第3話 閉ざされた扉
公爵家での最初の朝、リゼットはひとりで朝食をとった。
客間を改装したらしい自室の小さなテーブルに、温かいスープとパン、それに果物。
実家で口にしていた残り物とは比べものにならないほど、豪華な食事だった。
(美味しい……けれど)
スプーンを持つ手が、ふと止まる。
広い部屋に、自分ひとり。
銀器が皿に触れる小さな音だけが、やけに響いて聞こえた。
(公爵様も、今頃ひとりで食べているのかしら)
昨日の、窓辺に座る小さな背中を思い出す。
あの寒々しい部屋で、ひとりきりで。
食器を下げに来た侍女に、リゼットはそっと尋ねてみた。
「公爵様は、いつもお部屋でお食事を?」
「は、はい。オズワルド様が、そのようにと」
「どのくらい召し上がっているの?」
侍女は困ったように視線を泳がせ、それから小さな声で答えた。
「……半分も、召し上がらないことが多いです」
リゼットは、胸の奥がひやりと冷えるのを感じた。
十歳の、育ち盛りの子どもが。
ただでさえ細いあの体で。
「ありがとう。教えてくれて」
侍女は驚いたように目を瞬かせ、慌てて頭を下げて出ていった。
その日の昼、リゼットは意を決して、ユリアンの部屋の扉を叩いた。
「公爵様。リゼットです。もしよろしければ、お昼をご一緒させていただけませんか?」
返事はない。
もう一度ノックしようとしたとき、扉の向こうから小さな声がした。
「……いりません」
「ほんの少しだけでも」
「いりません」
今度ははっきりと、拒む声だった。
リゼットは扉に添えた手を、そっと下ろした。
(そうよね。昨日会ったばかりの人間と、食事なんてしたくないわよね)
無理に押し入るわけにはいかない。
それでは、オズワルドと何も変わらない。
「分かりました。また、明日お声をかけますね」
扉の向こうからは、何の返事もなかった。
それから数日、リゼットは同じことを繰り返した。
朝と昼と夜、扉の前で声をかける。
返事は決まって「いりません」か、沈黙だった。
その間に、リゼットはいくつかのことに気がついた。
一つは、屋敷の使用人が驚くほど少ないこと。
これほど大きな屋敷なのに、廊下ですれ違う顔はいつも同じだった。
もう一つは、ユリアンの部屋だけが、いつも寒いこと。
オズワルドが使っている東棟の部屋からは、昼夜を問わず暖炉の熱気が漏れている。けれどユリアンの部屋の前に立つと、扉の隙間から冷たい空気が流れてくるのだ。
(どうして……)
ある夕方、リゼットは薪を運ぶ使用人を呼び止めた。
「公爵様のお部屋の薪は、足りているの?」
「そ、それは……オズワルド様が、子どもに贅沢はさせるなと仰って。一日に使える分が決められているんです」
使用人は気まずそうに目を逸らした。
リゼットは、しばらく言葉が出なかった。
(贅沢……? ここは、あの子の家なのに)
公爵家の当主はユリアンだ。
この屋敷も、薪も、本来はすべて彼のものであるはずなのに。
「……私の部屋の分を、公爵様のお部屋に回してもらえる?」
「えっ、ですが奥様のお部屋が」
「私は寒いのには慣れているの。大丈夫よ」
使用人は戸惑いながらも、頷いてくれた。
その夜から、リゼットの部屋の暖炉の火は小さくなった。
毛布にくるまりながら、リゼットはふと思いついて、本棚から一冊の本を取り出した。
古い童話集だった。表紙の角が擦り切れていて、誰かが何度も読み返したのだろうと分かる。
(これを、公爵様に読んでさしあげたら……)
子ども扱いをするな、と怒られるかもしれない。
けれど、何もしないよりはいい気がした。
リゼットは本を抱えて、ユリアンの部屋の前に座り込んだ。
冷たい床が、ドレス越しにじんわりと沁みてくる。
「公爵様。お休み前に、少しだけ本を読ませてください。聞きたくなければ、そのまま眠ってくださって構いません」
返事はなかった。
リゼットは静かに、最初の頁を開いた。
「むかしむかし、ある森の奥に、ひとりぼっちの小さな狐がおりました……」
廊下に、リゼットの声だけが静かに響く。
扉の向こうで、何かが動く気配がした気がした。
けれど、扉は開かない。
それでも、リゼットは最後まで読み終えた。
「おやすみなさいませ、公爵様」
翌晩も、その翌晩も、リゼットは扉の前で本を読んだ。
ある夜、読み終えて立ち上がろうとしたとき、廊下の角に人影があることに気づいた。
侍女長のマーサだった。
手には、小さな燭台と、厚手の膝掛けを持っている。
「奥様。そのような冷たい床に座られては、お体に障ります」
穏やかな、けれど心配そうな声だった。
マーサは静かに近づいてくると、リゼットの膝にそっと膝掛けをかけた。
「マーサさん……ありがとうございます」
「ご自分のお部屋の薪を、坊ちゃまのお部屋へ回されたそうですね。使用人から聞きました」
リゼットは目を丸くした。
もう知られていたのか。
「勝手なことをしてごめんなさい。あの使用人を叱らないであげてください。私が頼んだのです」
「叱るなど、とんでもない」
マーサは小さく首を横に振った。
それから、少し迷うように視線を落とす。
「……本当は、私がもっと早くにお止めすべきだったのです。けれど、オズワルド様には逆らえず……坊ちゃまに、寒い思いをさせてしまいました」
その声には、悔しさが滲んでいた。
リゼットはようやく気づいた。
初めて会った日、マーサの目が慎重そうに見えたのは、自分を嫌っていたからではない。
坊ちゃまを傷つける人間がまた一人増えるのではないかと、警戒していたのだ。
「奥様は、なぜそこまでなさるのです。八年後には、ここを出ていかれる方でしょう」
責める響きのない、ただ純粋に知りたいという問いだった。
リゼットは少し考えて、正直に答えた。
「だからこそ、です。八年しかいられないなら、その間くらいは、あの子が寒い思いをしなくてすむようにしたいのです」
マーサは何も言わなかった。
ただ、灰色の瞳がわずかに揺れ、目元の皺がやわらかく緩んだ。
「……奥様のお部屋の薪は、明日から私がこっそり足しておきます。オズワルド様には、内緒にいたしましょう」
「えっ、でも、それではマーサさんが」
「年寄りにも、少しくらい意地を張らせてくださいませ」
マーサは目を細めて小さく微笑むと、深く一礼して去っていった。
(マーサさん……)
リゼットは膝掛けをぎゅっと握りしめた。
この屋敷に来て初めて、胸の奥がほんのりと温かくなった気がした。
そのときだった。
背後で、かちゃり、と小さな音がした。
振り返ると、固く閉ざされていた扉が、ほんのわずかに開いていた。
指一本分ほどの、細い隙間。
その向こうは暗くて、何も見えない。
「……その狐」
か細い声が、隙間から漏れてきた。
「最後、どうなるんですか」
リゼットは、息を呑んだ。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「明日の夜、続きを読みますね」
返事はなかった。
けれど扉は、その夜、閉じられることはなかった。




