第10話 実家からの手紙
その手紙が届いたのは、初夏のことだった。
差出人の名前を見た瞬間、リゼットの指先が冷たくなった。
――カトリーヌ・ベルナール。
継母からの手紙など、嫁いでからの七年間、一度も届いたことがなかった。
誕生日にも、新年にも。リゼットがどうしているのか、気にかけたことなど一度もないはずだ。
(今さら、何の用かしら)
嫌な予感がした。
リゼットは自室の椅子に座り、ゆっくりと封を切った。
手紙は、短かった。
そして、読み進めるほどに、リゼットの顔から血の気が引いていった。
――来年の離縁の後は、すぐに家へ戻ってくるように。
――あなたの再婚先は、こちらで決めておきました。グラウバー伯爵が、ぜひにと仰っています。
――先方からは、十分な支度金をいただくことになっています。今度こそ、家の役に立ちなさい。
グラウバー伯爵。
その名前には、聞き覚えがあった。
六十を過ぎた老伯爵で、これまでに三人の妻を迎えている。そのうちの二人は病で亡くなり、一人は逃げ出したと噂されている人物だ。
(また……売られるのね)
手紙を持つ手が、小刻みに震えた。
七年前と、何も変わらない。
継母にとって、自分はただ、高く売れる品物でしかないのだ。
(離縁されて、行き場のない女。あの人たちは、そうなるのを待っていたんだわ)
公爵家からの慰謝料も、きっと継母が取り上げるつもりなのだろう。
そしてまた、別の家へ売り飛ばす。
リゼットは、手紙を握りしめた。
戻りたくない。
あの冷たい家に、二度と戻りたくない。
(でも、どこへ行けばいいの)
身寄りもない。
頼れる親戚もいない。
仮の妻として八年を過ごした伯爵令嬢が、離縁されて一人きりで生きていける場所など、そう多くはない。
(……働けばいい)
リゼットは、ゆっくりと顔を上げた。
刺繍や裁縫なら、人並み以上にできる。
帳簿も読めるし、子どもの世話にも慣れている。
(どこか遠くの家で、家庭教師や侍女として雇ってもらえれば)
実家の手が届かない、遠い場所へ。
誰も自分のことを知らない場所で、静かに暮らしていけばいい。
そう考えると、少しだけ、呼吸が楽になった。
「リゼット、顔色が悪いですね」
その夜の夕食の席で、ユリアンが心配そうに眉を寄せた。
公爵家の食卓は、今では二人で囲むのが当たり前になっていた。
オズワルドは、東棟で一人で食事をとることがほとんどだ。
「いえ、少し暑さにあたっただけです」
リゼットは微笑んで誤魔化した。
実家のことで、ユリアンを煩わせたくなかった。
来年には離縁する相手に、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
「本当ですか?」
「ええ、本当に」
ユリアンはしばらくリゼットの顔をじっと見つめていた。
紫色の瞳が、何かを探るように細められる。
リゼットは、思わず視線を逸らした。
「……それなら、いいのですが。何かあったら、必ず僕に言ってください」
「はい」
それきり、ユリアンは何も言わなかった。
けれど、食事の間じゅう、その視線がずっと自分に向けられているのを、リゼットは感じていた。
翌日の昼下がり、リゼットは庭の東屋で刺繍をしていた。
手を動かしていれば、余計なことを考えずにすむ。
そう思って針を進めていたとき、ふと、東棟のほうに目が向いた。
東棟の裏手の通用門に、一台の馬車が止まっていた。
紋章を隠すように、布がかけられている。
けれど、その馬車の形には見覚えがあった。
(あれは……ベルナール家の馬車?)
リゼットは、思わず腰を浮かせた。
実家の馬車が、なぜこんなところに。
それも、正面の玄関ではなく、人目につかない東棟の裏に。
目を凝らしていると、東棟の扉が開いて、女性が一人出てきた。
扇で顔を隠しているけれど、あの派手な色のドレスと、気取った歩き方。
間違いない。継母のカトリーヌだった。
その後ろから、見送るようにオズワルドが姿を見せた。
二人は短く何か言葉を交わし、カトリーヌは素早く馬車に乗り込んだ。
馬車は、逃げるように通用門を出ていった。
(お義母様と、叔父様が……?)
リゼットは、刺繍枠を握りしめたまま立ち尽くした。
二人に接点があるなど、聞いたことがない。
七年前の縁談のときでさえ、話はすべて書面と使者を通して進められたはずだ。
(どうして、こそこそと……)
胸の奥に、冷たいものが広がっていく。
昨日の手紙。
そして、今日の密会。
無関係とは、とても思えなかった。
その夜、リゼットはなかなか寝つけなかった。
ユリアンに話すべきだろうか。
けれど、確かなことは何もない。継母と叔父が会っていた、ただそれだけだ。
(それに、これは私の実家の問題だもの)
ユリアンは、ようやく叔父の手から公爵家を取り戻しつつある。
来年には成人して、正式に当主としてすべてを背負うことになる。
その大切な時期に、出ていく自分のことで、余計な心配をかけたくなかった。
リゼットは寝台から起き上がり、机の引き出しを開けた。
継母からの手紙を取り出して、灯りにかざす。
燃やしてしまおうかと思って、結局、できなかった。
(……来年まで、何も起こらなければいい)
手紙を引き出しの奥にしまい込み、リゼットは灯りを消した。
翌朝、リゼットが朝食に向かったあと、部屋の掃除に入った侍女が、机の下に落ちていた一枚の紙を拾い上げた。
慌ててしまい込んだときに、封筒から滑り落ちたのだろう。
継母からの手紙の、二枚目だった。
侍女はそれを、侍女長のマーサに届けた。
マーサは手紙に目を落とし、静かに唇を引き結んだ。
そして、そのまま当主の執務室へと向かった。
その日の午後、執務室の机の前で、ユリアンは一枚の手紙を読み終えた。
グラウバー伯爵。
支度金。
今度こそ、家の役に立ちなさい。
ユリアンは、手紙を静かに机の上に置いた。
その紫色の瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。
ただ、底の見えない冷たさだけが、静かに沈んでいる。
「……マーサ。ありがとう。リゼットには、知らせないでおいてくれ」
「かしこまりました」
マーサが下がったあと、ユリアンは窓の外に目を向けた。
庭の東屋で、リゼットが刺繍をしている。
淡い青色のリボンが、風に揺れていた。
ユリアンは、しばらくその姿を見つめていた。
そして、誰にも聞こえない声で、小さく呟いた。
「……誰にも、渡さない」




