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月と火星の距離

ご覧いただきありがとうございます。


夫を持ちながらも、どこか息苦しさを感じている。

深夜のスマートフォン越しに繋がる男。

冬の夜空の下での甘く、そして残酷な恋の駆け引きをするお話です。


※本作には不倫・背徳的な関係を思わせる描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。

 深夜0時を過ぎた寝室は、エアコンの吐き出す微弱な風音だけが満ちていた。

 高級な疲労回復パジャマを着た夫は隣の部屋で眠っている。彼にとって睡眠は、明日も仕事を滞りなくこなすための作業だ。暗闇の中で開いた瞳など、入り込む余地はない。


 シーツの下で、美結は美結はスマートフォンを握りしめたまま固く目を閉じていた。

 不意に、掌の中で短い振動が走る。

 胸が鳴った。画面に指を添え、光が漏れないようにして覗き込む。

『こんばんは。今日はふたご座流星群がピークらしいですね』

 瀬戸からだった。

 美結は音を立てないようにベッドを抜け出すと、裸足のまま薄暗い廊下を抜けてベランダへと向かった。サッシを静かに引くと、冬の夜気の中に身を滑り込ませる。

 見上げれば、街の光が少し落ち着き、星がちらほら広がっていた。

『こんばんは。いい情報ありがとうございます。今から見ます』

 震える指でそう打ち込むと、すぐに

『真上方向です。深夜の方がよく見えるみたいです』

と返信があった。

 美結は真上の空を仰いだ。

 瀬戸も今、同じ空を見上げている。部屋の窓からか、それとも深夜のコンビニの駐車場からか。場所はどこであれ、夜空で繋がり合っているような、甘い錯覚が胸を満たした。

 看護師と事務職員。医師の指示のもと患者の命と向き合う側と、窓口でレセプトと睨み合う側。廊下ですれ違うだけで、互いの世界はほとんど交わらない。

 彼は時折、美結のことを「高嶺の花」と呼んだ。裕福な夫を持ち、看護師の資格を持った専門職の女。瀬戸にとって美結は、自分が決して手の届かない女で、だからこそ、何としてでも引っぱり出そうとしているような眼をしているような気がした。

 美結自身も、無意識のうちにそれを望んでいた。夫の世界で息を詰まらせていた。美結は瀬戸の劣等感や、美結を得ようとする野心的な視線に、強烈な生を感じた。

 数分後、薄雲の切れ目を、一筋の光が音もなく滑り落ちた。

「あ……」

 思わず声が漏れた。

『外に出たら1個見れました』

 弾むような指使いで送信する。既読はすぐについた。

『いいですね。もう寝ます。おやすみなさい』

 あっさりとした短い返信。既読がついた瞬間に返信が来て、美結はしばらく画面を見つめた。美結の胸の奥に小さな不安がスッと入ってくる。さっきまで流星群のことを教えてくれた人間が、こんなにも簡単に消える。連絡を待ち焦がれているのは私の方なのではないかと不意に頭によぎってくる。冬の夜気が、冷たく足首に触れた。


 それから数日後の深夜。

 夫が眠ったのを確かめてから、美結はベッドの中でスマートフォンを開いた。

『今、月と火星がめちゃ綺麗です』

『東の夜空』

  ベランダに出ると、満月からわずかに欠けた丸い月と、その傍で赤く瞬く火星が、痛いほど鮮明に見えた。

『あの格好が好き!大好き!あー、幸せ』

 無邪気な返信だった。

『月と火星の位置ってことです。いくら見ても飽きない。しかも、美結さんと共有できたからひとしおの喜び!』

 続いて、動画サイトのURLが送られてくる。キース・ジャレット の『The Melody At Night, With You』というアルバムの静かなジャズのピアノ曲だった。

『これを聞きながら眺めてます』

 美結はイヤホンを耳に押し込み、その曲を再生した。物憂げなピアノの旋律が、火照った頭の奥に流れ込んでくる。瀬戸と同じ音楽を聴き、月と火星の距離を測る。

『お洒落な時間の使い方ですね』

『なんか押しつけがましくてごめんなさい』

『そんな事ないですよ。瀬戸さんと共有できて嬉しいです。こんな時間にLINEしてると周りはシーンとしてるし、起きてるのは2人だけって感じがして良いですね』

 美結がそう送ると、

『ホントですね。こんな時間に相手してくれてありがとうございます』

と返ってきた。

 世界から切り離され、この夜空の中で、私たちだけが浮かんでいるような気がした。

 美結は夜空と、音楽と、瀬戸の甘い言葉で酔っていた。

『瀬戸さんが隣りにいたら何倍もキレイに見えそうです』

 美結はためらいなく、自らの情動を文字に乗せた。夫を裏切っているという罪悪感すら、良いスパイスになっていた。返信に少し間があった。

『でも、横にいると美結さんばかり見てしまいそう』

 美結は画面を指でそっと撫でた。返信を打ちかけた、その時だった。

『明日は公園のライトアップに美容師の友だちと行くんです。その後でタイミングが合えば会いたいな』

 唐突に返された内容に、美結の思考は止まってしまった。

 冬の夜に開催される「ライトアップ」。芝生や木々がライトアップされ芝生が白く染まり、木々の輪郭が浮かぶ。若い男女が肩を寄せ合って歩く、あのロマンチックな空間。

 そこに、瀬戸は美容師の友だちと行く。

 ジャズのピアノがまだ鳴っていた。ジャズの旋律が、今の美結にはひりつくほどの孤独と、どうしようもなく寂しい音色となって耳に響いていた。

 瀬戸は、計算しているのか。自分の魅力を美結に見せつけ、甘い言葉で完全に依存させた直後に、ふと別の女の影をちらつかせる。美容師というだけで女性かどうかわからないけど、それは関係ない。だれかとそんな雰囲気の中で歩くことを想像するだけで美結は孤独感を感じた。美結を引きずり出し、嫉妬で狂わせ、自分を渇望させるための稚拙で、しかし絶大な効果を持つ残酷な遊戯。

 瀬戸は劣等感を、こうして「上のクラスの女」の心を弄ぶことで埋め合わせているのではないか。美結が夫や子どもに縛られ、自由に夜出歩くことができないことを承知で、わざとライトアップに美容師の友だちと遊びに行くと見せつけている。

 美結はスマートフォンを握りしめた。爪が白くなるほどに。

 今すぐ「その人は誰なの」「行かないで」と叫びたかった。しかし、そんな権利は自分にはない。自分は人妻であり、彼との関係は日陰に過ぎない。嫉妬を露わにすれば、瀬戸の計算通りであり、自分の価値を貶めることになる。プライドと情欲が、美結の中で激しくせめぎ合った。

『何時まで公園にいるつもりですか』

 自分でも驚くほど落ち着いた文字を打った。

『どうかなぁ。公園閉まるの21時で、家に帰るのはなんだかんだで23時くらいかな』

 瀬戸からの返信が来る。他の女と過ごす時間を、わざわざ私に告げている。

 美結は深呼吸をして、余裕のある大人の女を演じてみせた。

『はーい。多分行けれませんね』

『そうですか。また、ですかね』

 残念そうなスタンプが届いた。

『そろそろ、寝ようかな。付き合ってくれてありがとう。とても楽しかったです』

『ゆっくり寝て下さい。おやすみなさい』

 画面が暗くなった。ジャズの音楽はいつの間にか止まっていた。

 美結は再び夜空を見上げた。月と火星は、先ほどと変わらぬ距離で光っている。あんなに近くに見えるのに、実際には途方もない距離で想像ができない。何億キロという数字は、数字でしかなく、体感では掴めない。

 私たちと同じだ、と美結は自嘲した。

 言葉でどれほど「愛している」と言ったとしても、彼には彼の世界があって、美結にはこの息の詰まる家庭がある。彼の見上げている空と、美結が見上げている空は、決して交わることはない。

 それでも。

 美容師とライトアップした公園を歩く瀬戸の姿を想像するだけで、内臓を素手で握り潰されるような嫉妬と焦燥が全身を駆け巡った。彼が別の誰かに微笑みかけるくらいなら、いっそこの関係ごとすべてを破滅させてしまいたい。

 美結は冷え切った体を抱くようにして、夜空を睨みつけた。東の空を見ると、さっきまで瞬いていた星が、どこにも見えなかった。街の明かりの底に沈んでいた。沈んだのか、最初からそこにいなかったのか、もうわからなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


何億キロも離れた月と火星の距離感に、重なることのない二人の関係を重ね合わせてかいてみました。美結の葛藤が、少しでも皆様の心に残れば嬉しいです。


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