↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結】期限付きの白い結婚のはずが、年下公爵様の成人の日に『期限なんて最初からありません』と言われました  作者: フトダマノミコト


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
23/24

第23話 弟なんかじゃない

 王都から屋敷に戻ったのは、夜も更けた頃だった。


 マーサが用意してくれた夕食を済ませ、湯浴みをして。

 気づけば、二人はいつものように、暖炉の前に並んで座っていた。



 八年前から、一度も途切れたことのない時間。


 けれど今夜は、どちらも本を開いていなかった。



 暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜる。


 ユリアンは、何も言わなかった。

 炎を見つめる横顔が、どこか緊張しているように見えた。



(王宮で、あんなふうに言ってしまったから)



 答えは、夫に直接伝えたい。


 あのとき、ユリアンの手がわずかに震えたのを、リゼットは覚えていた。

 屋敷に帰る馬車の中でも、ユリアンは一言もその話に触れなかった。



「……ユリアン」



 リゼットが名前を呼ぶと、ユリアンの肩が小さく揺れた。



「はい」


「陛下との、最後の約束のこと」



 ユリアンは、炎から目を離さないまま、静かに言った。



「……本当は、ずっと怖かったんです」



 リゼットは、ユリアンの横顔を見つめた。



「六年かけて、逃げ道を全部塞いで。働き口も、実家も、帰る場所も、全部。リゼットには、僕の隣しか残らないようにしました」



 ユリアンは、膝の上で両手を組んだ。


 その指先に、ぎゅっと力がこもっている。



「でも、陛下とのあの約束だけは、どうしても塞げなかった。リゼットが本気で去りたいと言ったら、僕は手を離さなければならない」



 ユリアンの声が、少しだけ掠れた。



「誕生日の日も、温室でも、迎えに行った朝も。……いつ、リゼットがそれを口にするのかと、ずっと怖かった」



 リゼットは、息を詰めた。


 あれほど余裕のある顔で微笑んでいたユリアンが。

 逃げても迎えに行くと、甘く囁いていたユリアンが。



(ずっと、怖がっていたの)



「だから、リゼット」



 ユリアンは、ようやくリゼットのほうを向いた。


 紫色の瞳が、暖炉の炎を映して揺れていた。



「答えを、聞かせてください。……どんな答えでも、受け止めますから」



 その瞳は、嵐の夜に「行かないで」と言った、十歳の少年の瞳と、何も変わっていなかった。




 リゼットは、ゆっくりと手を伸ばした。


 ユリアンの頬に、そっと触れる。

 指先に、温かな体温が伝わってくる。



「ユリアン。私、ずっと自分に言い聞かせていたんです。あなたは弟のようなものだ、家族のようなものだ、って」



 ユリアンの瞳が、かすかに揺れた。



「八つも年上で、実家にも疎まれていて、あなたの隣にふさわしくない。だから、勘違いしてはいけない。ちゃんと笑って、出ていかなければいけないって」



 リゼットは、小さく笑った。


 目の奥が、熱くなってくる。



「でも、ベルナール家の北の部屋で、ひとりで夜を過ごして、やっと分かったんです。……私は、あなたに会いたかった。知らない誰かの妻にされるくらいなら、もう二度とあなたに会えないくらいなら」



 声が、震えた。


 それでも、リゼットは最後まで言った。



「私は、ユリアンの隣にいたいです」



 ユリアンが、息を呑んだ。



「あなたは、もう弟なんかじゃない。……ずっと前から、そうじゃなかったんです。気づかないふりを、していただけで」



 リゼットは、ユリアンの瞳をまっすぐに見つめた。



「ユリアン。あなたを、愛しています」




 暖炉の炎だけが、ぱちぱちと音を立てていた。


 ユリアンは、しばらく動かなかった。

 紫色の瞳を大きく見開いたまま、リゼットを見つめている。



「……ユリアン?」



 不安になって名前を呼んだ瞬間、強く抱きしめられた。


 息が止まるほど、強く。

 大きな腕が、リゼットの体を丸ごと包み込んで、離さない。



「……っ、リゼット」



 耳元で、震える声がした。



「本当に、いいんですか。僕は、リゼットが思っているよりずっと、しつこいですよ。一度捕まえたら、もう二度と離しません」


「知っています」


「逃げても、追いかけます。どこへ行っても、迎えに行きます」


「それも、知っています」



 リゼットは、ユリアンの背中に腕を回した。


 広い背中だった。

 嵐の夜、震えていた小さな背中は、もうどこにもない。



「だから、もう逃げません。……迎えに来てもらわなくても、ずっとここにいます」



 ユリアンの腕に、さらに力がこもった。


 肩口に押しつけられた額が、熱い。

 しばらくして、そこがじんわりと濡れていくのが分かった。



 八年前と、同じだった。


 あの嵐の夜も、こうして静かに涙を零していた。

 声を上げずに、肩を震わせて。



(この人は、やっぱりあの子のままなのね)



 リゼットは、ユリアンの黒い髪を、そっと撫でた。


 あの夜と、同じように。



「大丈夫。私は、ここにいますよ」




 どれくらい、そうしていただろう。


 やがてユリアンが、ゆっくりと顔を上げた。

 目元が、ほんのりと赤くなっている。



「……格好悪いところを、見せてしまいました」


「いいえ。私は、どんなユリアンも好きです」



 リゼットが微笑むと、ユリアンは困ったように眉を下げた。


 それから、リゼットの頬に、そっと手を添えた。



「リゼット」


「はい」


「口づけても、いいですか」



 真剣な瞳だった。


 六年間、陛下との約束を守り続けてきた人の、最後の確認。



 リゼットは、頬を真っ赤に染めながら、小さく頷いた。



 ユリアンの顔が、ゆっくりと近づいてくる。


 リゼットは、そっと目を閉じた。



 唇に、柔らかな熱が触れた。


 ほんの一瞬の、羽根が触れるような口づけ。

 けれどそれは、リゼットがこれまで生きてきた中で、いちばん温かいものだった。



 唇が離れると、ユリアンは額をこつんとリゼットの額に合わせた。



「……ようやく、届きました」



 吐息のような声だった。



「十歳のあの冬から、ずっと、この手を伸ばしていたんです」



 リゼットは、ユリアンの手を取った。


 大きな手。

 自分の手を、すっぽりと包み込んでしまう手。


 その指に、自分の指をそっと絡める。



「ええ。……ちゃんと、届いていますよ」



 暖炉の炎が、寄り添う二人の影を、壁に大きく映し出していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。