第17話 十歳、あの人が来た日(ユリアン視点)
また、新しい大人が来るらしい。
叔父上がそう告げたのは、雪の降る朝だった。
ユリアンは窓辺に座ったまま、聞こえないふりをした。
「お前の妻だ。形だけのな。八年経てば出ていく女だ、仲良くする必要はない」
妻、という言葉の意味は知っている。
けれど、それが自分に何の関係があるのかは、よく分からなかった。
(どうせ、すぐいなくなる)
父上と母上がいなくなってから、一年が経つ。
その間に、乳母がいなくなった。
家庭教師がいなくなった。
父上の代から仕えていた執事も、叔父上に逆らったという理由でいなくなった。
残ったのは、マーサと、ほんの数人の使用人だけ。
大人は、みんないなくなる。
だから、最初から期待しなければいい。
それが、十歳のユリアンが一年かけて学んだことだった。
その人は、冬の夕暮れにやってきた。
叔父上に連れられて部屋に入ってきたのは、亜麻色の髪の、痩せた女の人だった。
着ているドレスは古く、袖口がほつれている。手は、伯爵令嬢とは思えないほど荒れていた。
(……この人も、叔父上に連れてこられたのか)
灰青色の瞳が、自分を見ていた。
同情しているのだろうか。
可哀想な子どもだと、思っているのだろうか。
どちらでもよかった。
どうせ、この人もすぐにいなくなる。
「あなたも、どうせすぐいなくなるんでしょう」
だから、最初に言っておいた。
期待させないでほしかった。期待して、また置いていかれるのは嫌だった。
けれどその人は、窓辺の少し手前で膝をついた。
ユリアンと、同じ目線になるように。
「でも、それは八年も先のことです。公爵様が大人になるまで、私はずっとここにいます。……それだけは、約束できます」
約束。
その言葉を、ユリアンは信じなかった。
大人の約束ほど、あてにならないものはない。
(父上も、母上も、すぐ帰ると言ったのに)
けれど、その人は帰り際に、黙って暖炉に薪を一本足していった。
叔父上に禁じられていることを、知っているはずなのに。
小さかった炎が、少しだけ大きくなった。
その夜、ユリアンは久しぶりに、手がかじかまずに眠ることができた。
翌日から、その人は毎日扉を叩いた。
朝と昼と夜。
一緒に食事をしませんか、と。
ユリアンは、そのたびに断った。
どうせ、三日もすれば諦める。
そう思っていたのに、その人は一週間経っても、十日経っても、扉を叩き続けた。
そのうち、部屋が暖かくなった。
使用人が運んでくる薪の量が、明らかに増えていた。
不思議に思って、こっそり使用人の話を聞いた。
「奥様が、ご自分のお部屋の薪を回してほしいって」
ユリアンは、しばらくその場から動けなかった。
あの人の部屋は、北向きだ。
この屋敷で、一番冷える部屋だ。
(どうして)
分からなかった。
あの人は、八年経てば出ていく人だ。
ユリアンに優しくしても、何の得にもならない。
その夜から、扉の向こうで、あの人の声がするようになった。
「むかしむかし、ある森の奥に、ひとりぼっちの小さな狐がおりました……」
ユリアンは、寝台の上で毛布を被った。
聞きたくなかった。
聞いてしまったら、きっと、期待してしまう。
けれど、その声はとても柔らかくて、あたたかくて。
気づけば、毛布から顔を出して、扉のほうを見つめていた。
何日目かの夜、ユリアンは扉の鍵に手をかけた。
指一本分だけ、開けた。
それ以上は、怖くて開けられなかった。
「……その狐。最後、どうなるんですか」
声が震えたのを、気づかれなかっただろうか。
扉の向こうで、あの人が笑った気配がした。
「明日の夜、続きを読みますね」
嵐の夜のことは、あまりよく覚えていない。
雷が鳴って、体が動かなくなって。
父上と母上の乗った馬車が帰ってこなかった夜と、同じ音がして。
気づいたら、あの人の腕の中にいた。
細い腕だった。
自分を抱きしめている手が、少しだけ震えていた。この人も、雷が怖いのかもしれないと思った。
それなのに、ずっと背中を撫でてくれていた。
「大丈夫。大丈夫ですよ」
母上と同じ撫で方だった。
泣くつもりなんてなかったのに、涙が止まらなかった。
父上と母上がいなくなってから、一度も泣いたことなんてなかったのに。
「……行かないで」
眠りに落ちる前、そう言ってしまった。
あの人は、「行きません」と言った。
朝まで、ここにいますと。
目を覚ましたとき、あの人は寝台の傍の椅子で眠っていた。
ユリアンの手を、握ったまま。
本当に、朝までいてくれた。
(……リゼット)
昨夜、初めて呼んだ名前を、もう一度心の中で呼んでみた。
その瞬間、胸の奥で、何かがかちりと音を立てた。
それからの朝食の時間は、ユリアンにとって一日でいちばん大切な時間になった。
リゼットは、よく笑う人だった。
ユリアンが人参を皿の端に寄せると、気づかないふりをしてくれる。口の端に蜂蜜をつけると、子ども扱いして拭いてくれる。
それが嫌ではない自分に、ユリアンは戸惑った。
「八年経ったら、私はここを出ていきます」
リゼットは、時々そう言った。
自分に言い聞かせるように。
ユリアンを、安心させるように。
そのたびに、ユリアンの胸の奥がざわついた。
八年。
リゼットは、その日を指折り数えているのだろうか。
(嫌だ)
その気持ちが何なのか、十歳のユリアンにはまだよく分からなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
リゼットを、どこにも行かせたくない。
ある朝、リゼットが帳簿を読めると言った。
ユリアンは、本から顔を上げた。
父上と母上が亡くなる少し前、父上が叔父上と口論していたのを覚えている。
家の金がどうとか、という話だった。
あの事故は、本当に事故だったのだろうか。
ユリアンは、ずっとそれを疑っていた。だから、法典を読み、家の仕組みを学んできた。
(リゼットが、帳簿を読めるなら)
けれど、ユリアンは何も言わなかった。
リゼットを、危ないことに巻き込みたくなかった。
叔父上に気づかれたら、リゼットまでいなくなってしまうかもしれない。
「……そうですか」
それだけ言って、本に視線を戻した。
口の端に蜂蜜がついていることに気づいたのは、リゼットに拭かれたあとだった。
(早く、大人にならなきゃ)
真っ赤になった顔を背けながら、ユリアンは思った。
大人になって、叔父上から家を取り戻して。
リゼットが、どこにも行かなくていい場所を作る。
八年なんて、待っていられない。
その前に、すべてを手に入れなければ。
窓から差し込む朝の光の中で、十歳の少年は、静かにそう決めた。




