第14話 書き換えられた契約
「……書き換えた……?」
リゼットは、自分の耳を疑った。
ユリアンは頷くと、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
古びてはいるけれど、丁寧に保管されてきたことが分かる。その下部には、見覚えのある王家の印章が押されていた。
「読んでみてください」
差し出された羊皮紙を、リゼットは震える指で受け取った。
そこには、八年前に交わした婚姻契約の条項が、一つずつ書き写されていた。
けれど、最後の一文だけが、違っていた。
――公爵ユリアン・アーデルハイトが満十八歳に達した日をもって、本婚姻は白い結婚の期限を終え、正式な婚姻として継続されるものとする。
――ただし、本婚姻の解消には、当主ユリアン・アーデルハイトの同意を要する。
日付は、六年前の雪解けの頃。
ユリアンが、王都の生誕祭に出かけた年だった。
「これ……は……」
「叔父上の横領を陛下にお伝えしたとき、褒美として、何か一つ願いを叶えてやると仰っていただいたんです」
ユリアンは、穏やかに続けた。
「だから、お願いしました。僕の妻との婚姻契約を、書き換えてくださいと」
リゼットは、羊皮紙から顔を上げた。
あの日。
王都から戻ってきたユリアンは、「もうひとつお願いを聞いていただきました」と言った。「まだ秘密です」と、唇に人差し指を当てて笑っていた。
(あの、可愛らしい秘密が……これ?)
「陛下は、最初はお笑いになりました。十二の子どもが何を言うのかと。でも、僕が本気だと分かると、条件をつけて許してくださいました」
「条件……?」
「成人するまでの六年間、一度もリゼットに無理を強いないこと。白い結婚を守り、リゼットが健やかに暮らせるよう努めること。……それを守れたら、契約は書き換えたままにしておく、と」
ユリアンは、そこで少しだけ目を伏せた。
「守りましたよ。ちゃんと」
リゼットは、何も言えなかった。
頭の中が、真っ白になっていた。
「ど……うして」
ようやく零れた声は、ほとんど囁きだった。
「どうして、そんなことを。私は、ただの形だけの妻で……」
「形だけだと思っていたのは、リゼットと叔父上だけです」
ユリアンは、静かに立ち上がった。
テーブルを回り込み、リゼットの傍らまで来ると、その場に片膝をつく。
八年前、窓辺の少年に、リゼットがそうしたように。
同じ目線になるように。
「僕は、十歳のあの冬から、ずっと決めていました」
紫色の瞳が、まっすぐにリゼットを見上げた。
「リゼットを、手放さないと」
心臓が、痛いほどに鳴っていた。
「あなたを手放すために、大人になったわけじゃない。……あなたを手に入れるために、大人になったんです」
リゼットは、思わず椅子の上で身を引いた。
けれど、ユリアンの手がそっとリゼットの手を捕まえる。
逃がさないというように、けれど決して痛くはない強さで。
「ま、待ってください。公爵様は、私のことを家族として……姉のように、慕ってくださっているだけで」
「違います」
「でも、私は八つも年上で」
「知っています」
「伯爵家の出で、実家にも疎まれていて、公爵様の隣に立てるような人間では」
「そんなことを決めるのは、リゼットではありません。僕です」
ユリアンの声は、どこまでも穏やかだった。
けれど、リゼットがどれだけ言葉を重ねても、一つ残らず静かに打ち返されていく。
「リゼット。僕はあなたを、姉だと思ったことは一度もありません」
ユリアンは、リゼットの手の甲に、そっと唇を寄せた。
八年前、紅茶で火傷をした場所だった。
もう跡など残っていないはずのその場所に、柔らかな熱が落とされる。
「ひとりの女性として、ずっと、あなただけを愛しています」
部屋の中が、しんと静まり返った。
リゼットは、息をすることも忘れていた。
頬が燃えるように熱い。指先まで、震えが止まらない。
(嘘……そんな、まさか)
この子が。
あの嵐の夜に、震えながら自分のドレスを掴んでいた、小さな子どもが。
「……あの、公爵様」
「はい」
「北の子爵家に……今日、馬車が」
混乱したまま、リゼットはやっとのことで言葉を絞り出した。
ユリアンは、にこりと微笑んだ。
「お断りの手紙は、もう出してあります。リゼットが承諾の返事を書いた、翌日に」
「えっ……」
「代わりに、子爵家には腕のいい家庭教師を紹介しておきました。先方はとても喜んでくださいましたよ」
リゼットは、口をぱくぱくと開け閉めした。
言葉が出てこない。
「それと、ベルナール家からの再婚の話も、僕のほうからお断りしておきました。グラウバー伯爵にも、丁重にお伝えしてあります」
「ど……どうして、そのことを」
「この屋敷で、僕が知らないことはありませんよ」
十日前の夜と、同じ言葉だった。
ユリアンは、包み込んだリゼットの手を、優しく撫でた。
「リゼット。あなたには、もう帰る場所も、逃げる場所もありません。……僕の隣以外には」
その声は、ひどく甘かった。
甘くて、優しくて、そして、どうしようもなく重かった。
リゼットは、何も答えられなかった。
驚きすぎて、言葉が一つも浮かんでこない。
唇を開いては閉じ、ただ目の前の紫色の瞳を見つめることしかできなかった。
長い沈黙が、二人の間に落ちる。
やがて、ユリアンがふっと小さく息を吐いた。
張り詰めていた空気が、わずかにゆるむ。
「……急すぎましたね」
ユリアンは、困ったように眉を下げて微笑んだ。
さっきまでの、逃げ道を塞ぐような甘い声とは違う。
十歳の頃、狐の話の続きをねだったときのような、少しだけ照れた顔だった。
「すみません。六年分の気持ちを、一度にリゼットに押しつけてしまいました。……ずっと、この日を待っていたので」
ユリアンは、リゼットの手をそっと離した。
名残惜しそうに、指先がゆっくりと離れていく。
「返事は、今でなくていいです。リゼットの気持ちが追いつくまで、いくらでも待ちます」
「ユ……公爵様……」
「六年待ったんです。あと少し待つくらい、何でもありません」
穏やかにそう言って、ユリアンは立ち上がった。
それから、テーブルの上のハンカチを、大切そうに懐へしまう。
「これは、一生大事にします」
そう言って、細かく裂かれた離縁状の紙片を、一つ残らず拾い集めた。
「こちらは、暖炉にくべておきますね」
ユリアンが部屋を出ていく。
扉が閉まったあとも、リゼットは椅子に座ったまま動けなかった。
手の甲に、まだ熱が残っている。
窓の外では、迎えの馬車が来るはずだった昼が、何事もなかったかのように近づいていた。




