第20話 攫われた花嫁
八年ぶりに見るベルナール家の屋敷は、記憶よりもずっと小さく見えた。
馬車を降りたリゼットは、門の前で足を止めた。
懐かしさは、少しもなかった。ただ、胸の奥がひやりと冷たくなるだけだった。
(お父様に会ったら、すぐに帰ろう)
ユリアンが王宮から戻るのは、明日の夜だ。
それまでに戻れば、きっと心配をかけずにすむ。
玄関の扉が開き、継母のカトリーヌが姿を見せた。
その顔には、見たこともないほど優しげな笑みが浮かんでいた。
「よく来てくれたわね、リゼット。お父様がお待ちかねよ」
「お義母様。お父様のご容態は」
「ええ、ええ。さあ、早く中へ」
カトリーヌに背中を押されるようにして、リゼットは屋敷の中へ入った。
けれど、案内されたのは、父の寝室ではなかった。
二階の、北の小部屋。
八年前まで、リゼットが使っていた部屋だった。
「お義母様、ここは……」
振り返った瞬間、背後で扉が閉まった。
がちゃり、と鍵のかかる音がした。
「お義母様!?」
リゼットは、扉を叩いた。
扉の向こうから、くすくすと笑う声が聞こえてくる。
カトリーヌのものではない。もっと若い、甲高い声。
「お姉様ったら、本当にお人好しね」
クラリスだった。
「お父様なら、今日もお元気に王宮へお勤めよ。病気だなんて、嘘に決まっているじゃない」
リゼットは、扉を叩く手を止めた。
頭の奥が、すうっと冷えていく。
(……騙された)
オズワルドの言葉も、手紙も、すべて罠だったのだ。
ユリアンは、父の知らせを隠してなどいなかった。
最初から、そんな知らせはなかったのだ。
「どうして、こんなことを」
「どうしてって、決まっているでしょう?」
クラリスの声が、楽しそうに弾む。
「お姉様には、明日の朝、グラウバー伯爵のところへ行ってもらうの。婚姻の届けは、お母様がもう用意してくださっているわ」
「私は、ユリアンの妻です。他の方と結婚することなどできません」
「白い結婚だったのでしょう? しかも、もう期限は過ぎたわ。お姉様は離縁されたのよ。叔父様がそう証言してくださるもの」
リゼットは、唇を噛んだ。
ユリアンが、国王の許しを得て契約を書き換えたことを、この人たちは知らない。
オズワルドも、知らないのだ。
「公爵様には、お姉様は自分から出ていったって伝えてあげる。置き手紙も書いたのでしょう? ちょうどいいわ」
「クラリス、お願い、ここを開けて」
「いやよ」
クラリスの声から、笑みが消えた。
「ずるいのよ、お姉様は。いつも地味で、何の取り柄もないくせに、みんなお姉様のほうを見る。昔から、そうだった」
「……クラリス?」
「お父様だって、本当は今でもお姉様のことばかり気にしているの。お姉様の亡くなったお母様に、似ているからって」
扉越しに聞こえる声は、ひどく歪んでいた。
「やっと追い出したと思ったら、今度は公爵様。あんなに素敵な方が、お姉様なんかを大事にするなんて、おかしいわ」
そして、吐き捨てるように言った。
「だから、全部返してもらうの。公爵夫人の席も、公爵様も、全部私のものよ」
足音が、遠ざかっていった。
夜になっても、誰も来なかった。
北の小部屋は、八年前と何も変わっていなかった。
日当たりが悪く、暖炉には火の気がない。窓の隙間から、冷たい風が吹き込んでくる。
リゼットは、薄い毛布にくるまって、窓辺に座っていた。
八年前、この部屋でトランクに荷物を詰めた夜を思い出す。
あのとき、窓から見上げた冬の星は、凍えるように瞬いていた。
(ユリアンとの約束を、破ってしまった)
どこにも行かないでほしいと、言われていたのに。
叔父には近づかないでほしいと、何度も言われていたのに。
父が倒れたと聞いて、確かめもせずに飛び出してきてしまった。
(私が、馬鹿だったんだわ)
リゼットは、膝を抱えた。
髪に結んだ淡い青色のリボンに、そっと指で触れる。
ユリアンが十二歳のとき、王都から買ってきてくれたリボン。
――どこへ行っても、僕が迎えに行きますから。
温室で、ユリアンはそう言った。
北の果てでも、海の向こうでも。
必ず見つけます、と。
(……来てくれる、かしら)
そう思った瞬間、自分の気持ちがはっきりと分かった。
来てほしい。
ユリアンに、会いたい。
ここで、知らない誰かの妻にされるくらいなら。
もう二度と、あの紫色の瞳に見つめてもらえなくなるくらいなら。
(私は、ユリアンの隣にいたい)
八つ年上でも。
実家に疎まれていても。
ふさわしくなどないと、誰に笑われても。
「……ユリアン」
名前を呼んだら、涙が零れた。
逃げ道なんて、最初からなかった。
本当は、逃げたくなんてなかったのだ。
夜明け前、扉の鍵が乱暴に開けられた。
「起きなさい。迎えが来たわ」
カトリーヌが、使用人を二人連れて立っていた。
リゼットは、両腕を掴まれて部屋から引きずり出された。
抵抗しても、細い腕では使用人たちの力にかなわない。
玄関ホールに下りると、そこには見知らぬ老人が立っていた。
白髪交じりの髪を後ろに撫でつけ、杖をついている。
濁った目が、リゼットの頭から足先までを、品定めするように舐め回した。
「ほう。これが、公爵家から戻ってきた娘か。思っていたより、悪くない」
グラウバー伯爵だった。
その後ろには、満足げに微笑むオズワルドの姿もあった。
「伯爵。約束どおり、白い結婚のまま離縁された女です。公爵家とは、もう何の関係もありません」
「よかろう。では、さっそく届けに署名を」
カトリーヌが、一枚の書類を差し出した。
リゼットは、首を横に振った。
「署名など、いたしません」
「あら、強情ね」
カトリーヌは、扇で口元を隠して笑った。
「別に構わないのよ。署名なんて、後でいくらでも代わりに書けるもの。伯爵の領地に着いてしまえば、誰も文句は言えないわ」
リゼットは、そのまま玄関の外へ連れ出された。
門の前には、グラウバー伯爵家の紋章が入った、黒い馬車が止まっていた。
「お父様は」
リゼットは、振り返って叫んだ。
「お父様は、このことを知っているのですか!?」
誰も、答えなかった。
ただ、二階の執務室の窓に、一瞬だけ人影が見えた気がした。
カーテンの陰から、こちらを見下ろしている影。
それはすぐに、カーテンの奥へと消えていった。
(……お父様)
リゼットは、唇を噛みしめた。
八年前と、同じだった。
父は、今日も自分を見てはくれない。
馬車の扉が、目の前で開かれた。
使用人に押し込まれそうになったリゼットは、最後にもう一度だけ、髪のリボンに触れた。
(ユリアン)
そのときだった。
遠くから、地鳴りのような音が響いてきた。
まだ薄暗い夜明けの空の下。
屋敷へと続く一本道の向こうから、いくつもの松明の光が、こちらへ近づいてくる。
馬の蹄の音。
その先頭を駆ける一騎は、夜明けの闇に溶けるような、黒い馬だった。




