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【完結】期限付きの白い結婚のはずが、年下公爵様の成人の日に『期限なんて最初からありません』と言われました  作者: フトダマノミコト


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第12話 身を引く準備

 冬が深まり、ユリアンの十八歳の誕生日が少しずつ近づいていた。



 リゼットは、少しずつ準備を進めていた。


 誰にも気づかれないように、静かに。

 けれど確実に、この屋敷を出ていくための準備を。




 最初にしたのは、働き口を探すことだった。


 マーサに頼んで、王都の紹介所に手紙を出してもらった。

 家庭教師か、侍女か、針仕事か。住み込みで働ける場所なら、どこでもいい。



「奥様……本当に、よろしいのですか」



 手紙を預かったマーサは、何度もそう尋ねた。


 リゼットは、そのたびに微笑んで頷いた。



「ええ。最初から、決まっていたことですもの」


「ですが、旦那様は」


「公爵様には、まだ言わないでください。お誕生日の前に、余計な心配をかけたくないの」



 マーサは何か言いたげに唇を動かした。

 けれど結局、深いため息をついて手紙を受け取った。



「……かしこまりました」



 ひと月ほどして、紹介所から返事が届いた。


 北の辺境にある子爵家で、幼い娘の家庭教師を探しているという。

 王都からは馬車で十日以上かかる、遠い土地だった。



(遠いほうがいい。お義母様の手も、届かないもの)



 リゼットは、承諾の返事を書いた。


 ペンを持つ手が、少しだけ震えた。




 次にしたのは、身の回りの整理だった。


 八年近い間に、リゼットの持ち物はずいぶん増えていた。

 マーサが仕立ててくれたドレス。ユリアンが誕生日ごとに贈ってくれた、本や刺繍糸や小さな装身具。



(全部は、持っていけないわね)



 ドレスのほとんどは、置いていくことにした。

 公爵家の財で仕立てたものだ。離縁する妻が持ち出すべきではない。



 けれど、どうしても手放せないものがあった。


 嵐の夜に読んだ、表紙の角が擦り切れた童話集。

 ユリアンが十二歳のとき、王都から買ってきてくれた淡い青色のリボン。

 十歳の冬、ユリアンが初めてぎこちない字で書いてくれた、誕生日のカード。



 ――リゼットへ。いつも、ありがとう。



 たった一行の、短い言葉。

 それを読み返すたびに、目の奥が熱くなった。



(これくらいは、許してもらえるかしら)



 リゼットは、それらを古びたトランクの底にそっとしまった。


 八年前、この屋敷に来たときと同じトランク。

 あの日は半分も埋まらなかったその中に、今は大切なものがいくつも詰まっている。




 最後に、リゼットは書斎の机に向かった。


 婚姻契約書の写しを広げ、そこに書かれた条項を、もう一度確かめる。

 そして、新しい紙に、ゆっくりとペンを走らせた。



 ――離縁状。



 その三文字を書いた瞬間、ペン先が止まった。


 インクが、じわりと紙に滲んでいく。



(どうして、こんなに苦しいの)



 最初から分かっていたことだ。

 八年経てば、ここを出ていく。それが約束だった。


 あの子が立派な大人になるまで、傍にいる。

 それだけが、自分の役目だったはずなのに。



(……ああ、そうか)



 リゼットは、ペンを置いた。


 ずっと、気づかないふりをしていた。

 弟のようだと、家族のようだと、何度も自分に言い聞かせてきた。



 でも、本当は。



(私は、あの子のことが……)



 そこまで考えて、リゼットはぎゅっと目を閉じた。


 だめだ。

 その先を、言葉にしてはいけない。



 八つも年上で、期限付きの、形だけの妻。

 これから立派な公爵として歩んでいくあの子の隣に、自分がいていいはずがない。



(だからこそ、ちゃんと笑って出ていかなくちゃ)



 リゼットは深く息を吸い込んで、もう一度ペンを取った。


 震える指で、最後まで書き上げる。

 署名欄に自分の名前を記し、インクが乾くのを待って、丁寧に折りたたんだ。



 誕生日の朝に、これをユリアンに渡そう。


 そして、「おめでとうございます」と笑って、この屋敷を出ていくのだ。




 その夜、いつものように、二人は暖炉の前に並んで座っていた。


 さすがにもう、童話を読み聞かせることはない。

 今はそれぞれ好きな本を持ち寄って、黙って頁をめくるだけだ。


 それでも、この時間は八年間、一度も途切れたことがなかった。



「……リゼット」



 不意に、ユリアンが本を閉じた。



「はい」


「北の子爵家に、手紙を書いたそうですね」



 リゼットの心臓が、どくんと大きく跳ねた。



「……どうして、それを」


「この屋敷で、僕が知らないことはありませんよ」



 ユリアンは、穏やかに微笑んでいた。


 いつもと同じ、優しい笑顔。

 けれど、その紫色の瞳だけが、少しも笑っていなかった。



「家庭教師として、住み込みで働くつもりなんですね。王都から十日もかかる、遠い場所で」


「……はい」



 もう、隠しても仕方がなかった。


 リゼットは膝の上で両手を握りしめ、ユリアンの顔を見ないまま言った。



「約束ですから。公爵様が成人なさったら、私はここを出ていきます」


「……」


「公爵様は、これからもっと立派になられます。いずれ、ふさわしいお相手を迎えて、この家を守っていかれる。……私がいたら、その邪魔になってしまいます」



 声が震えないように、必死だった。



「だから、どうか笑って送り出してください。この八年間、本当に……本当に、幸せでしたから」



 言い終えると、部屋の中に沈黙が落ちた。


 暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜる。



「……そうですか」



 やがて、ユリアンが静かに言った。


 怒るでもなく、引き止めるでもなく。

 ただ、ひどく穏やかな声で。



 その声に、リゼットはほっとした。

 そして、ほっとした自分に、少しだけ胸が痛んだ。



(よかった。分かってくれた)



 そう思って顔を上げた瞬間、ユリアンの手が、リゼットの手をそっと取った。



 大きな手だった。


 八年前、震えながらドレスの裾を掴んでいた、あの小さな手とは違う。

 リゼットの手を、すっぽりと包み込んでしまう、大人の男の手。



「リゼット」



 ユリアンは、包み込んだリゼットの指先を、ゆっくりと自分の唇に近づけた。


 触れるか、触れないか。

 その距離で、低く囁く。



「誕生日まで、あと十日ですね」


「……はい」


「その日まで、どこにも行かないでください。……約束、してくれますか」



 紫色の瞳が、まっすぐにリゼットを見つめていた。


 そこに浮かんでいるものが何なのか、リゼットには分からなかった。



「……約束します」



 リゼットが頷くと、ユリアンはようやく、ふわりと微笑んだ。



「ありがとうございます、リゼット」



 その微笑みは、いつもと同じくらい優しかった。


 けれどリゼットの手を握る指は、なかなか離れようとしなかった。




 その夜、ユリアンの部屋の机の引き出しには、一枚の書類が眠っていた。


 古びた羊皮紙に、国王の印章が押されている。

 六年前の雪解けの頃、十二歳の少年が王都から持ち帰ったものだった。



 ユリアンは、引き出しの中のそれを見下ろして、静かに目を細めた。



「あと、十日」



 その声は、ひどく甘く、そしてどこまでも静かだった。

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