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【完結】期限付きの白い結婚のはずが、年下公爵様の成人の日に『期限なんて最初からありません』と言われました  作者: フトダマノミコト


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第19話 十八歳、ようやく届いた手(ユリアン視点)

 十五歳になった頃、ユリアンはリゼットの背を追い越した。


 初めてリゼットを見下ろした日のことを、よく覚えている。

 廊下ですれ違ったとき、いつもと同じように見上げようとして、視線が少し下に落ちた。



「まあ、公爵様。いつの間に、そんなに大きくなられたのですか」



 リゼットは、驚いたように目を丸くしていた。


 そして、少しだけ寂しそうに笑った。



「もう、私が手を引いてさしあげることもありませんね」



 その言葉に、ユリアンは胸の奥がちくりと痛んだ。


 リゼットは、まだ自分を子どもとして見ている。

 弟として、守るべき存在として。



(それなら、今度は僕が手を引けばいい)



 その日から、ユリアンは階段でリゼットに手を差し出すようになった。


 最初、リゼットは戸惑っていた。

 けれど、そのうち少しずつ、当たり前のように手を重ねてくれるようになった。



 同じ頃、ユリアンは公爵夫人の部屋の改装を始めた。


 壁紙は、リゼットの瞳と同じ淡い青色。

 窓辺には、リゼットが好きな白い花を飾れるように、小さな棚をつけた。


 マーサだけが、そのことを知っていた。




 十六歳になると、ユリアンは夜会に出るようになった。


 公爵家の当主として、顔を広げておく必要があった。

 叔父上の手から完全に家を取り戻すためには、味方になる貴族を一人でも多く作っておかなければならない。



 夜会に出るたびに、令嬢たちに囲まれた。


 美しい令嬢も、家柄のいい令嬢も、大勢いた。

 誰もが、ユリアンが成人したら離縁することを知っていて、その後の席を狙っていた。



 ユリアンは、誰とも踊らなかった。


 心が動いたことなど、一度もなかった。

 どれほど美しく着飾った令嬢よりも、屋敷の東屋で刺繍をしているリゼットのほうが、ずっと綺麗だと思った。



 その代わり、ユリアンは屋敷で、ダンスの教師について練習を重ねた。


 いつか、リゼットと踊るために。

 リゼットがステップを間違えても、何事もなかったように導けるように。




 十七歳の初夏、マーサが一枚の手紙を持ってきた。


 リゼットの部屋に落ちていた、ベルナール家からの手紙だった。



 グラウバー伯爵。

 支度金。

 今度こそ、家の役に立ちなさい。



 読み終えたとき、自分の中で何かが冷たく凍りつくのが分かった。


 八年前、リゼットを売るように嫁がせた家が。

 今度は、六十を過ぎた老人の四番目の妻として、リゼットを売ろうとしている。



(この人たちは、リゼットを何だと思っているんだ)



 その夜、ユリアンはベルナール家とグラウバー伯爵家に、丁重な断りの手紙を書いた。


 アーデルハイト公爵家の妻に、再婚の話など無用である、と。

 それ以上何か言ってくるなら、公爵家として正式に抗議する、と。



 同時に、信頼できる者を一人、ベルナール家の周辺に置いた。


 あの家が、これで諦めるとは思えなかった。




 秋の夜会で、リゼットは夜空色のドレスを着た。


 三年前から仕立て屋を呼んで、少しずつ準備させていたドレスだった。

 階段を下りてくるリゼットを見た瞬間、ユリアンは息をするのを忘れた。



「綺麗です。……本当に、綺麗です」



 それしか、言葉が出てこなかった。


 その夜、リゼットの異母妹が、リゼットを嘲笑った。

 年上だと、行き場がないと、代わりなら自分がいると。



(……リゼットの代わりなど、この世のどこにもいない)



 リゼットと踊りながら、ユリアンはその手を離さなかった。


 腕の中のリゼットは、ひどく緊張していて、頬が赤かった。

 その顔を見て、ユリアンは初めて、ほんの少しだけ期待した。


 リゼットも、自分のことを、弟ではなく見てくれ始めているのではないかと。




 けれど冬が深まった頃、リゼットは北の子爵家に手紙を出した。


 マーサからそれを聞いたとき、ユリアンはしばらく何も言えなかった。



(やっぱり、出ていくつもりなのか)



 分かっていたことだった。

 リゼットは、約束を守る人だ。八年経ったら出ていくと、最初からそう言っていた。


 ユリアンのために。

 ユリアンの将来の、邪魔にならないように。



 リゼットが承諾の返事を書いた翌日、ユリアンは子爵家に断りの手紙を出した。


 代わりに、腕のいい家庭教師を一人紹介した。

 子爵家は喜んで、リゼットとの話はなかったことにしてくれた。



 暖炉の前で、リゼットは言った。


 この八年間、本当に幸せでした、と。

 だから、笑って送り出してください、と。



 ユリアンは、穏やかに微笑んだ。


 そうしなければ、リゼットの前で、みっともなく取り乱してしまいそうだった。



「……そうですか」



 その代わり、リゼットの手を取った。


 あと十日。

 その日まで、どこにも行かないでほしいと。



 リゼットは、約束してくれた。


 ユリアンは、その手を握ったまま、なかなか離すことができなかった。




 十八歳の誕生日の朝、リゼットは離縁状を差し出した。


 ユリアンは、それを裂いた。

 何度も、何度も。二度と元に戻らないように。



 そして、六年間胸の奥にしまってきた言葉を、すべてリゼットに伝えた。


 驚きすぎて言葉を失ったリゼットを見て、さすがに急ぎすぎたと思った。

 六年分の想いを、一度に押しつけてしまった。



 けれど、後悔はしていなかった。


 ようやく、言えたのだから。



 それからの日々、リゼットは何度も戸惑い、時々逃げた。


 それでも、差し出した手を、最後には必ず取ってくれた。

 名前を呼べば、頬を染めて振り返ってくれた。



(もう少しだ)



 あと少しで、リゼットは自分を選んでくれる。


 ユリアンは、そう信じていた。




 王宮での報告は、予定より一日早く終わった。


 叔父上の横領は、すべて裏付けが取れた。

 両親の馬車に細工をした御者も、ついに見つかった。叔父上に金で雇われたことを、すでに認めている。



 これで、すべてが終わる。


 叔父上を裁き、リゼットを脅かすものを一つ残らず取り除いて。

 そうしたら、改めてリゼットに求婚しよう。



 ユリアンは、急いで屋敷へ戻った。


 一日でも早く、リゼットの顔が見たかった。



 けれど、玄関でユリアンを出迎えたのは、顔面蒼白のマーサだった。



「旦那様……! 奥様が……奥様が、今朝、ベルナール家の馬車で……!」



 差し出されたのは、一枚の置き手紙だった。


 見慣れた、リゼットの丁寧な文字。



 ――お父様が病に倒れたと聞きました。一目会ったら、すぐに戻ります。

 ――逃げるわけではありません。必ず、帰ってきます。



 ユリアンは、その手紙を握りしめた。



「……ベルナール伯爵は、病になど倒れていない」



 ベルナール家に置いていた者からは、毎週報告が届いている。


 伯爵は、昨日も変わらず登城していた。

 ベルナール家からユリアン宛ての知らせなど、一通も届いていない。



「叔父上は」


「そ、それが……今朝から、東棟にお姿が見えず」



 ユリアンは、静かに目を閉じた。


 すべてが、繋がった。



 次に目を開けたとき、その紫色の瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。


 怒りも、焦りも。

 ただ、底の見えない冷たさだけが、静かに沈んでいる。



「馬を用意してくれ。一番速いものを」


「旦那様、お一人では」


「王宮の騎士を、すでに何人か連れてきている。彼らにも、すぐに出られるよう伝えてくれ」



 ユリアンは、置き手紙を丁寧に折りたたんで、懐にしまった。


 リゼットに贈られたハンカチと、同じ場所に。



「リゼットは、必ず帰ると書いている」



 低い声だった。


 マーサは、思わず息を呑んだ。

 八年間仕えてきて、初めて聞く声だった。



「だから、迎えに行く」



 逃げても、迎えに行くと約束した。


 奪われたのなら、なおさらだ。



 夕暮れの空の下、黒い馬に跨ったユリアンは、振り返りもせずに屋敷を飛び出していった。

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