第7話 熱を出した日
季節がひと巡りして、ユリアンは十一歳になった。
朝食を共にすることは禁じられたままだった。
けれど二人は、夜の読み聞かせの時間を欠かさなかった。
オズワルドの目を盗んで、マーサがこっそり温かいミルクと焼き菓子を運んでくれる。
扉の前ではなく、部屋の中の暖炉の前で、並んで本を読む。それが、二人だけの小さな秘密になっていた。
ユリアンは、この一年でずいぶん変わった。
背が少し伸び、頬にほんのりと赤みが差すようになった。
相変わらず口数は少ないけれど、リゼットの前では時々、小さく笑うようになった。
(このまま、穏やかに過ごせたらいいのに)
そう願っていた、晩秋の夜のことだった。
その夜、扉を叩いても返事がなかった。
「公爵様? リゼットです」
もう一度叩く。
やはり、返事はない。
胸騒ぎがして、リゼットはそっと扉を開けた。
寝台の上で、ユリアンが毛布にくるまっていた。
眠っているのかと思って近づくと、荒い呼吸の音が聞こえてくる。
「公爵様……?」
額に手を当てた瞬間、リゼットは息を呑んだ。
熱い。
火傷しそうなほどに。
「公爵様、しっかりしてください!」
ユリアンはうっすらと目を開けた。
けれど紫色の瞳は焦点が合わず、ぼんやりと宙をさまよっている。
「……リゼット……?」
「ええ、私です。すぐにお医者様を呼びますからね」
リゼットは部屋を飛び出し、マーサのもとへ走った。
「熱、でございますか……!」
話を聞いたマーサは、すぐに顔色を変えた。
けれど、医者を呼ぶ手配をしようとしたところで、廊下の向こうから冷ややかな声が響いた。
「騒々しいな。何事だ」
オズワルドだった。
夜着の上にガウンを羽織り、面倒そうに眉をひそめている。
「叔父様、公爵様がひどい熱なのです。お医者様を呼んでください」
リゼットが訴えると、オズワルドは鼻で笑った。
「子どもの熱など、一晩寝ていれば下がる。夜中に医者を呼べば、いくらかかると思っているんだ」
「ですが、普通の熱ではありません。息も苦しそうで……」
「くどい」
オズワルドは苛立ったように手を振った。
「公爵家の金を管理しているのは私だ。不要な出費は認めない。……それとも、君が払うのかね? 飾りの妻に、そんな金があるとは思えないが」
冷たい笑みを残して、オズワルドは自室へ戻っていった。
リゼットは、その場に立ち尽くした。
握りしめた拳が、震えている。
(どうして……どうして、あの人はあんなことを言えるの)
ユリアンは、この家の当主だ。
公爵家の金は、本来すべてユリアンのものだ。
その当主が苦しんでいるのに、医者ひとり呼べないなんて。
「奥様……」
マーサが、悔しそうに唇を噛んでいる。
リゼットは顔を上げた。
「マーサさん。この近くに、お医者様はいらっしゃいますか?」
「麓の町に、昔から公爵家をよく診てくださった先生がおられます。ですが、オズワルド様のお許しがなければ、お代が……」
「私が払います」
リゼットは、きっぱりと言った。
マーサが目を見開く。
「奥様、ですが」
「今はお金がありません。でも、離縁のときには慰謝料がいただけます。その中から必ずお支払いすると、私が一筆書きます」
自分が出ていくときのためのお金。
行く場所もない自分が、唯一頼りにできるはずのもの。
それでも、迷いはなかった。
(あの子が苦しんでいるのに、先のことなんて考えていられない)
マーサはしばらくリゼットを見つめていた。
やがて、その灰色の瞳がうっすらと潤んだ。
「……すぐに、息子を町へ走らせます」
一刻ほどして、麓の町から年老いた医者が駆けつけてくれた。
リゼットの差し出した借用書を、医者は黙って受け取った。
そして寝台のユリアンを見るなり、険しい顔になった。
「ずいぶん無理をなさっていたようですな。体が弱っているところに、風邪をこじらせたのでしょう」
薬を飲ませ、額を冷やし、汗を拭う。
医者が帰ってからも、リゼットは寝台の傍を離れなかった。
夜が更けても、ユリアンの熱はなかなか下がらなかった。
時折うなされるように眉を寄せ、何かを探すように手を伸ばす。
そのたびに、リゼットはその手を握った。
「大丈夫。私はここにいますよ」
何度も、何度もそう囁いた。
明け方近く、ユリアンがうっすらと目を開けた。
「……リゼット」
「はい。気がつきましたか? 少しは楽になりましたか?」
ユリアンはぼんやりとリゼットを見つめていた。
それから、繋いだ手に、弱々しく力を込める。
「……夢を、見てました」
「夢?」
「リゼットが、いなくなる夢」
リゼットは、言葉に詰まった。
「馬車に乗って、行っちゃうんです。僕が呼んでも、振り返らなくて」
熱に浮かされた声は、ひどく頼りなかった。
リゼットは、繋いだ手をもう片方の手で包み込んだ。
「私は、まだどこにも行きませんよ。公爵様が大人になるまで、ここにいると約束したでしょう?」
「……大人になったら?」
紫色の瞳が、じっとリゼットを見上げる。
リゼットは、すぐには答えられなかった。
大人になったら、離縁する。
それは最初から決まっていることだ。この家を出て、どこか遠くへ行く。
「……公爵様が立派な大人になったら、もう私がいなくても大丈夫になりますよ」
なるべく優しく、そう言った。
ユリアンは、しばらく黙っていた。
それから、目を閉じて、かすれた声で呟いた。
「……八年じゃ、足りない」
リゼットは、何も言えなかった。
やがて、ユリアンは静かな寝息を立て始めた。
握った手の熱は、少しずつ、穏やかなものに変わっていった。
朝になり、熱はようやく下がった。
ユリアンが眠っている間に、リゼットはマーサの部屋で、薬代と診察代の額を確認していた。
借用書の控えを書き写すため、マーサが屋敷の支出をまとめた帳面を貸してくれたのだ。
(医療費の項目……これね)
何気なく頁をめくっていたリゼットの手が、ふと止まった。
「マーサさん。この『ロウゼン商会』というのは、何のお支払いですか?」
「さあ……オズワルド様がお決めになったお取引先かと。私どもは、何を納めている商会なのか存じません」
リゼットは、眉を寄せた。
毎月、決まって大きな額が、その商会に支払われている。
けれど、それに見合う品が屋敷に届いた記録は、どこにもない。
(実家の帳簿を手伝っていたときにも、似たようなものを見たことがある。あれは確か……)
お義母様が、宝石商への支払いを、別の名目で誤魔化していたときだった。
「……奥様?」
「いえ、何でもありません」
リゼットは帳面を閉じた。
確かなことは、何も分からない。
飾りの妻が口出しできることでもない。
けれど、胸の奥に小さな棘のような違和感が残った。
その日の夕方、目を覚ましたユリアンに、リゼットはその話をそっと聞かせた。
熱が下がったばかりの彼を煩わせるつもりはなかった。
ただ、どこか独り言のように零れてしまったのだ。
「――なんて、私の考えすぎかもしれませんけれど」
笑って誤魔化そうとしたリゼットを、ユリアンはじっと見つめていた。
寝台に体を起こしたまま、まだ少し顔色の悪い頬で。
「……リゼット。その数字、覚えていますか」
「え? ええ、だいたいなら」
「書いてもらえますか。覚えている分だけでいいです」
その声は、熱を出した子どもの声とは思えないほど、静かで落ち着いていた。
リゼットは不思議に思いながらも、紙とペンを手に取った。
ユリアンは書き出された数字の列を、長いこと黙って見つめていた。
やがてその紙を丁寧に折りたたみ、枕の下にしまい込んだ。
「ありがとうございます、リゼット」
そう言って微笑んだ顔は、いつもの穏やかな少年の顔だった。




