳。かつての線の細さは、すらりとした長身の美しさに変わっていた。
(本当に、綺麗になったわね)
まるで、自分の弟を誇らしく思うように、リゼットは目を細めた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
カップを受け取るとき、指先が触れ合った。
ユリアンの指は、驚くほど大きく、温かかった。
リゼットの手が、すっぽりと隠れてしまいそうなほどに。
(……っ)
胸が、とくんと小さく跳ねた。
リゼットは慌てて手を引っ込め、紅茶を一口飲んだ。
熱さで舌がひりひりする。
「熱かったですか?」
「い、いえ。大丈夫です」
ユリアンは少しだけ首を傾げ、それから何も言わずに微笑んだ。
その微笑みが、なぜかいつもより甘く見えた気がして、リゼットは視線を落とした。
朝食を終え、リゼットは書庫へ本を返しに行くことにした。
長い廊下を歩き、階段を下りようとしたとき、後ろからすっと手が差し出された。
「足元、気をつけてください」
ユリアンだった。
いつの間に追いかけてきたのか、リゼットの隣に並んで、手のひらを差し出している。
「公爵様、私、子どもではありませんから。階段くらい、ひとりで下りられます」
「知っています。でも、リゼットは時々、考え事をしながら歩くので」
確かに、去年の冬、考え事をしていて階段を踏み外しかけたことがある。
そのときもユリアンが支えてくれたのだった。
リゼットは少し迷ってから、その手に自分の手を重ねた。
ユリアンの指が、そっとリゼットの手を包み込む。
階段を一段下りるたびに、大きな手が優しく導いてくれる。
(どうしてかしら。昔は、私があの子の手を引いていたのに)
嵐の夜、震える小さな手を握ったことを、今もはっきりと覚えている。
それなのに今は、自分の手のほうが、すっかり包まれてしまっている。
階段を下りきっても、ユリアンは手を離さなかった。
「……公爵様? もう、下りましたよ」
「ええ。書庫まで、送ります」
「すぐそこですけれど」
「すぐそこでも、です」
ユリアンは穏やかに微笑んだまま、リゼットの手を引いて歩き出した。
すれ違った若い侍女が二人、慌てたように頭を下げる。
その頬が、なぜか赤く染まっていた。
書庫でユリアンと別れたあと、本棚の陰で、リゼットは侍女たちの小声の会話を耳にしてしまった。
「見た? 旦那様、また奥様の手を引いていらしたわ」
「旦那様って、本当に奥様しか見ていらっしゃらないのよね。王都の夜会でどれだけご令嬢に囲まれても、全然お相手なさらないんですって」
「それなのに、来年には離縁なさるんでしょう? 信じられないわ」
リゼットは、本を持つ手をぎゅっと握りしめた。
(違うのよ。あの子は、私を家族だと思ってくれているだけ)
七年も一緒にいたのだ。
姉のような、母のような存在として、慕ってくれているだけ。
(それに、私は八つも年上だもの)
公爵家の当主には、もっとふさわしい人がいる。
若くて、家柄がよくて、隣に立って見劣りしない令嬢が。
リゼットは、そっと胸に手を当てた。
さっき跳ねた心臓が、まだ少しだけ落ち着かない。
(これは……きっと、寂しいだけ。あの子が大人になって、手を離れていくのが)
その夜、自室に戻ったリゼットは、壁にかけた暦を見つめた。
ユリアンの十八歳の誕生日。
その日付には、小さく印をつけてある。
あと、十か月。
契約が終わる日まで、もう一年もない。
リゼットは、引き出しの奥から古びた婚姻契約書の写しを取り出した。
七年前、震える指で署名した書類。
そこには、はっきりと書かれている。
――公爵ユリアン・アーデルハイトが満十八歳に達した日をもって、本婚姻は解消されるものとする。
「……大丈夫。ちゃんと、笑って出ていける」
自分に言い聞かせるように、リゼットは小さく呟いた。
髪に結んだ淡い青色のリボンが、灯りの中でかすかに揺れていた。




