第23話 弟なんかじゃない
王都から屋敷に戻ったのは、夜も更けた頃だった。
マーサが用意してくれた夕食を済ませ、湯浴みをして。
気づけば、二人はいつものように、暖炉の前に並んで座っていた。
八年前から、一度も途切れたことのない時間。
けれど今夜は、どちらも本を開いていなかった。
暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜる。
ユリアンは、何も言わなかった。
炎を見つめる横顔が、どこか緊張しているように見えた。
(王宮で、あんなふうに言ってしまったから)
答えは、夫に直接伝えたい。
あのとき、ユリアンの手がわずかに震えたのを、リゼットは覚えていた。
屋敷に帰る馬車の中でも、ユリアンは一言もその話に触れなかった。
「……ユリアン」
リゼットが名前を呼ぶと、ユリアンの肩が小さく揺れた。
「はい」
「陛下との、最後の約束のこと」
ユリアンは、炎から目を離さないまま、静かに言った。
「……本当は、ずっと怖かったんです」
リゼットは、ユリアンの横顔を見つめた。
「六年かけて、逃げ道を全部塞いで。働き口も、実家も、帰る場所も、全部。リゼットには、僕の隣しか残らないようにしました」
ユリアンは、膝の上で両手を組んだ。
その指先に、ぎゅっと力がこもっている。
「でも、陛下とのあの約束だけは、どうしても塞げなかった。リゼットが本気で去りたいと言ったら、僕は手を離さなければならない」
ユリアンの声が、少しだけ掠れた。
「誕生日の日も、温室でも、迎えに行った朝も。……いつ、リゼットがそれを口にするのかと、ずっと怖かった」
リゼットは、息を詰めた。
あれほど余裕のある顔で微笑んでいたユリアンが。
逃げても迎えに行くと、甘く囁いていたユリアンが。
(ずっと、怖がっていたの)
「だから、リゼット」
ユリアンは、ようやくリゼットのほうを向いた。
紫色の瞳が、暖炉の炎を映して揺れていた。
「答えを、聞かせてください。……どんな答えでも、受け止めますから」
その瞳は、嵐の夜に「行かないで」と言った、十歳の少年の瞳と、何も変わっていなかった。
リゼットは、ゆっくりと手を伸ばした。
ユリアンの頬に、そっと触れる。
指先に、温かな体温が伝わってくる。
「ユリアン。私、ずっと自分に言い聞かせていたんです。あなたは弟のようなものだ、家族のようなものだ、って」
ユリアンの瞳が、かすかに揺れた。
「八つも年上で、実家にも疎まれていて、あなたの隣にふさわしくない。だから、勘違いしてはいけない。ちゃんと笑って、出ていかなければいけないって」
リゼットは、小さく笑った。
目の奥が、熱くなってくる。
「でも、ベルナール家の北の部屋で、ひとりで夜を過ごして、やっと分かったんです。……私は、あなたに会いたかった。知らない誰かの妻にされるくらいなら、もう二度とあなたに会えないくらいなら」
声が、震えた。
それでも、リゼットは最後まで言った。
「私は、ユリアンの隣にいたいです」
ユリアンが、息を呑んだ。
「あなたは、もう弟なんかじゃない。……ずっと前から、そうじゃなかったんです。気づかないふりを、していただけで」
リゼットは、ユリアンの瞳をまっすぐに見つめた。
「ユリアン。あなたを、愛しています」
暖炉の炎だけが、ぱちぱちと音を立てていた。
ユリアンは、しばらく動かなかった。
紫色の瞳を大きく見開いたまま、リゼットを見つめている。
「……ユリアン?」
不安になって名前を呼んだ瞬間、強く抱きしめられた。
息が止まるほど、強く。
大きな腕が、リゼットの体を丸ごと包み込んで、離さない。
「……っ、リゼット」
耳元で、震える声がした。
「本当に、いいんですか。僕は、リゼットが思っているよりずっと、しつこいですよ。一度捕まえたら、もう二度と離しません」
「知っています」
「逃げても、追いかけます。どこへ行っても、迎えに行きます」
「それも、知っています」
リゼットは、ユリアンの背中に腕を回した。
広い背中だった。
嵐の夜、震えていた小さな背中は、もうどこにもない。
「だから、もう逃げません。……迎えに来てもらわなくても、ずっとここにいます」
ユリアンの腕に、さらに力がこもった。
肩口に押しつけられた額が、熱い。
しばらくして、そこがじんわりと濡れていくのが分かった。
八年前と、同じだった。
あの嵐の夜も、こうして静かに涙を零していた。
声を上げずに、肩を震わせて。
(この人は、やっぱりあの子のままなのね)
リゼットは、ユリアンの黒い髪を、そっと撫でた。
あの夜と、同じように。
「大丈夫。私は、ここにいますよ」
どれくらい、そうしていただろう。
やがてユリアンが、ゆっくりと顔を上げた。
目元が、ほんのりと赤くなっている。
「……格好悪いところを、見せてしまいました」
「いいえ。私は、どんなユリアンも好きです」
リゼットが微笑むと、ユリアンは困ったように眉を下げた。
それから、リゼットの頬に、そっと手を添えた。
「リゼット」
「はい」
「口づけても、いいですか」
真剣な瞳だった。
六年間、陛下との約束を守り続けてきた人の、最後の確認。
リゼットは、頬を真っ赤に染めながら、小さく頷いた。
ユリアンの顔が、ゆっくりと近づいてくる。
リゼットは、そっと目を閉じた。
唇に、柔らかな熱が触れた。
ほんの一瞬の、羽根が触れるような口づけ。
けれどそれは、リゼットがこれまで生きてきた中で、いちばん温かいものだった。
唇が離れると、ユリアンは額をこつんとリゼットの額に合わせた。
「……ようやく、届きました」
吐息のような声だった。
「十歳のあの冬から、ずっと、この手を伸ばしていたんです」
リゼットは、ユリアンの手を取った。
大きな手。
自分の手を、すっぽりと包み込んでしまう手。
その指に、自分の指をそっと絡める。
「ええ。……ちゃんと、届いていますよ」
暖炉の炎が、寄り添う二人の影を、壁に大きく映し出していた。




