第4話 雷の夜
その日は、朝から空が重かった。
昼を過ぎる頃には灰色の雲が丘を覆い、夕方には冷たい雨が降り始めた。
窓を叩く雨音は、日が沈むにつれて激しさを増していく。
「今夜は荒れそうですね」
夕食の皿を下げに来た侍女が、不安げに窓の外を見た。
その言葉どおり、遠くの空で、ごろごろと低い音が鳴り始めていた。
(狐のお話、今夜で最後なのに)
ここ数日、扉はいつも指一本分だけ開いていた。
隙間から何か言葉が返ってくることは、ほとんどない。
けれど物語が終わるまで、向こう側に誰かがいる気配は確かにあった。
それだけで、リゼットには十分だった。
いつもの時間に、リゼットは本を抱えてユリアンの部屋へ向かった。
廊下の窓が、白く光る。
少し遅れて、腹の底に響くような雷鳴が轟いた。
(ずいぶん近い……)
扉の前に座ろうとして、リゼットは足を止めた。
扉が、閉まっていた。
この数日、一度も閉じられることのなかった扉が、ぴたりと。
「公爵様?」
声をかけても、返事はない。
もう眠ってしまったのだろうか。
それとも、やはり迷惑だったのだろうか。
そのとき、再び窓の外が白く染まった。
ほとんど間を置かずに、空が裂けるような轟音。
屋敷全体が、びりびりと震えた気がした。
そして、扉の向こうから、かすかな音がした。
何かが床に落ちる音。
それから、押し殺したような、細い息の音。
「公爵様……!」
考えるより先に、手が扉を開けていた。
部屋の中は、真っ暗だった。
暖炉の火は、いつの間にか消えていた。
雨に濡れた窓が稲光に浮かび上がり、また闇に沈む。
「公爵様、どこに……」
目を凝らすと、寝台の脇の床に、小さな影がうずくまっているのが見えた。
膝を抱え、両手で耳を塞いで。
細い肩が、小刻みに震えている。
リゼットは本を放り出し、駆け寄って膝をついた。
「公爵様、大丈夫ですか?」
ユリアンは顔を上げなかった。
ただ、ぎゅっと耳を塞いだまま、首を横に振る。
また、窓の外が光った。
雷鳴が轟いた瞬間、小さな体がびくりと跳ねる。
「……っ、あの日も……」
かすれた声が、ユリアンの唇から零れた。
「父上と母上の馬車が、崖から落ちた日も、こんな雨で……雷が、鳴ってて……」
リゼットは、言葉を失った。
両親を事故で亡くしたとは聞いていた。
けれど、それがこんな嵐の夜だったなんて。
(この子は、ひとりで……)
去年も、その前の嵐の夜も。
この寒い部屋で、誰にも言えず、ひとりでこうして耐えていたのだろうか。
リゼットは、そっと腕を伸ばした。
拒まれるかもしれない。
それでもいいと思った。
「公爵様。少しだけ、触れてもいいですか」
返事はなかった。
けれど、ユリアンは逃げなかった。
リゼットは、震える小さな体を、そっと自分の腕の中に抱き寄せた。
驚くほど、冷たい体だった。
ユリアンは一瞬こわばった。
けれど次の雷鳴が鳴った瞬間、その手が、リゼットのドレスをぎゅっと掴んだ。
「大丈夫。大丈夫ですよ」
リゼットは、細い背中をゆっくりと撫でた。
幼い頃、母がそうしてくれたように。
「雷は、ここまでは落ちてきません。このお屋敷は、とても頑丈ですもの」
「……」
「それに、私がここにいます。公爵様が眠るまで、ずっとここにいますから」
ドレスを掴む手に、さらに力がこもった。
胸元に押しつけられた小さな額が、熱い。
しばらくして、そこがじんわりと濡れていくのが分かった。
ユリアンは、声を上げて泣きはしなかった。
ただ、肩を震わせて、静かに涙を零していた。
十歳の子どもが、泣き方すら忘れてしまったかのように。
(どうか、この子が、もうひとりで泣かずにすみますように)
リゼットは、祈るように小さな体を抱きしめ続けた。
どれくらい、そうしていただろう。
雷鳴は少しずつ遠ざかり、窓を叩く雨音も穏やかになっていった。
腕の中の体が、いつの間にか温かくなっている。
「……公爵様? 寝台に移りましょうか。床は冷えますから」
そっと声をかけると、ユリアンはぼんやりとした顔で頷いた。
泣き疲れたのか、まぶたが重そうだった。
リゼットは小さな手を引いて寝台に寝かせ、肩まで毛布をかけた。
それから立ち上がろうとして、ドレスの裾が引っ張られていることに気づいた。
見下ろすと、毛布の中から伸びた小さな指が、裾をしっかりと掴んでいた。
「……行かないで」
今にも消えそうな声だった。
紫色の瞳が、半分閉じかけたまま、それでも必死にリゼットを見上げている。
あの日、「どうせすぐいなくなるんでしょう」と言った子と、同じ子とは思えなかった。
リゼットは、寝台の脇に腰を下ろした。
裾を掴む小さな手を、両手でそっと包み込む。
「行きません。朝まで、ここにいます」
ユリアンは、ほっとしたように小さく息を吐いた。
そして、ほとんど寝息のような声で、呟いた。
「……リゼット」
初めて、名前を呼ばれた。
リゼットは何も言えず、ただ、その手を握り返した。
夜明け前、マーサはユリアンの部屋の前で足を止めた。
扉が、開いていた。
そっと中を覗くと、寝台の脇で、椅子に座ったまま眠っている若い奥方の姿があった。
その手は、毛布の中の小さな手と、しっかり繋がれたままだった。
寝台の上で、ユリアンが穏やかな寝息を立てている。
眉間に皺も寄せず、うなされることもなく。
まるで、普通の十歳の子どものように。
「……坊ちゃまが、あんなふうにお眠りになるのは」
マーサは、そこまで呟いて口をつぐんだ。
旦那様と奥様が亡くなってから、一度も見たことのない寝顔だった。
しばらくその光景を見つめてから、マーサは静かに踵を返した。
向かったのは、薪の保管庫だった。
両腕いっぱいに薪を抱えて戻ると、音を立てないよう、消えた暖炉に火を入れ直す。
ぱちり、と炎が爆ぜた。
寒々しかった部屋に、ゆっくりと温もりが広がっていく。
マーサは、眠る奥方の肩に自分のショールをそっとかけた。
そして誰にも聞こえないほどの小さな声で、呟いた。
「……ありがとうございます、奥様」




