クリスマスイブのトゲ
今回はクリスマスイブを舞台に、人目を忍ぶ密室での逢瀬が描かれます。
甘く儚い美結の思いが、瀬戸の放った残酷な一言によって急速に冷え込んでいく……。
※本作には不倫関係などのテーマが含まれます。ご留意の上、お読みください。
街はクリスマスイブの華やいだ空気に包まれ、どこからか聞こえる賛美歌のメロディが夜風に乗って運ばれてくる。
一階のロビーに色鮮やかなツリーが飾られているというのに、病棟は相変わらず慌ただしく、美結は連日、看護業務と患者のケアに勤しんでいた。同僚たちの顔には疲労の影が色濃く落ち、ナースステーションの空気は常に張り詰めている。家に帰れば子どもの宿題を見たり、家事をしなくてはいけなかった。
一方、事務局にいる瀬戸は、病棟の慌ただしさから切り離されたような、穏やかな空気がただよっていた。事務局で働いている瀬戸ぐらいの年齢の女性は子どもへのクリスマスプレゼントの用意で楽しそうに話をしている。また、若い女性は、彼氏がなんか優しくないんですといって相談のような、彼氏のいない女性への自慢のような話をしていた。
今年のクリスマスイブも、美結の夫は仕事の付き合いを理由に帰りが遅く、美結は子どもの蓮と葵の三人で夕食を済ませた。19時になると毎年頼んでいるチャリティーサンタが来た。毎年、サンタクロースと家のクリスマスツリーの前で写真を撮ったが、サンタクロースを含め、4人での写真しか残らなかった。
『メリークリスマス。今日は一段と冷え込みますね。風邪などひいていませんか?』
瀬戸からのLINEは、いつも美結を気遣う優しい言葉で満たされていた。その際は、美結は「誰かの妻」や「誰かの母親」などという概念を一瞬でも捨て去ることができた。
夜の冷え込みが増し、さらには同僚や近所の目を恐れるようにもなり、二人の逢瀬は夜の公園周辺の散歩から、閉鎖的な密室へと変化していった。
『明日はホテルですか?』
『できればそうしたいと思っています。クリスマスですし、美結さんとゆっくり過ごしたいなと思います』
『あまり気が乗らないです』
美結が突き放すように送ったのは、人目を恐れての理由にとどまらなかった。
最近の瀬戸は、逢瀬を重ねるごとに、美結に対して無遠慮な要望を口にするようになっていた。身につける下着の色合いや、逢瀬の際の細かな振る舞い。彼にとって美結と肌を重ねる時間は、女性を自らの思い通りに染め上げるための、甘く歪んだ行為になっているようであった。
『もう体のダメ出しは聞きたくないんです。心が折れてしまいそう』
美結が弱音をこぼすと、瀬戸はひどく焦ったように電話をかけてきた。受話器の向こうから、甘くすがるような声で「愛している」「ごめんなさい」と何度も繰り返す。その言葉の危うさを理解しながらも、美結は結局、彼の誘いを断り切ることができなかった。結局、いつものコンビニの駐車場で落ち合い、瀬戸の車でホテルまで行くことになった。
遅くに帰宅した夫は、労いの言葉もなくすぐに書斎へ引きこもった。寝室の子ども二人がすでに眠っているのを確認し、しばらく時間が経つのを見計らってから、美結は足音を殺して家を抜け出した。コンビニの防犯カメラや、通りに停められた車のドライブレコーダーを気にしながら、暗がりを縫って歩く。イブの街を歩く。足が、思ったより速く動いていた。
コンビニの光が届かない死角に、瀬戸の乗るビートルが停まっていた。彼が以前「スコシ・フベンゆえに可愛い」と言っていた、丸みを帯びた車体である。
周囲を警戒しながら助手席のドアを開け、滑り込む。途端に、狭い車内に充満していた少し甘い芳香剤の匂いが美結を優しく包み込んだ。
「メリークリスマス。来てくれてありがとう」
暗がりの中で、瀬戸の目が熱を帯びて光っていた。ホテルまで車を走らせ、部屋へ入っていったと同時に瀬戸は美結の肩を引き寄せ、息を吐く間も与えずに唇を塞いだ。外の寒い空気とは対照的に、瀬戸の眼鏡は二人の吐息と体温ですぐに白く曇った。瀬戸の指先が、美結の服の中に滑り込んでくる。肌に触れるたび、小さな熱が生まれては消えていく。狭いホテルの廊下で身体をよじらせながら、美結は彼の背中に腕を回した。
瀬戸は美結の身体の隅々にまで触れ、自分の存在を刻み込もうとする。美結もまた、夫が与えてくれない荒々しい男の欲情に溺れることで、日常の空虚を埋めようとしていた。服が乱れ、床に肌が触れる冷たさと、息が詰まるような熱気の中で、二人はひたすらに互いの体温を求め合った。儚く、甘い時間が、室内を満たしていた。
薄暗い部屋の窓から微かに透けて見える街灯の光をぼんやりと見つめながら、美結は乱れた衣服を直していた。気怠く穏やかな沈黙の中、遠くでクリスマスの鐘の音が鳴るのが聞こえた気がした。ふと、瀬戸が口を開いた。
「もし、万が一のことがあったらさ」
瀬戸はベッドの縁に腰掛けたまま、ひどく平坦な声で言った。
「できたら、堕すしかないよね」
一瞬、彼が何を言ったのか理解できなかった。
指先から急速に体温が失われていくのを感じる。
「……え?」
「いや、だから、妊娠とかさ。美結さんには旦那さんも子供もいるし、俺も責任取れないし。もしできちゃったら、そうするしかないでしょって話」
瀬戸は、明日の天気を予想するような口調で言った。
美結の呼吸が止まった。
病院で命の始まりと終わりに立ち会っている。また二人の子どもを産んで、育てている美結にとって、その言葉は到底受け入れられるものではなかった。
「……簡単に『できたら堕すしかない』とか、言わないで」
声が、自分でも気づかないうちに震えていた。
彼は確か、愛していると言っていた。
「あ……ごめん、怒った? 現実的な話をした方がいいかなって思って」
瀬戸は美結の硬直した空気に慌てたように弁解したが、その言葉すらも、事の重大さを理解していない響きを含んでいた。
「もし妊娠したらの話はショック。でも実際にそうならないとどうなるかなんて分からないから、反論しない」
美結は冷え切った声でそう告げると、乱れた髪を束ね直し、ドアノブに手をかけた。
「美結さん……」
「もう、したくないよ」
ホテルを出て、車に乗り、その帰り道は無言だった。車から降り、冷たい夜気の中へと足を踏み出す。振り返ることはなかった。
「できたら堕すしかない」
その一言が、トゲとなって、美結の胸の奥深くに突き刺さっていた。これまで重ねてきた会話が一瞬で色褪せた。イブの夜のイルミネーションの光が美結にはひどく滑稽に映った。
自宅に戻り、洗面所で執拗に手を洗いながら、美結は鏡の中の自分を見つめた。息苦しい日常から逃れるために、瀬戸にすがろうとした。しかし、このことは美結を救うものではなかった。
夫の部屋からは、夫の規則正しい寝息が聞こえてくる。
寝室で眠る子どもの寝顔を見て、美結はそっとドアを閉めた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
クリスマスの華やかな街並みと密室、美結の抱える孤独感の対比を書いてみました。
「できたら、堕すしかないよね」と無責任な言葉。瀬戸って最低って思ってくれたらと思います。
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