第6話 叔父様の影
穏やかな朝食の時間が始まって、ひと月ほどが過ぎた頃だった。
その日も、リゼットとユリアンは窓辺のテーブルで向かい合っていた。
ユリアンが苦手な人参を、こっそり皿の端に寄せているのを、リゼットが見て見ぬふりをしていたときだった。
ノックもなく、扉が乱暴に開かれた。
「……ほう。ずいぶんと、仲良くやっているようだな」
オズワルドだった。
口元には相変わらず笑みが浮かんでいる。
けれど、その目は冷たく細められていた。
ユリアンの体が、びくりと強張るのが分かった。
スプーンを握る小さな手が、白くなるほど力を込めている。
「お、叔父様。おはようございます」
リゼットは立ち上がり、頭を下げた。
オズワルドはそれには答えず、ゆっくりとテーブルに近づいてくる。
「使用人から、最近やけに朝食の量が増えたと報告があってね。何事かと思えば」
マーサではないだろう。
きっと、オズワルドに取り入っている誰かが告げ口したのだ。
「リゼット嬢。最初に言ったはずだね。余計なことはしないでくれ、と」
「……朝食を、ご一緒しているだけです」
「それが余計なことだと言っているんだよ」
オズワルドの声が、一段低くなった。
「君は、この家の飾りだ。それ以上でも以下でもない。甥に情を移されて、妙なことを吹き込まれては困るんだ」
妙なこと。
その言葉の意味が、リゼットにはよく分からなかった。
けれど、オズワルドがユリアンと誰かが親しくなることを、ひどく嫌がっているのだけは分かった。
(どうして……? 叔父なら、甥が笑えるようになって、嬉しいはずなのに)
オズワルドは、テーブルの上に視線を落とした。
皿の端に寄せられた人参を見て、鼻で笑う。
「好き嫌いか。兄上も、甘やかしすぎたな。だから、あんなふうに簡単に死んでしまう」
ユリアンの肩が、大きく震えた。
リゼットは、自分の耳を疑った。
今、この人は何と言ったのか。
両親を亡くしたばかりの子どもの前で。
「……叔父様。それは、あまりにも」
「黙っていたまえ」
オズワルドは苛立ったように手を振った。
その手が、テーブルの上のティーポットに当たる。
がしゃん、と音を立てて、ポットが傾いた。
熱い紅茶が、ユリアンのほうへ流れ出す。
「公爵様!」
考えるより先に、体が動いていた。
リゼットはユリアンの前に腕を差し出し、零れた紅茶を手の甲で受け止めた。
「……っ」
焼けるような痛みが走った。
思わず唇を噛みしめる。
「リゼット!」
ユリアンの声が、悲鳴のように響いた。
オズワルドは一瞬だけ目を見開いた。
けれど、すぐに興味を失ったように肩をすくめる。
「ふん、大げさな。茶が零れただけだろう」
謝罪の言葉はなかった。
オズワルドは扉に向かいながら、振り返りもせずに言い捨てた。
「明日からは、朝食も各自の部屋で取ること。これは後見人としての命令だ」
扉が、乱暴に閉められた。
静まり返った部屋に、リゼットの浅い呼吸だけが響く。
手の甲が、じんじんと熱い。
見れば、白い肌が赤く腫れ始めていた。
(大丈夫、このくらい。実家でも、火傷なんてしょっちゅうだったもの)
「平気ですよ、公爵様。すぐに冷やせば……」
そう言って笑いかけようとして、リゼットは言葉を止めた。
ユリアンが、扉を見つめていた。
オズワルドが出ていった扉を。
瞬きもせず、じっと。
その紫色の瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。
怯えも、悲しみも、怒りすらも。
ただ、底の見えない冷たさだけが、静かに沈んでいる。
(……公爵様?)
十歳の子どもが浮かべる表情ではなかった。
リゼットの背筋に、ぞくりと小さな震えが走った。
けれど次の瞬間、ユリアンはリゼットのほうを振り返った。
その顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。
「……ごめんなさい」
「え?」
「僕のせいで、リゼットが」
小さな手が、リゼットの赤くなった手の甲に、触れるか触れないかのところで止まる。
触れたら痛むのではないかと、怖がっているように。
リゼットは、そっと首を横に振った。
「公爵様のせいではありません。私が、勝手に手を出しただけです」
「でも」
「公爵様に紅茶がかからなくて、本当によかった」
心からそう言うと、ユリアンはぎゅっと唇を噛みしめた。
騒ぎを聞きつけたマーサが駆けつけ、リゼットの手はすぐに冷たい水で冷やされた。
幸い、跡が残るほどの火傷ではないらしい。
軟膏を塗られ、清潔な布を巻かれる間、ユリアンはずっとリゼットの傍を離れなかった。
「……オズワルド様が、このようなことを」
マーサは包帯を巻きながら、悔しそうに呟いた。
「マーサさん、私は本当に大丈夫ですから」
「奥様、そういう問題ではございません。……申し訳ございません。私がもっと、お二人をお守りできていれば」
マーサの目が、うっすらと赤くなっている。
リゼットは包帯の巻かれていないほうの手で、マーサの皺だらけの手を握った。
「マーサさんが、いつも気にかけてくださっていること、ちゃんと分かっています」
マーサは何も言えず、ただ深く頭を下げた。
その夜、リゼットはいつものように、本を持ってユリアンの部屋を訪ねた。
朝食は禁じられてしまったけれど、夜の読み聞かせまでは禁じられていない。
屁理屈のようだけれど、それくらいは許してほしかった。
扉を叩くと、すぐに開いた。
ユリアンは、まるで待っていたかのようにそこに立っていた。
「手、痛くないですか」
「もう平気ですよ。マーサさんが、よく効くお薬を塗ってくださいましたから」
リゼットが包帯の巻かれた手を振ってみせると、ユリアンはその手をじっと見つめた。
それから、ゆっくりと両手を伸ばして、包帯の上から、壊れものに触れるようにそっと包み込んだ。
「……リゼット」
「はい」
「僕、早く大人になります」
小さな手に、ほんの少しだけ力がこもった。
「大人になって、リゼットのことは、僕が守ります」
紫色の瞳が、まっすぐにリゼットを見上げていた。
その真剣さに、リゼットは胸の奥がじんと温かくなった。
(なんて優しい子なのかしら)
子どもの、他愛ない約束。
きっと大人になれば、忘れてしまうような。
それでも、今この瞬間の気持ちが嬉しかった。
「ありがとうございます、公爵様。……では、私は公爵様が大人になるまで、公爵様のことを守りますね」
リゼットが微笑むと、ユリアンは何か言いたげに唇を動かした。
けれど結局、何も言わなかった。
ただ、包帯の上から包んだ手を、しばらくの間、離そうとしなかった。
その夜、ユリアンが読み聞かせの途中で眠ることはなかった。
最後の頁まで、紫色の瞳はずっと開いたまま、リゼットの横顔を見つめていた。




