第8話 王都へ行った旦那様
冬の終わり、ユリアンは十二歳になった。
王宮から一通の書状が公爵家に届いたのは、それから間もない雪解けの頃だった。
「国王陛下の生誕祭に、今年十二歳を迎える貴族の子息を招く……?」
食堂で書状を読み上げたオズワルドは、あからさまに顔をしかめた。
この国では、十二歳を迎えた貴族の子どもが、王の生誕祭で陛下に拝謁するしきたりがある。
次代を担う者として、顔を覚えていただくための儀式だ。
「ふん。くだらん。ユリアンは体が弱いと、欠席の返事を出しておけ」
「それはできません、叔父上」
静かな声が、オズワルドの言葉を遮った。
ユリアンだった。
食堂の入り口に立ち、まっすぐにオズワルドを見ている。
「陛下からの直々のお招きです。断れば、公爵家が陛下を軽んじたと思われます。……叔父上も、後見人として責任を問われるのではありませんか」
オズワルドの顔が、みるみる赤くなった。
けれど、反論はできなかった。
王の招きを、後見人の一存で断ることなどできないのだ。
「……勝手にしろ。ただし、余計な口は利くなよ」
吐き捨てるように言って、オズワルドは書状を放り出した。
出発の朝、リゼットは玄関までユリアンを見送りに出た。
同行するのは、マーサと、その息子である御者だけだった。
オズワルドは、見送りにすら姿を見せなかった。
「王都まで、三日はかかるそうですね。道中、お体に気をつけてください」
リゼットは、ユリアンの外套の襟を直しながら言った。
この一年で、ユリアンの背はまた少し伸びた。
それでも、まだリゼットの肩ほどの高さしかない。
「寒くなったら、ちゃんとマーサさんに言うのですよ。それから、陛下の前では緊張しすぎないように。いつもの公爵様なら、きっと大丈夫ですから」
「……リゼット、母上みたいです」
「まあ」
リゼットが目を丸くすると、ユリアンは少しだけ口の端を上げた。
それから、ふいに真面目な顔になって、リゼットを見上げた。
「リゼット。僕がいない間、叔父上には近づかないでください」
「え?」
「何か言われても、相手にしないで。マーサがいなくても、厨房のハンナがいます。困ったら、ハンナに」
厨房のハンナは、マーサが信頼している古株の料理人だ。
ユリアンがいつの間に、そこまで屋敷の使用人のことを把握していたのか。
(この子は、本当によく見ているのね)
「分かりました。公爵様も、気をつけて」
リゼットが微笑むと、ユリアンはこくりと頷いた。
そして馬車に乗り込む直前、振り返って言った。
「行ってきます、リゼット」
「いってらっしゃいませ、公爵様」
ユリアンのいない屋敷は、驚くほど静かだった。
夜になっても、読み聞かせをする相手がいない。
暖炉の前に座っても、隣は空っぽだ。
(たった十日ほどなのに……)
リゼットは、膝の上の童話集を閉じた。
寂しい、と思った。
自分でも驚くほど、はっきりと。
(だめね。あの子が大人になったら、私はいなくなるのに)
今からこんなふうでは、あと六年後には、どうなってしまうのだろう。
リゼットは小さく首を振って、その考えを追い払った。
ユリアンが戻ってきたのは、出発から十二日目の夕暮れだった。
馬車が着いたと聞いて、リゼットは急いで玄関へ向かった。
けれど、そこで目にしたのは、ユリアンだけではなかった。
馬車の後ろに、もう一台。
紋章入りの立派な馬車から降りてきたのは、王宮の文官服を着た男性たちだった。
「……何事だ、これは!」
奥から飛び出してきたオズワルドが、声を荒げた。
文官の一人が、恭しく一枚の書状を広げる。
「国王陛下のご命令により、本日よりアーデルハイト公爵家の財務は、王宮監査官の監督下に置かれることとなりました。後見人殿には、今後すべての支出について、監査官の承認を得ていただきます」
オズワルドの顔から、さっと血の気が引いた。
「な……なぜ、そのような……!」
「当主であるユリアン・アーデルハイト公爵閣下より、家の財務について陛下へご相談があったためと伺っております」
オズワルドが、勢いよくユリアンを振り返った。
ユリアンは、穏やかな顔で叔父を見上げていた。
「叔父上は、いつも家のお金のことで苦労されていましたから。陛下にお願いして、手伝っていただくことにしたんです」
その声には、責める響きなどひとつもなかった。
まるで本当に、叔父を思いやっているかのように。
オズワルドは何か言おうとして口を開き、けれど言葉にならないまま、唇を震わせた。
王の命令に、逆らえるはずがない。
文官たちに促されるまま、オズワルドは書斎へと連れていかれた。
騒ぎが落ち着いた頃、リゼットはようやくユリアンのもとへ駆け寄った。
「公爵様、おかえりなさいませ。……あの、今のは」
「ただいま、リゼット」
ユリアンは、にこりと笑った。
「陛下に、少しお話を聞いていただいたんです。リゼットが書いてくれた数字も、お見せしました」
「私の……?」
リゼットは目を見開いた。
あの日、熱の下がったばかりのユリアンに、何気なく書いて渡した数字の列。
「あれが、とても役に立ちました。ありがとうございます」
「そんな、私は何も……」
戸惑うリゼットに、ユリアンは小さな包みを差し出した。
「これ、お土産です」
包みを開くと、中には淡い青色のリボンが入っていた。
リゼットの瞳と、同じ色だった。
「まあ……綺麗」
「王都の店で、選びました」
ユリアンは少しだけ照れたように視線を逸らした。
それから、何気ない口調で付け加えた。
「それと、陛下に、もうひとつお願いを聞いていただきました」
「もうひとつ?」
「はい。……でも、まだ秘密です」
ユリアンは、唇に人差し指を当てて微笑んだ。
リゼットは首を傾げた。
きっと、叔父のことで何か別の取り決めをしたのだろう。子どもらしい、可愛らしい秘密だ。
「では、いつか教えてくださいね」
「はい。いつか、必ず」
ユリアンは、まっすぐにリゼットを見て頷いた。
その紫色の瞳に、どこか確信めいた光が宿っていることに、リゼットは気づかなかった。
その夜、リゼットは自室の鏡の前で、もらったリボンを髪に結んでみた。
鏡に映る自分は、少しだけ嬉しそうな顔をしていた。
(ずいぶん、大きくなったわね)
玄関で並んだとき、ユリアンの頭は、出発前よりもほんの少しだけ高い位置にあった気がした。
たった十二日で、そんなに変わるはずもないのに。
「あと、六年……」
ぽつりと呟いた声が、静かな部屋に溶けていく。
六年経てば、ユリアンは十八になる。
立派な公爵として、この家を背負って立つ。
そのとき、自分はもう、ここにはいない。
リゼットは、そっとリボンに触れた。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
その痛みの名前を、リゼットはまだ知らなかった。




