冬の雨に溶ける…
年が明け、松の内の賑わいが去り、街は落ち着きを取り戻しつつあった。
クリスマスイブの夜、ホテルのベッドで決定的な亀裂が入ってからというもの、美結は瀬戸からの連絡をすべて未読のまま放置していた。スマートフォンの画面に浮かび上がる彼の名前を見るたび、ベッドの上で響いた「堕すしかないよね」という平坦な声が鼓膜に蘇り、胸の奥がひどく冷え込んだ。あの一言が、美結の抱いていた儚い熱を容赦なく凍らせてしまった。
夫は年末年始の休暇中も、書斎にこもりきりであった。美結が丹念におせち料理を並べた食卓でも、夫の視線は常に手元のタブレット端末に向けられている。美結や子どもたちが交わす他愛のない会話に混ざることはない。美結がどれほど心を砕いて家事をこなそうとも、夫は「あって当然の日常の背景」に等しい。美結はただの家事をするお手伝いさんなのか。それとも、手入れの行き届いた家電製品なのか。それらにしても感謝される存在だろう。ということは感謝の言葉さえかけてくれないのであれば、それ以下ということなのか。頭をよぎった瞬間、考えるのをやめた。
息を潜めて年末年始を過ごしていると、ふと、瀬戸の纏っていた泥臭い熱や、不器用な言葉の数々が、遠くの温かい幻のように思えてくる瞬間があった。彼が投げつけてきた残酷な言葉すら、血の通った人間関係の証のように錯覚しそうになる。そのたびに美結は首を横に振った。
一月の半ば。冷たい雨が降る平日の午後だった。
勤務を終えて着替えている最中、美結のスマートフォンが短く震えた。
『仕事の空き時間に、病院の近くの喫茶店にいます。直接顔を見て、あの夜のことを謝りたい。十五分、時間をくれませんか。ずっと待っています』
無視すればよかった。画面を閉じて、夫と子どもの待つ家へ帰るべきだった。しかし、文字の並びに、美結の足は抗えない引力に引かれるように、病院の裏手へと向かった。
カラン、と錆びたベルの音を鳴らして純喫茶の重い木製ドアを開ける。珈琲豆の焦げたような苦い香りと、暖房の湿った空気が美結の冷えた頬を包んだ。
臙脂色のベルベットのソファ席の奥で、瀬戸が背中を丸めて座っていた。見慣れた事務服ではなく、茶色の柔らかなニットを着ている。美結の姿を認めるなり、彼は弾かれたように背筋を伸ばし、ひどく怯えたような、すがるような瞳を向けた。
目の下に薄く隈を作り、憔悴しきったその横顔を見た瞬間、美結の奥歯に微かな痺れが走った。あんなに残酷な言葉で私を切り裂いたというのに、親とはぐれた迷子のような顔をしている。美結の心の中は甘美な気持ちでいっぱいになった。
「来てくれて、ありがとうございます」
瀬戸は掠れた声で言い、冷めきった珈琲のカップを両手で包み込んだ。
「クリスマスの夜のこと……本当に、取り返しのつかないことを言ったと、ずっと後悔していました」
美結は無言のまま、テーブルの上のシュガーポットを見つめていた。
「僕みたいな人間が、美結さんとどう接すればいいか分からなくなって。強がって、冷たい言葉で傷つけました。美結さんの人生の重さも、命の重さも、何一つわかっていなかった」
懺悔の言葉を紡ぐ瀬戸の指先が、微かに震えている。
彼が自らの劣等感を持て余し、美結を下に見ることで優位に立とうとした事実は変わらない。頭では理解しているのに、夫の冷淡さに凍えていた美結にとって、自分のためにこれほどまでに取り乱し、言葉を尽くして弁解しようとする姿は、なんともいえない気持ちになった。
「今度の休日、献血に行こうと思うんです」
唐突な提案に、美結は思わず顔を上げた。
「自分の汚い部分を少し清算したいというか……戒めのためというか。もし良かったら、一緒に行きませんか」
色気のない提案。なんて面白みのない。どういう意味なんだろう。
瀬戸の「贖罪」の方法は、ひどく的外れであった。しかし、その的外れな真面目さが、美結には彼らしい「不便さ」に思えた。
彼は彼なりに、必死にこの関係を修復しようと足掻いている。夫が決して見せることのない、泥臭くみっともない執着。
「……成分献血なら、一時間くらいかかるわね」
美結がぽつりとこぼすと、瀬戸の顔にパッと縋るような光が点った。
「はい。本でも読みながら、静かに過ごすつもりです。あの時、美結さんと一緒に読みたくて渡せなかった本を持っていきます」
「……わかったわ」
美結は小さく息を吐き、静かに頷いた。喫茶店の曇った窓ガラスの向こうで、冷たい冬の雨が音もなく降り始めていた。




