第16話 叔父様の企み
ユリアンが成人したことで、オズワルドの後見人としての役目は終わった。
それと同時に、六年にわたる王宮の監査も、最終的な報告がまとめられることになった。
「ロウゼン商会という取引先は、実在しない商会でした」
執務室で、ユリアンは淡々と報告書を読み上げた。
リゼットは、その隣で静かに耳を傾けていた。
ユリアンが「リゼットにも聞いてほしい」と言って、執務室に呼んだのだ。
「叔父上は、この架空の商会を通じて、公爵家の財産を十年近くにわたって横領していました。その額は、領地の三年分の税収に相当します」
「そんな……」
リゼットは、思わず口元を押さえた。
六年前、熱を出したユリアンの看病のあとに、何気なく見つけた不自然な支払い。
あの小さな違和感が、これほど大きなものだったなんて。
「それだけではありません」
ユリアンの声が、わずかに低くなった。
「父上と母上の馬車が事故に遭った日。その馬車の車軸に、細工の痕があったことも分かりました」
リゼットは、息を呑んだ。
「まさか……叔父様が」
「まだ、確かな証拠はありません。ですが、監査官が当時の御者の行方を追っています」
ユリアンは、報告書を静かに机に置いた。
その紫色の瞳は、ひどく静かだった。
怒りも、悲しみも浮かんでいない。ただ、底の見えない冷たさだけが、静かに沈んでいる。
八年前、紅茶の零れたテーブルの前で見た、あの瞳と同じだった。
「……ユリアン」
リゼットは、思わずユリアンの手に、自分の手を重ねた。
ユリアンは、はっとしたように瞬きをした。
それから、リゼットの手を握り返して、小さく微笑んだ。
「大丈夫です。叔父上には、来月中にこの屋敷を出ていっていただきます。その後のことは、陛下のご判断に委ねます」
「来月……」
「ええ。それまでは、なるべく叔父上には近づかないでください」
ユリアンの指に、少しだけ力がこもった。
「僕は明日から三日ほど、報告のために王宮へ行かなければなりません。その間、リゼットのことはマーサに頼んでおきますが……くれぐれも、気をつけて」
「はい。分かりました」
リゼットが頷くと、ユリアンはようやく、ほっとしたように息を吐いた。
翌朝、ユリアンは名残惜しそうに何度も振り返りながら、王都へと出発していった。
ユリアンのいない屋敷は、また少しだけ静かになった。
(たった三日なのに)
リゼットは、自分の胸に手を当てた。
六年前、ユリアンが王都へ行った十二日間を思い出す。
あのときも寂しかった。けれど今の寂しさは、あのときとは少し違う気がした。
その日の昼下がり、リゼットが自室で刺繍をしていると、控えめなノックの音がした。
「マーサさん?」
扉を開けて、リゼットは凍りついた。
そこに立っていたのは、オズワルドだった。
「やあ、リゼット嬢。少し、話がしたくてね」
オズワルドは、以前と変わらない笑みを浮かべていた。
けれど、その顔はひどくやつれ、目の下には濃い隈が浮かんでいる。
「……叔父様。申し訳ありませんが、ユリアンから、叔父様には近づかないようにと」
「ユリアン、か。ずいぶん親しげに呼ぶようになったものだ」
オズワルドは、くつくつと喉の奥で笑った。
「すぐに済むよ。君のためを思って、忠告に来たんだ」
リゼットは、扉を閉めようとした。
けれど、オズワルドの次の言葉に、その手が止まった。
「君は、甥に利用されているんだよ」
「……何を」
「考えてみたまえ。十二の子どもが、王に頼み込んでまで、君を縛りつける契約を作った。君の働き口を勝手に断り、君の実家との縁も勝手に切った。……それが、愛だと思うかね?」
オズワルドは、声を潜めた。
「あれは、執着だ。君を自分の手の中に閉じ込めておきたいだけさ。兄上もそうだった。欲しいものは、何が何でも手に入れる。アーデルハイトの血だよ」
「……ユリアンは、そんな人ではありません」
「本当にそう言い切れるかね? 君に何の相談もなく、君の人生を勝手に決めているのに」
リゼットは、唇を噛んだ。
言い返したかった。
けれど、オズワルドの言葉の一部が、確かに事実だったことも否定できなかった。
「それに、君に知らせが届いていないようだから、教えてあげよう」
オズワルドは、懐から一通の手紙を取り出した。
ベルナール家の封蝋が押されていた。
「君の父上が、病に倒れたそうだ。もう長くないかもしれない、とね。ベルナール家から甥のもとへ知らせが届いていたが、甥はそれを君に隠していた」
「……え」
「君の実家と縁を切らせるためだろうね。父親の死に目にも、会わせないつもりなのさ」
リゼットは、震える手で手紙を受け取った。
見覚えのある、継母の筆跡だった。
父が病に倒れたこと。うわ言でリゼットの名を呼んでいること。一目でいいから会いに来てほしいこと。
(お父様が……)
父のことは、もう何年も考えないようにしていた。
自分を見なくなった父。
売られるように嫁いだ日、執務室から出てこなかった父。
それでも。
母が亡くなった日の、父の泣き顔を、リゼットは今も覚えていた。
「明日の朝、ベルナール家から迎えの馬車が来るそうだ。行くかどうかは、君が決めるといい」
オズワルドは、それだけ言うと、あっさりと踵を返した。
「……ああ、甥には言わないほうがいいだろうね。また、勝手に断られてしまうから」
オズワルドが去ったあと、リゼットは長いこと手紙を見つめていた。
ユリアンに確かめたかった。
けれど、ユリアンは王宮にいる。戻ってくるのは、二日後だ。
(もし、本当にお父様が危ないのなら)
二日も待っていられないかもしれない。
マーサに相談しようか。
けれど、そうすればきっと止められる。ユリアンから、叔父には近づくなと言われていたのだから。
(少しだけ。お父様の顔を見たら、すぐに戻ってくればいい)
リゼットは、机の上に便箋を広げた。
ユリアンへの置き手紙を書く。
父が病に倒れたこと。一目会ったら、すぐに戻ること。
――逃げるわけではありません。必ず、帰ってきます。
最後にそう書き添えて、リゼットはペンを置いた。
窓の外は、いつの間にか夕暮れに染まっていた。
その夜、東棟のオズワルドの部屋には、二つの人影があった。
「……本当に、あの子は来るのでしょうね」
扇で口元を隠しながら、カトリーヌが言った。
その隣には、薄桃色のドレスを着たクラリスが、不機嫌そうに座っている。
「来るさ。あの娘は、情に脆い。父親が危ないと聞けば、必ず来る」
オズワルドは、グラスの酒を一気に煽った。
「ベルナール家に着いたら、すぐにグラウバー伯爵のもとへ送り届けろ。伯爵には、白い結婚のまま離縁された女だと話してある。婚姻の届けさえ先に出してしまえば、あの若造にも手は出せん」
「その代わり、約束は守っていただきますわよ。公爵家の財産の一部を」
「ああ。あの娘さえいなくなれば、甥は腑抜けになる。その隙に、もう一度家を取り戻してみせるさ」
クラリスが、楽しそうにくすくすと笑った。
「お姉様、可哀想。せっかく公爵様に大事にされていたのに、今度はおじいさんの四番目の奥方だなんて」
「お前は、空いた公爵夫人の席に座ればいい」
「ええ、もちろん」
グラスが、かちりと鳴った。
窓の外では、春の夜の雲が、静かに月を隠していった。




