第1話 売られるように決まった縁談
冬の朝の厨房は、息が白くなるほど冷えていた。
リゼットは赤くなった指先をこすり合わせてから、もう一度桶に手を沈めた。
水仕事は使用人の仕事だと、本来なら誰もが言うだろう。けれどこの屋敷では、それを口にする者はいない。
(今日は朝食までに、銀器も磨いておかないと……)
ベルナール伯爵家の長女。
それが、リゼットに与えられた肩書きだった。
けれど実母が亡くなり、父が後妻を迎えてから、その肩書きはほとんど意味を持たなくなった。
部屋は日当たりの悪い北の小部屋へ移され、ドレスは異母妹のお下がりすら回ってこない。食卓に呼ばれることもなく、気づけば使用人たちと同じように朝から晩まで働くのが当たり前になっていた。
「リゼットお嬢様、奥様がお呼びです」
厨房の入り口から、年若い侍女が気まずそうに声をかけてくる。
リゼットは濡れた手を前掛けで拭い、小さく頷いた。
「すぐに行くわ。……ありがとう」
侍女は何か言いたげに唇を動かしたが、結局は目を伏せて去っていった。
この屋敷で、リゼットに味方をすれば継母に睨まれる。それを誰もが知っている。
(呼び出しなんて、珍しい。また何か、気に障ることをしてしまったのかしら)
胸の奥がひやりとする。
叱責される理由を探すのは、もう癖のようなものだった。
応接間に入ると、暖炉の熱が頬を打った。
ソファには継母のカトリーヌと、異母妹のクラリスが並んで腰かけている。父はその向かいで、手元の書類に視線を落としたまま顔を上げなかった。
「遅かったわね。相変わらず愚図なこと」
カトリーヌが扇で口元を隠しながら言う。
リゼットは頭を下げた。
「申し訳ありません、お義母様」
「まあいいわ。今日は、あなたにとっても悪い話ではないのだから」
悪い話ではない。
その言葉を、リゼットは素直に信じることができなかった。継母が自分に笑顔を向けるときは、たいてい何かを奪われるときだ。
「あなたに縁談が来たのよ。お相手はアーデルハイト公爵家」
リゼットは思わず顔を上げた。
アーデルハイト公爵家。
王国でも指折りの名門で、伯爵家の娘が嫁げるような家ではない。
「公爵家……ですか?」
「ええ。ただし、お相手の公爵様は十歳だけれど」
くすくすと、クラリスが笑い声を漏らした。
「お姉様、聞いて驚かないでね。昨年ご両親を事故で亡くされて、幼くして爵位を継がれたんですって。それで後見人の叔父様が、形だけの奥方を探していらっしゃるの」
「形だけの……」
「そうよ。公爵様が成人なさるまでの、仮の妻。八年経ったら離縁して、それで終わり。子どものお守り役みたいなものね」
クラリスは楽しそうに肩をすくめた。
淡い金髪が揺れ、愛らしい顔に浮かんだ笑みは、どこか意地の悪い色を帯びている。
「私には無理だわ。八年も子守りだなんて。それに離縁された女なんて、その後どこにも嫁げないでしょう?」
(ああ、そういうこと……)
リゼットはようやく、この話の形が見えた気がした。
公爵家との縁談。けれど中身は、期限付きの仮の妻。
離縁された後のことなど、誰も考えていない。いや、考える必要がないのだ。
「先方からは支度金も十分にいただけるそうよ。あなたのような娘を、公爵家が引き取ってくださるのだもの。ありがたいお話でしょう?」
カトリーヌが満足そうに微笑む。
支度金。
その言葉で、すべてが腑に落ちた。
(私は、売られるのね)
厄介払いができて、お金まで手に入る。
継母にとって、これ以上都合のいい話はないだろう。
「……お父様」
すがるような気持ちで、リゼットは父を呼んだ。
けれど父は書類から目を離さないまま、短く答えただけだった。
「もう返事はしてある。来週には迎えの馬車が来るそうだ」
それきり、父は何も言わなかった。
リゼットは、膝の上で握りしめた指先を見つめた。
冷たい水で荒れた手。この家で過ごした年月が、そのまま刻まれているような手だった。
(いつからだろう。お父様が、私の顔を見なくなったのは)
母が亡くなった日の、父の泣き顔をまだ覚えている。
あの頃は、確かにこの家にも温かいものがあったはずなのに。
「何か不満でもあるの?」
カトリーヌの声が、鋭く尖る。
リゼットはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。……お受けいたします」
そう答えた自分の声は、思っていたよりもずっと静かだった。
悲しいのか、悔しいのか、自分でもよく分からない。
ただ一つだけ、胸の奥にぽつりと灯ったものがあった。
(この家を、出られる)
八年後に離縁されるとしても。
その後に行く場所がなかったとしても。
少なくとも、この冷たい屋敷で一生を終えることはない。
「よかったわね、お姉様。小さな旦那様に、せいぜい可愛がってもらって」
クラリスの声を背に、リゼットは深く一礼して応接間を後にした。
その夜、北の小部屋で、リゼットは荷造りをした。
といっても、詰めるものはほとんどない。
着古したドレスが三着と、下着と、母の形見の小さな刺繍入りのハンカチ。それだけで、古びたトランクの半分も埋まらなかった。
(十歳の公爵様、か)
ハンカチを指先でなぞりながら、リゼットはまだ見ぬ少年のことを思った。
両親を亡くしたばかりの子ども。
周りには大人が大勢いるのだろうけれど、その大人たちが本当に彼の味方なのかは分からない。形だけの妻を、叔父が探しているという時点で。
(……私と同じなのかもしれない)
ひとりきりで、冷たい場所に置かれている子ども。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが小さく軋んだ。
「八年……」
声に出してみると、それは長いようで、きっとあっという間なのだろうと思えた。
仮の妻でいい。
お守り役でいい。
せめてその八年の間だけでも、あの子がひとりぼっちにならないように。
(私にできることなんて、きっと多くはないけれど)
リゼットはトランクの蓋を閉め、小さな窓から夜空を見上げた。
冬の星が、凍えるように瞬いていた。




