第24話 二度目の結婚式
最終話になります。
春の終わり、アーデルハイト公爵家の屋敷の礼拝堂で、小さな結婚式が開かれた。
八年前、リゼットがこの家に嫁いだとき、式は挙げられなかった。
国王立会いのもとで契約書に署名をして、それで終わりだった。
「今度こそ、ちゃんと式を挙げましょう」
そう言い出したのは、ユリアンだった。
国中の貴族を招いた、盛大な式にすることもできた。
けれどリゼットが望んだのは、この屋敷で、大切な人たちだけを招いた、小さな式だった。
「奥様、本当にお綺麗です……」
控えの間で、マーサがハンカチで目元を押さえていた。
リゼットが着ているのは、真っ白な花嫁衣装だった。
裾には銀糸で細やかな刺繍が施され、その中に、一羽の小さな鳥と、一匹の狐が隠れている。
「マーサさん、泣かないでください。まだ、式が始まってもいないのに」
「だって、奥様……八年前、坊ちゃまのお部屋の前に座り込んで本を読んでいらした奥様が、こうして本当の花嫁に……」
マーサは、とうとう声を詰まらせた。
リゼットは、その皺だらけの手をそっと握った。
「マーサさんがいてくれたから、ここまで来られたんです。……本当に、ありがとうございます」
マーサは、何度も何度も頷いた。
礼拝堂に集まったのは、本当に限られた人たちだけだった。
マーサと、その息子の御者。
厨房のハンナをはじめとする、屋敷の使用人たち。
そして、最前列の席に、一人の老人が座っていた。
「……料理長」
リゼットは、思わず足を止めた。
ベルナール家の厨房で働いていた、老料理人だった。
八年前、誰も見送りに来なかった朝、たった一人で門の前に立ち、頭を下げてくれた人。
「奥様。……いえ、リゼットお嬢様。おめでとうございます」
老料理人は、しわくちゃの顔をさらにくしゃくしゃにして笑った。
「ベルナール家がなくなって、行く当てを失っていたところを、公爵様が拾ってくださったのです。来月から、こちらの厨房でお世話になることになりました」
リゼットは、隣に立つユリアンを見上げた。
ユリアンは、少しだけ照れたように視線を逸らした。
「リゼットが、時々話していたので。八年前、たった一人で見送ってくれた人がいたと」
「ユリアン……」
「それに、ベルナール家で証言してくれた侍女も、こちらで雇うことにしました。……リゼットに味方してくれた人を、放っておくわけにはいきませんから」
リゼットは、胸がいっぱいになって、何も言えなくなった。
この人は、いつもそうだ。
リゼットが気づかないところで、リゼットのために、たくさんのものを用意してくれている。
祭壇の前で、二人は向かい合った。
司祭が、静かに誓いの言葉を読み上げていく。
「ユリアン・アーデルハイト。汝は、この者を妻とし、病めるときも健やかなるときも、生涯愛し、慈しむことを誓いますか」
「誓います」
迷いのない声だった。
ユリアンは、まっすぐにリゼットを見つめていた。
紫色の瞳に、リゼットだけを映して。
「リゼット・アーデルハイト。汝は、この者を夫とし、病めるときも健やかなるときも、生涯愛し、慈しむことを誓いますか」
リゼットは、一度だけ深く息を吸った。
八年前、震える指で契約書に名前を書いた。
形だけの妻として、八年後には出ていくはずだった。
あの日の自分に、教えてあげたい。
「誓います」
リゼットは、微笑んで答えた。
ユリアンが、ほっとしたように目を細める。
指輪が交わされ、司祭が二人を夫婦と宣言した。
ユリアンは、リゼットの顔を覆うヴェールを、そっと持ち上げた。
「リゼット」
「はい」
「もう、どこにも行かせませんよ」
穏やかな声だった。
けれどその言葉には、八年分の想いが、静かに、重く込められていた。
リゼットは、笑って頷いた。
「ええ。どこにも行きません」
ユリアンの唇が、そっとリゼットの唇に重なった。
礼拝堂に、温かな拍手が響いた。
マーサが、とうとう声を上げて泣き出した。
その夜、二人は暖炉の前に並んで座っていた。
もう、別々の部屋に戻る必要はない。
公爵夫人の部屋と、当主の部屋を繋ぐ扉は、今夜から開け放たれている。
「リゼット。今夜は、僕が本を読んでもいいですか」
ユリアンが差し出したのは、表紙の角が擦り切れた、古い童話集だった。
八年前、扉の前でリゼットが読み聞かせた本。
リゼットが、出ていくときにトランクの底へしまったはずの本だった。
「それ……」
「リゼットのトランクから、勝手にお借りしました。すみません」
ユリアンは、悪びれもせずに微笑んだ。
それから、ゆっくりと最初の頁を開いた。
「むかしむかし、ある森の奥に、ひとりぼっちの小さな狐がおりました」
低く、穏やかな声だった。
八年前、扉の向こうで息を潜めて聞いていた少年が、今はリゼットの隣で、同じ物語を読んでいる。
リゼットは、ユリアンの肩にそっと頭を預けた。
ユリアンは、片手で本を持ったまま、もう片方の手でリゼットの手を握った。
指が、ゆっくりと絡められる。
「……春になって、小鳥はたくさんの仲間を連れて戻ってきました。それで、狐はもう、ひとりぼっちではなくなりました」
最後の頁を読み終えると、ユリアンは本を閉じた。
そして、リゼットの顔を覗き込んで、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「リゼット。八年前、僕は聞きましたよね。小鳥は、その後もずっとそこにいたんですか、と」
「……ええ」
「リゼットは、お話には書いていないけれど、きっとそうだと思うと言いました」
ユリアンは、繋いだ手を持ち上げて、リゼットの指先に口づけた。
「だから、僕が書き足しておきます。……小鳥は、その後もずっと、狐の隣にいました。狐が、一度捕まえた小鳥を、二度と離さなかったので」
リゼットは、思わず吹き出した。
「それでは、ずいぶん怖いお話になってしまいます」
「そうですか? 僕は、いちばん幸せな終わり方だと思いますけれど」
ユリアンは、穏やかに微笑んだ。
その微笑みは、いつもと同じくらい優しくて、いつもと同じくらい甘かった。
リゼットは、繋がれた手を握り返した。
期限付きの、形だけの妻だった。
八年後には、ひとりで出ていくはずだった。
けれど今、この手は、もう二度と離れることはない。
「……ええ。私も、そう思います」
暖炉の炎が、ぱちりと優しく爆ぜた。
窓の外では、春の夜空に、たくさんの星が穏やかに瞬いていた。
(完)
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