スコシ・フベンな愛
今回は深夜のリビングを舞台に、一冊の小説を通じて交わされる二人のやり取りを描いています。
金銭的に不自由はないけれど息の詰まる夫との日常と、不器用で儚い瀬戸との逢瀬。
「スコシ・フベン」な関係に惹かれていく美結の、静かながらも熱を帯びた話です。
※本作には不倫などの心理描写が含まれます。あらかじめご留意の上、お読みいただければ幸いです。
夫が寝静まった深夜のリビング。美結は手元を照らすオレンジ色のささやかな灯りを頼りに、静かに文庫本のページを繰っていた。
夫の寝室を覗くと、規則正しい寝息が微かに聞こえてくる。温度を失った黒い革張りのソファに深く身を沈め、美結は表紙のざらりとした質感を指先でそっとなぞった。辻村深月の『凍りのくじら』。瀬戸に「同じ本を読んで、感想を言い合いたいですね」と柔らかく微笑まれ、帰りがけの書店で買い求めたものだ。
夫の広々とした書斎に並ぶのは、実利や効率を求める分厚いビジネス本や経済の専門書ばかりだった。物語の温度を瀬戸と分け合うようなこの時間は、肌を重ねるのとはまた違う、ひそやかで甘い匂いがした。紙の匂いを吸い込むと、ページをめくるかすかな擦過音が、静かな夜に特別な響きに感じてくる。
物語の中に、「SF」をもじった「スコシ・フベン」という言葉が出てくる。美結はふと、数日前に瀬戸が送ってきたLINEの言葉を思い出した。
『ビートルはSF。スコシ不便。ゆえに可愛いんですよね。感情移入しちゃう』
夫が所有する無音で滑らかに走る高級車では、「不便」を愛しむような余白はない。瀬戸が乗る、ブルルと低いエンジン音を響かせて走る丸みを帯びた昔のフォルクスワーゲンタイプ1、通称ビートル。時折ご機嫌斜めになるその鉄の塊を、瀬戸はまるで生き物を扱うように愛おしそうにハンドルを撫でていた。瀬戸の持つ感性に、美結は強く惹かれていた。スコシ・フベンな彼との逢瀬は、整いすぎた無機質で面白みのない日常の中に咲いた、淡い色の花のように思えた。不揃いな花びらを持つその花は、美結の渇いた心を静かに満たしていく。
いざ読み終えてスマートフォンの暗い画面に向かうと、美結の指先はふっと迷い、空中で止まった。
『感想、言えたらいいんですけど……どんな本でも、人にはなかなか言えないんです。自分の考えに自信がないし、否定されたり、左右されたりしたくなくて』
文字にしてしまうと、自分の中の空っぽな部分を見透かされそうでひどく怖かった。理路整然とした夫の前では、美結の曖昧な感情はいつも行き場を失い、無価値なものとして扱われてきた。「君の言っていることは非論理的だ」。その冷たい一言で、美結の柔らかな感情は幾度となく切り捨てられてきた。自分の内面を開き、それを受け入れてもらえないことへの臆病さが、美結の指を鉛のように重くしていた。
しかし、瀬戸からの返信は、そんな美結の戸惑いをふわりと通り越してきた。
『なんだか、自分が若尾に見えてくる……』
画面に浮かび上がった文字を見つめ、美結は小さく息をのんだ。「若尾」とは、物語に登場する、いびつなプライドと劣等感を抱え、もがき苦しむ青年のことだ。なぜ、彼は自分をそんな危うい存在に重ねるのだろう。
『私には、瀬戸さんと若尾は全くかぶりませんよ』
美結は急いで、すがるように打ち込んだ。彼が若尾のように、暗い劣等感からこの関係を求めているのなら、途方もなく寂しかった。純粋に、どうしようもなく惹かれ合っているのだと思いたかった。瀬戸の中にある暗い影を見ないふりをして、ひたすらに甘い言葉の海を泳いでいたかった。
『なんでかなぁ。最近、LINEが多いことかなぁ。でも大丈夫です。もし別れた後でも、ストーカーして美結さんの周りに迷惑をかけるような勇気はないですから。まだ僕の方が、この世の中を生きてますし(笑)』
冗談めかしたその言葉には、ただの事務職員という自らの立ち位置をわきまえているような、かすかなあきらめが混じっていた。「別れた後」という言葉が彼の口からあっさりと出たことに、胸の奥がちくりと痛む。永遠などないと、彼は知っている。
以前、彼が無自覚な言葉で美結をほんの少し傷つけてしまった時、こんな風に謝ってきたことがあった。
『ごめんなさい。美結さん以外にも失言してしまうことがあって。人を下に見ているんだろうって、言われたことがあります』
その不器用な告白が、今の美結には愛おしかった。医師や夫といった高年収、権限が多い人間に対するコンプレックスを抱えながら、懸命に美結に触れようとする瀬戸。彼が見せる意地悪な態度や強がりは、本当は自分が傷つかないための、彼なりの薄い鎧なのかもしれない。不完全で、脆くて、すぐに崩れてしまいそう。そんな彼を両手でそっと包み込んであげたかった。
『私は、瀬戸さんを上に見てると思いますよ。だから、どんな言葉でも嫌いにならないんだと思います』
それは紛れもない本心だった。夫の隣で息を潜めて人形のように座っているより、瀬戸の言葉に一喜一憂し、振り回されているほうが、ずっと生きた心地がした。
病院の廊下でふと視線が絡む瞬間の、微かな胸のざわめき。他の誰にも気づかれない、二人で交わす暗号。夜のコインパーキングの、狭い車内で触れ合う肩の熱。彼がくれる甘い時間は、いつか手のひらで溶けて消えてしまうのだろう。わかっている。いつかその時が来ることがわかっているから、美結の心を捉えて離さなかった。
『約束は何だったかも忘れるんでしょ。瀬戸さんから約束するって言ってくるのに……頑張れないよ』
ある夜、ふと不安に駆られて、そんな甘えたような弱音をこぼしてしまったこともある。瀬戸は優しいけれども、時々ふいによそよそしくなる。熱を持った言葉をくれたかと思えば、急に冷たい風を吹かせる。そのたびに美結は、彼を失うことの怖さに淡く揺れた。
子供の寝顔を見るたびに静かな罪悪感が胸を打ち、夫の規則正しい足音が聞こえるたびに肩がすくむ。それでも、瀬戸からの着信音が静かな部屋に響くたび、心は冷たい冬を越えて春を待つように温かくなった。
物語の中の『凍りのくじら』は、冷たい氷の底で、誰かの温もりを待っていた。美結も同じだ。夫が築いた氷の城の中で、瀬戸が不器用な手で扉をノックしてくれるのを、ずっと待っていたのだ。
美結は静かなダイニングで、パタンと本を閉じた。表紙を優しく撫でる。
彼が若尾のように危うい青年であっても構わない。たとえこの恋が、いつか自分を深く悲しませる運命であったとしても。冷え切ったテーブルにそっと頬を預け、ゆっくりと目を閉じる。夫との日常の裏側で、少し不便で、儚くて、甘いなにかが、美結の胸の奥で静かに脈打っていた。
後までお読みいただき、ありがとうございました。
いつか壊れて消えてしまうとわかっているからこそ、「スコシ・フベン」な関係が魅力的に思えるのかもしれません。
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