第2話 十歳の公爵様
アーデルハイト公爵家の屋敷は、王都の外れの小高い丘の上に建っていた。
馬車の窓から見えたそれは、屋敷というより城に近い。
灰色の石造りの壁がどこまでも続き、高い尖塔が冬空に突き刺さるようにそびえている。
(ここが、今日から私の暮らす場所……)
リゼットは膝の上のトランクを、ぎゅっと抱え直した。
実家を出るとき、見送りはなかった。
父は執務室から出てこず、継母とクラリスは朝寝坊を決め込んでいた。門の前で頭を下げてくれたのは、厨房の老料理人だけだった。
「どうか、お元気で」
その一言が、今も胸の奥に温かく残っている。
馬車が玄関前に止まると、扉の前には数人の使用人が並んでいた。
中央に立つのは、白髪を一つにまとめた年配の女性だった。背筋はまっすぐに伸び、灰色の瞳が静かにリゼットを見つめている。
「ようこそお越しくださいました。侍女長のマーサと申します。長旅でお疲れでしょう」
落ち着いた、丁寧な声だった。
けれどその瞳の奥には、こちらの人となりを確かめようとするような、慎重な色が浮かんでいる。
(歓迎……されているわけでは、なさそう。でも、嫌われているのとも違う気がする)
「リゼット・ベルナールです。今日から、お世話になります」
リゼットが頭を下げると、マーサの眉がわずかに動いた。
伯爵令嬢が使用人に深々と頭を下げるのが、意外だったのかもしれない。
マーサは一瞬だけ表情をやわらげ、リゼットの手元に目を留めた。
「お荷物はそれだけでございますか?」
「はい。……少なくて、驚かれましたよね」
「いいえ。お運びいたしましょう」
マーサが合図をすると、若い侍女がそっとトランクを受け取ってくれた。
それから、マーサは少しだけ声を落とした。
「お部屋は暖めてございます。後ほど、温かいお茶をお持ちしますね。……まずは、オズワルド様がお待ちですので、こちらへ」
通された書斎には、四十代半ばほどの男性が座っていた。
整えられた口髭に、仕立てのいい上着。
にこやかな笑みを浮かべているのに、その目だけがまったく笑っていない。
「よく来てくれた。私がユリアンの叔父で、後見人のオズワルド・アーデルハイトだ」
「リゼット・ベルナールと申します」
「ああ、聞いているよ。……なるほど、確かに大人しそうなお嬢さんだ」
オズワルドは満足げに頷き、机の上の書類を指先で叩いた。
「さて、さっそくだが契約の話をしておこう。君の役目は、甥が成人するまでの間、公爵夫人という席を埋めておくことだ」
公爵家の当主に妻がいないとなれば、縁談を持ち込む家が後を絶たない。
幼い当主に余計な後ろ盾がつくのを避けるため、形だけでも妻を置いておく。オズワルドの説明は、要するにそういうことだった。
「寝室は別。いわゆる白い結婚だ。甥が十八になった日に離縁し、君には相応の慰謝料を払う。この婚姻契約は国王陛下の立会いのもとで交わされたもので、条項は陛下の許可なく変更できない」
「……承知いたしました」
「それから、もう一つ」
オズワルドは笑みを深めた。
「余計なことはしないでくれたまえ。甥の教育も、家の管理も、すべて私がやる。君はただ、大人しくそこにいればいい」
(余計なこと……)
リゼットはその言葉を、胸の中で繰り返した。
形だけの妻。
口出しはしない、何もしない、ただ八年間そこにいるだけの存在。
実家で求められてきたことと、何も変わらない。
「分かりました」
そう答えると、オズワルドは満足そうに書類を差し出した。
リゼットは震えそうになる指で、婚姻契約書に名前を書き込んだ。
「では、甥に会わせよう。……と言っても、愛想のいい子ではないがね」
オズワルドに連れられ、長い廊下を歩く。
どこまでも続く絨毯の上を歩きながら、リゼットは不思議に思っていた。
これほど大きな屋敷なのに、ひどく静かだ。
子どもが暮らしている家の、明るさや騒がしさがどこにもない。
やがて、二階の奥の扉の前で、オズワルドは足を止めた。
ノックもせずに扉を開ける。
「ユリアン。お前の妻を連れてきたぞ」
広い部屋だった。
大きな窓、高い天井、壁一面の本棚。けれど暖炉の火は小さく、部屋の中はどこか寒々しい。
その窓辺に、小さな影がひとつ座っていた。
少年がゆっくりと振り返る。
黒い髪。
透き通るような白い肌。
そして、深い紫色の瞳。
十歳と聞いていたけれど、思っていたよりもずっと細く、小さく見えた。喪服のような黒い服が、その体の頼りなさをいっそう際立たせている。
「……はじめまして、公爵様。リゼットと申します」
リゼットが膝を折って挨拶すると、少年は無言のまま彼女を見つめた。
感情の読めない瞳だった。
子どもらしい好奇心も、警戒心すら浮かんでいない。ただ、ひどく静かで、ひどく冷えている。
「ユリアン、挨拶くらいしないか」
オズワルドの声に、少年はようやく唇を開いた。
「……ユリアン・アーデルハイトです」
それだけ言って、また窓の外へ視線を戻してしまう。
オズワルドは肩をすくめた。
「この通りだ。まあ、仲良くする必要はない。夕食は各自の部屋で取らせるから、好きに過ごしてくれ」
そう言い残して、オズワルドはさっさと部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
静かな部屋に、リゼットと少年だけが残された。
暖炉の薪が、ぱちりと小さく爆ぜる。
(どうしよう……)
何か話しかけなければ、と思った。
けれど何を言えばいいのか分からない。子どもと接した経験など、ほとんどなかった。
「あの、公爵様。この部屋、少し寒くはありませんか? 薪をもう少し……」
「いいです」
短い返事が、リゼットの言葉を遮った。
少年は窓の外を見たまま、ぽつりと続ける。
「あなたも、どうせすぐいなくなるんでしょう」
リゼットは、息を呑んだ。
「父上も母上も、いなくなった。乳母も、家庭教師も、叔父上が来てからみんな辞めていった。……だから、あなたもそうです」
淡々とした声だった。
責めているわけでも、悲しんでいるわけでもない。ただ、当たり前の事実を口にしているだけのような声。
(この子は……)
十歳の子どもが、こんなふうに話すようになるまで、いったいどれだけのものを失ってきたのだろう。
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
リゼットはゆっくりと少年に近づき、窓辺の少し手前で膝をついた。
同じ目線になるように。
「確かに、私はいつか、ここを出ていく人間です」
少年の肩が、ほんのわずかに揺れた。
「でも、それは八年も先のことです。公爵様が大人になるまで、私はずっとここにいます。……それだけは、約束できます」
紫色の瞳が、初めてリゼットのほうを向いた。
まっすぐに。
何かを確かめるように。
「……八年」
「はい。八年です」
少年は何も答えなかった。
ただ、しばらくの間、じっとリゼットの顔を見つめていた。
やがて、ふいと視線が逸らされる。
「……好きにすればいいです」
それは突き放すような言葉だった。
けれどリゼットには、ほんの少しだけ、その声が揺れていたように聞こえた。
(まずは、それでいい)
仮の妻でも、お守り役でも。
この子がひとりで寒い部屋に座っていなくてすむように。
リゼットは立ち上がり、黙って暖炉に薪を一本足した。
小さかった炎が、少しだけ大きく揺れた。
少年は何も言わなかった。
けれど、止めることもしなかった。




