白衣の裏側
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、病院を舞台に、白衣という仮面の下で交錯する二人の視線と心理を描きました。
エリートの妻として生活を送る美結と、劣等感の塊の事務職員の瀬戸。
日常に潜む背徳感などの心理描写を感じていただければおもしろいのかなと思っています。
※本作には不倫や、人間のどす黒い感情・心理描写が含まれます。あらかじめご留意の上、お楽しみください。
病院の朝は、蛍光灯の白い光と消毒用アルコールの匂いから始まる。病院の職員用通用口から入ると鼻の奥にふわっと消毒用アルコールの匂いが漂う。
更衣室の冷たいスチールロッカーの前で、美結は白衣に袖を通した。少し歪んで立て付けの悪くなったロッカーの扉を押し込みながら、小さく息を吐く。ピンと糊の効いた布地が腕に触れる瞬間、いつもなら、息の詰まる妻という役柄から、スイッチが切り替わる感触がある。ここ数年、美結にとって白衣に着替えることは、家庭から逃避する手段の一つだった。
鏡の前に立ち、ファンデーションを薄く伸ばす。目元にパールの細かいハイライトを入れ、リップクリームは艶のある血色のものを選ぶ。ストッキングの下のペディキュアには深い紺とシルバーを重ねてある。誰かに見せるためではない、と言い聞かせたが、あの人の顔を思い浮かべてしまう。今日は病棟に来てコスト管理のためパソコン作業をする日だ。パソコンをみつめる瀬戸の横顔がまぶしかった。見ようとしても一瞬見てすぐに目をそらしてしまう。パソコンの近くの物を取るふりをして近づいて「こんにちは」とあいさつをした。ただそれだけで嬉しかった。
『今朝はもしかしたら会えるかもって思って、いつもより丁寧に準備しましたから』
ベッドの中で日中のことについてLINEを送信した。瀬戸の反応はどうなのだろう。スマートフォンの画面の向こうで彼がどんな顔をして、どんな息遣いでその文字を読んでいるのか。想像するだけで、胸が熱くなった。
午前中の病棟は、今日も慌ただしかった。医師の指示が飛び交い、ナースコールが鳴り、点滴の交換や処置、記録と投薬、入院の受け入れや退院の準備などが同時に行われる。廊下を小走りに移動しながら、美結はこの場所では自分がどういう存在かを身体で知っていた。いかに現場を熟知したベテラン看護師であろうと、ただの手足に過ぎない。指示にミスのない立ち回りが、秒単位で要求される。
午前十一時を回った頃、美結はふくらはぎの鈍い痛みを堪えながら、退院患者のカルテの束を抱えてレセプトへと持って行った。
分厚く、至る所に指紋のついたアクリル板の向こう側。そこが、瀬戸の所属する「事務職員」たちの領分だった。
血と汗と命のやり取りが行われる病棟の現場から切り離されたその場所で、瀬戸は今日も、襟元がしっかりと糊づけされたしわのない真っ白なワイシャツ姿で、パソコンのモニターを背中を丸めて睨みつけていた。医師たちのような華やかな権力もなく、看護師たちのような現場の熱気もない。彼はこの病院の中で、数字を打ち込み続けるだけの冷淡でロボットのような歯車の一つのようだった。
「瀬戸さん」
美結は、周囲の目を意識して、あえて温度のない事務的な声で呼びかけた。
「この書類、三階の病棟からです」
名前を呼ばれた瞬間、瀬戸は弾かれたように顔を上げた。
「あ、はい。……お預かりします」
椅子を軋ませて立ち上がり、分厚いカルテの束を受け取る。その時、彼の手が、ほんの数ミリ、意図的に美結の指先に触れた。
それは偶然を装った、彼なりの接触だった。周囲の職員たちは誰も気づいていない。無数の外来患者とスタッフがせわしなく往来する、この白々しい白日の下で、美結と瀬戸の間にだけの秘密が火花を散らした。
書類を受け取る一瞬。瀬戸の奥まった暗い瞳が、下からねっとりと這い上がるようにして、美結の全身を舐め回したのを、美結は絶対に見逃さなかった。
『なんだか制服だと雰囲気が違うので、いつも連絡を取ってる美結さんとは別人のように感じますねー。高嶺の花って感じ』
いつかの夜、暗い車内で別れた後に瀬戸が送ってきたメッセージが、鮮明に脳裏に蘇る。
「高嶺の花」。
その甘美な響きに、美結は当初、純粋な優越感を抱いていた。自分は彼にとって手の届かない憧れの存在であり、だからこそ彼は自分を想い、狂ったように求めているのだと信じたかった。
しかし、関係が泥沼のように深まるにつれ、美結はその言葉の裏に隠された、瀬戸のどす黒い情念に気づき始めていた。
瀬戸は決して、美結を手の届かない安全な場所に置いたまま、ひざまずいて手の甲にキスをしたいわけではない。高年収の夫の妻で、医療の最前線で働く美しい女。自分より経済的に上にいるその女の足首を掴み、自分の手で強引に泥沼へと引き摺り下ろすこと。経済的に余裕のある人生を送る女を犯し、泣きすがらせ、自分なしではいられない身体に作り変えてしまうこと。事務職員として、鬱屈した日々を送る彼にとっての、この世界に対する唯一の痛快な復讐なのかもしれないと思っていた。
彼は美結を「高嶺の花」と呼ぶことで、それを無惨に摘み取って泥を塗った自分自身の「男としての価値」を、ひそかに、しかし強烈に確信し、悦に入っている。美結は、彼の屈折した自己顕示欲を満たすための、極上の生贄に過ぎない。
「お疲れ様です」
瀬戸が、他の誰の耳にも届かないほどの、低く掠れた声で呟いた。その声の響きには、昨夜の薄暗い密室で、美結の身体に貪りついてきた時の野生的な熱が、明確に混じっていた。
「……お疲れ様です」
美結は呼吸を浅くし、顔の筋肉が崩れないように必死に耐えながら、踵を返して足早にその場を離れた。背中に突き刺さる瀬戸の視線が、糊の効いた白衣を容易く透かし、下着の下の素肌を直接焼き焦がすように熱かった。
逃げるように病棟に戻り、ナースステーションの裏で大きく息をついていると、同僚の吉田がひょっこりと顔を出した。
「美結さん、事務に行ってた?」
「ええ、退院のカルテの件で少し」
声が上ずらないように平静を装う美結に対し、吉田はニヤリと、何かを見透かしたような意地悪い笑みを浮かべた。
「さっきさ、事務の瀬戸くんがこっちに用事で来た時ね、『美結さん、今日も綺麗ですね』なんて私に言ってきたのよ。あの子、絶対美結さんのこと好きだと思うなぁ。わかりやすいよねえ」
ドクン、と心臓が冷たい手で鷲掴みにされたように激しく脈打ち、胃が縮み上がった。
「……まさか。からかってるだけよ。あの人、誰にでも調子のいいこと言うじゃない」
美結は手元のボールペンを無意味にカチカチと鳴らしながら、必死に動揺を隠した。
吉田は悪びれる様子もなく、無邪気な残酷さで言葉を続ける。
「でもさ、美結さんって隙がないじゃない? 旦那さんは超エリートで、子どももいて、生活に余裕があってさ。瀬戸くんみたいな、パッとしない事務員じゃ、どう背伸びしたって手も足も出ないわよね。なんだか、身の程知らずっていうかさ」
身の程知らず。
吉田の言葉は、美結自身が犯している罪の深さと、どうしようもない滑稽さを浮き彫りにした。
私は、その「身の程知らず」でパッとしない男に、誰よりも狂わされている。彼から送られてくる安っぽいLINEの通知音に一喜一憂し、少しでも彼の好みの女に近づきたくて、夜中に隠れて筋トレまで始めている。エリートと言われる夫と一緒に住んでいる家で、息を殺しながら、夜な夜な彼からの着信を待ち焦がれて下半身を熱くしている。
『僕をかっこいいって思ってくれるなんてホントに変わってる。でも、嬉しいです』
彼の言葉の端々に滲む劣等感と、それを裏返すような肥大した自己顕示欲。そのどうしようもない毒のような何かが、美結の人生のド真ん中に穴を開けて、暗くて深くて熱い汁をダクダクと注いでいた。
昼休憩、人のいないスタッフ用の洗面所で、美結は大きな鏡に映る自分を見つめた。
冷たい水で手を洗う。指先が震えていた。
夫の前で長年被り続けてきた「良妻賢母」という美しい仮面は、もはや無惨にひび割れ、その亀裂の奥から、瀬戸を渇望して喘ぐ、浅ましい「女」の顔が覗いている。
彼の人格を深く愛しているわけではないのかもしれない。彼という存在がもたらす、破滅への引力に抗えないのだ。今の生活、家族、社会的な地位。そのすべてを失うかもしれない。凍りつくような恐怖と、乱暴に求められる泥臭い快楽。それは、夫に連れて行かれるどんな三ツ星レストランでの食事よりも、美結の空虚な心を暴力的に満たしてくれる。
美結は濡れた手で自分の頬に触れ、自分がもう、絶対に後戻りできない場所まで来てしまったことを静かに悟っていた。
彼の「高嶺の花」でいられるのなら。彼が私を引き摺り下ろすことに喜びを感じるのなら。私は喜んで白衣を脱ぎ捨てて、彼のために、喜んで一番底の泥にまみれてもいい。
鏡の中の美結は、ひどく美しく、そして絶望的に醜く微笑んでいた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
どんなだったでしょうか。
同僚の何気ない「身の程知らず」という言葉が、美結を留まらせるどころか、逆に後戻りできない方向へ動かしていく。そんな理屈では説明できない人間の業や、破滅に向かう心理の揺れ動きを書いてみました。
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引き続き、二人の行く末を見守っていただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。




