第5話 二人きりの朝食
嵐の夜から、三日が過ぎた。
あの夜のことを、ユリアンは何も言わなかった。
翌朝リゼットが目を覚ましたときには、彼はもう着替えを済ませ、いつものように窓辺で本を読んでいた。
「お、おはようございます、公爵様」
椅子で眠り込んでいた自分が恥ずかしくて、リゼットは慌てて立ち上がった。
肩にかけられていたショールが、床に落ちる。
ユリアンはちらりとこちらを見て、すぐに本へ視線を戻した。
「……おはようございます」
それだけだった。
けれど、それだけで十分だった。
初めて、彼のほうから挨拶を返してくれたのだから。
その日の朝、リゼットはいつものように、ユリアンの部屋の扉を叩いた。
「公爵様。リゼットです。朝食を、ご一緒させていただけませんか?」
断られることには、もう慣れていた。
今日もきっと「いりません」と返ってくるだろう。そう思いながら、返事を待つ。
少しの沈黙のあと、扉がゆっくりと開いた。
ユリアンが、そこに立っていた。
紫色の瞳が、リゼットを見上げ、それからすっと横に逸らされる。
「……部屋で、なら」
リゼットは、思わず目を瞬かせた。
「え……」
「食堂は、叔父上がいるから嫌です。この部屋で、なら」
小さな声だった。
耳の先が、ほんのり赤くなっている。
「は、はい! すぐに用意してもらいますね!」
思わず声が弾んでしまい、リゼットは慌てて口元を押さえた。
ユリアンは何も言わず、くるりと背を向けて部屋の奥へ戻っていった。
知らせを聞いたマーサの行動は、驚くほど早かった。
あっという間に窓辺に小さな丸テーブルが運び込まれ、真っ白なクロスがかけられる。
焼きたてのパン、湯気の立つスープ、半熟の卵、蜂蜜を添えた果物。
「マーサさん、こんなにたくさん……」
「坊ちゃまがどなたかとお食事をなさるのは、久しぶりですから」
マーサは目元を緩め、手際よく食器を並べていく。
その横顔は、どこか嬉しそうだった。
「では、どうぞごゆっくり」
マーサが下がると、部屋の中には二人だけが残された。
向かい合って座ると、テーブルは思ったよりも小さかった。
手を伸ばせば届く距離に、ユリアンがいる。
(何を話せばいいのかしら……)
リゼットがパンをちぎりながら考えていると、ユリアンがスープを一口飲んで、ぽつりと言った。
「……狐の話」
「え?」
「最後まで、聞いてない」
リゼットは、はっとした。
嵐の夜、読むはずだった最後の章は、結局読めないままだった。
「そうでした。今夜、読みましょうか?」
「……今、聞きたいです」
ユリアンはスプーンを持ったまま、上目遣いにリゼットを見た。
その表情があまりにも子どもらしくて、リゼットは胸の奥がくすぐったくなった。
(この子、こんな顔もするのね)
「でも、本を持ってきていなくて……」
「覚えてないんですか」
「ええと……だいたいなら」
リゼットは記憶を辿りながら、ゆっくりと話し始めた。
ひとりぼっちの狐が、森の外れで凍えていた小鳥を見つけること。
最初は追い払おうとしたけれど、結局巣を作ってやったこと。
春になって、小鳥がたくさんの仲間を連れて戻ってきたこと。
「……それで、狐はもう、ひとりぼっちではなくなりました。おしまい」
話し終えると、ユリアンは黙ってパンを齧っていた。
しばらくして、小さく呟く。
「……小鳥は、ずっとそこにいたんですか」
「え?」
「春になって戻ってきて、その後も、ずっと」
リゼットは少し考えて、微笑んだ。
「お話には書いていませんけれど、きっと、そうだと思いますよ」
ユリアンは何も答えなかった。
けれど、その日の朝食を、彼は初めて残さずに食べた。
それから、二人の朝食は毎日の習慣になった。
昼と夜は、オズワルドの目があるため別々だった。
けれど朝だけは、窓辺の小さなテーブルで、向かい合ってパンを食べる。
日が経つにつれ、リゼットはユリアンのことを少しずつ知っていった。
人参が苦手なこと。
甘い蜂蜜パンが好きなこと。
そして、驚くほど頭がいいこと。
ある朝、リゼットはユリアンが読んでいる本の背表紙を見て、目を丸くした。
「公爵様、それ……『王国法典』ですか?」
「はい」
「十歳で、そんな難しい本を……」
「家庭教師がいないので、自分で読むしかないんです」
ユリアンはさらりと言って、頁をめくった。
「それに、知っておかないといけないことがあるから」
「知っておかないといけないこと?」
ユリアンは一瞬だけ手を止め、それから何でもないように首を横に振った。
「……なんでもないです」
リゼットは首を傾げた。
けれど、それ以上は尋ねなかった。
話したくないことを、無理に聞き出すつもりはない。
いつか、彼が話してもいいと思えたときに聞けばいい。
「分からないところがあったら、私でよければ一緒に考えますね。……法律は、あまり得意ではないけれど」
「……リゼットは、何が得意なんですか」
さらりと名前を呼ばれて、リゼットの心臓が小さく跳ねた。
嵐の夜以来、ユリアンは時々、こうして名前で呼ぶようになっていた。
そのたびに、リゼットは少しだけ嬉しくなる。
「そうですね……刺繍と、お裁縫と、それから計算は少し得意です。実家で、帳簿の手伝いをさせられていましたから」
何気なく答えた言葉に、ユリアンの紫色の瞳がふっと鋭くなった。
「……帳簿、読めるんですか」
「ええ、まあ。簡単なものなら」
ユリアンはしばらく何かを考えるように、じっとリゼットを見つめていた。
けれど結局、何も言わずに視線を本に戻した。
「……そうですか」
その横顔が、ほんの一瞬だけ、十歳の子どもとは思えないほど大人びて見えた。
リゼットは、気のせいだろうと思った。
目の前の少年は、蜂蜜パンを頬張りながら、口の端に蜜をつけているのだから。
「公爵様、ここ、ついていますよ」
リゼットがナプキンで口元を拭ってやると、ユリアンはぴたりと固まった。
それから、みるみるうちに耳まで真っ赤になった。
「……自分で、拭けます」
「ふふ、ごめんなさい」
ぷいと顔を背けるユリアンを見て、リゼットは思わず笑ってしまった。
窓から差し込む朝の光が、小さなテーブルを柔らかく照らしていた。




