第15話 逃げ道はありません
誕生日の翌朝、リゼットは見慣れない天井の下で目を覚ました。
いや、正確には、見慣れない部屋ではない。
八年間、一度も足を踏み入れたことのなかった部屋だ。
――公爵夫人の部屋。
屋敷の二階、当主の部屋の隣にある、本来の奥方のための部屋だった。
「お目覚めですか、奥様」
ノックの音とともに、マーサが顔を覗かせた。
その顔は、隠しきれないほどにこにことしている。
「マーサさん……あの、私、どうしてこの部屋に」
「旦那様のご指示でございます。昨日のうちに、奥様のお荷物をすべてこちらへお運びいたしました」
昨夜、混乱したまま夕食を終えて部屋へ戻ろうとしたら、元の部屋はすっかり空っぽになっていた。
途方に暮れていたリゼットを、マーサがこの部屋へ案内したのだ。
疲れ切っていたリゼットは、深く考える間もなく眠りに落ちてしまった。
「で、でも、ここは公爵夫人の……」
「ええ。ですから、奥様のお部屋です」
マーサは、当然のように頷いた。
改めて部屋を見回すと、調度品はどれも真新しかった。
壁紙は淡い青色で、窓辺には、リゼットの好きな白い花が飾られている。
「このお部屋の改装、旦那様が十五の頃から少しずつ進めておられたのですよ」
「十五……?」
「はい。奥様がいつか、このお部屋をお使いになる日のためにと」
マーサは、目元の皺を深くして微笑んだ。
「八年前、旦那様の部屋の前に座り込んで本を読んでくださった奥様を見て、私はずっと願っておりました。いつか、このお二人が本当のご夫婦になれますようにと」
「マーサさん……」
「坊ちゃまは、本当に一途なお方です。どうか、それだけは信じてさしあげてくださいませ」
マーサは深々と頭を下げると、静かに部屋を出ていった。
朝食の席に向かうと、ユリアンはもう席についていた。
リゼットの姿を見るなり、ぱっと顔を輝かせて立ち上がる。
「おはようございます、リゼット。よく眠れましたか?」
「お、おはようございます、公爵様。……あの、お部屋のことですけれど」
「気に入りませんでしたか? 壁紙の色、リゼットの瞳に合わせたつもりだったんですが」
「い、いえ、とても素敵です。そうではなくて」
リゼットが言いよどむと、ユリアンは椅子を引いて、リゼットを座らせた。
そして、自分も向かいに座りながら、さらりと言った。
「それと、もう『公爵様』はやめてください」
「え?」
「ユリアン、と呼んでほしいんです。夫婦なんですから」
夫婦。
その言葉に、リゼットの頬がかっと熱くなった。
「そ、それは、まだ……お返事もしていないのに」
「ええ、待ちます。でも、名前で呼ぶくらいはいいでしょう?」
ユリアンは、テーブルの上で頬杖をついた。
紫色の瞳が、甘えるようにリゼットを見上げる。
十歳の頃、狐の話の続きをねだったときと、同じ目だった。
「……ユリアン、様」
「様は、いりません」
「ユ、ユリアン……」
消え入りそうな声で呼ぶと、ユリアンは、とろけるような笑みを浮かべた。
「はい、リゼット」
その笑顔があまりにも嬉しそうで、リゼットはまともに顔を見ることができなかった。
それからの日々は、リゼットにとって試練の連続だった。
ユリアンは、片時もリゼットの傍を離れようとしなかった。
朝は、部屋の前で待っている。
食事のときは、リゼットの皿に好物を取り分ける。
庭を散歩すれば、当然のように手を繋いでくる。
書庫で本を探していれば、背後から腕を伸ばして、高い棚の本を取ってくれる。
そのたびに、背中にユリアンの体温を感じて、リゼットの心臓は落ち着かなかった。
「ユリアン、執務はよろしいのですか?」
「リゼットと一緒に過ごすために、全部片付けてきました」
「全部……?」
「はい。この日のために、先の分まで前倒しにしておいたので」
さらりと言われて、リゼットは言葉を失った。
この人は、どこまで計画していたのだろう。
ある日の午後、リゼットは逃げるように庭の奥の温室に隠れた。
ほんの少しでいいから、ひとりで考える時間がほしかった。
(どうしよう。どうしたらいいの)
ガラス越しの柔らかな陽射しの中で、リゼットは膝を抱えた。
ユリアンのことが、嫌なわけではない。
むしろ、その逆だった。
傍にいられて、嬉しい。
名前を呼ばれて、胸が高鳴る。
手を繋がれるたびに、このままずっと離さないでいてほしいと思ってしまう。
(でも、本当にいいの? 私なんかが、あの人の隣にいて)
八つも年上で。
実家に疎まれ、売られるように嫁いできた女で。
いつか、ユリアンが若く美しい令嬢に心を移したとき、自分はそれに耐えられるだろうか。
「……やっぱり、ここにいた」
背後から声がして、リゼットはびくりと肩を跳ねさせた。
振り返ると、温室の入り口にユリアンが立っていた。
「ど、どうして分かったのですか」
「リゼットは、悩みごとがあるときは、いつも花のある場所に行きますから」
ユリアンはゆっくりと近づいてきて、リゼットの隣に腰を下ろした。
肩が触れ合いそうな距離。
リゼットは、思わず身を縮めた。
「……逃げたくなりましたか」
静かな声だった。
リゼットは、答えられなかった。
ユリアンは、責めるでもなく、ただ穏やかに続けた。
「逃げてもいいですよ」
「え……」
「どこへ行っても、僕が迎えに行きますから。北の果てでも、海の向こうでも。リゼットがどこにいても、必ず見つけます」
ユリアンは、リゼットの髪に結ばれた淡い青色のリボンに、そっと指先で触れた。
「だから、逃げたくなったら、逃げてください。そのたびに、迎えに行きます。何度でも」
それは、優しい言葉のはずだった。
けれどリゼットには、それが「絶対に逃がさない」と言われているようにしか聞こえなかった。
「……ずるいです、ユリアン」
「はい。リゼットのためなら、いくらでもずるくなります」
ユリアンは、リゼットの額に、そっと唇を落とした。
羽が触れるような、ほんの一瞬の口づけだった。
「でも、無理には迫りません。陛下とのお約束もありますし、何より、リゼットが自分で僕を選んでくれるまで、待ちたいので」
そう言って、ユリアンは立ち上がった。
それから、リゼットに手を差し出した。
「そろそろお茶の時間です。マーサが、リゼットの好きな林檎のタルトを焼いてくれたそうですよ」
リゼットは、差し出された手を見つめた。
大きくて、温かい手。
この手を取ったら、きっともう、二度と離してもらえない。
(分かっているのに)
リゼットは、そっとその手に自分の手を重ねた。
ユリアンの指が、ゆっくりと絡められる。
離さない、というように。
温室の外に出ると、春の風が二人の髪を揺らした。
リゼットは、繋がれた手の温もりを感じながら、小さく息を吐いた。
(逃げ道なんて、最初からなかったのかもしれない)
そう思っても、なぜか少しも、嫌ではなかった。




