微熱の終わり
本作には不倫に関する描写や、一部生々しい感情の吐露が含まれます。苦手な方はご注意ください。
年が明け、朝の街を冷たい空気が覆っている。歩く人たちはコートやブルゾンのポケットにかじかんだ手をねじ込んで暖を取っている。
駅前の複合ビルの一角にある献血ルームは、病院の待合室とは異なり、暖かな装飾と壁紙はピンクやオレンジ色を基調とした明るくも優しい色調で統一されている。BGMはピアノ曲が流れているのかと思ったが、意外にもテレビのワイドショーが流れている。小さな音にはなっていたが、少し滑稽に思えた。
成分献血の予約を取っていた美結は献血ルームに着くとすぐに説明を受けるよう促された。献血前の検査で、両腕を挙げて指を肩につけるポーズをとるシーフテストをしながら説明を受けた。なんだか恥ずかしいポーズだ。瀬戸はもうすでに献血ルームに到着しており、説明を受けて医師の問診待ちのようであった。このポーズを瀬戸に見られていると思うとなおさら恥ずかしくなった。
顔が赤くなったことに気が付いたのか受付の人が体調は大丈夫ですかと聞きに来る。ますます恥ずかしくなり、「大丈夫です」と機嫌が悪そうに応えてしまった。そんなつもりではないのだけれど。ごめんなさいと心の中で相手に謝る。医師の問診を受け、血液検査を受けた。瀬戸は慣れているのか、献血の前に温かい飲み物を一杯飲み終えていた。血液検査をされる際に看護師に温かいものを飲んでお待ちくださいと言われたので、自動販売機(お金は入れなくてもボタンを押せば出てくる)でカフェオレのボタンを押し、紙コップに熱いカフェオレを取り出す。本当に熱い。よく見ると自動販売機に「ぬるめ」というボタンがある。しまったと思った。瀬戸に話しかけておけばよかった。しかし、献血ルームは静かで、誰かに話しかけるととても目立ってしまう。こんなところに瀬戸と来るのは間違いだったと思った。
飲み物を懸命に飲んでいると、献血をするリクライニングチェアに案内された。腰を下ろすと、一人につき一台テレビがついている。枕元にスピーカーが付いていて、看護師の指示が聞き取りにくい。思わずテレビの電源を消した。左腕に入念に消毒をされ、太い針を腕に刺す。刺さった太い針から透明なチューブを伝い、赤黒い血液が規則正しく吸い出されていく。この血は本当に人間の血なのだろうか。今、美結がしている不貞行為は倫理感を持ち合わせた一般的な人間がすることではない。
数メートル離れた斜め向かいの席に、瀬戸が座っている。
今日は休日のため、彼はいつもの事務服ではなく、柔らかな茶色のニットを着ていた。美結は今日、逢瀬の約束もないのに、無意識のうちに彼が以前褒めてくれた紺色のワンピースを選んでしまっていた。
二人は他人のふりをし、言葉を交わすことも、視線を合わせることもなく、腕から血を抜かれながら、同じ空間に座っていた。その距離感には、以前なら胸を甘く締め付けるような共犯者の匂いがあった。
美結の膝の上には、受付ですれ違いざまに瀬戸から「時間つぶしに読んでみて」とこっそり手渡された一冊の漫画本が置かれている。
沖田×華の『透明なゆりかご』。産婦人科医院を舞台にした、命の始まりと終わり、そして中絶の過酷な現実を描いた作品だ。
「自分への戒めのように、献血の時にはこれを読むようにしているんです」
渡される際、彼はひどく真剣な、悲劇の主人公のような伏し目がちな瞳でそう囁いた。
左手でゆっくりとページをめくる。そこには、不倫の末の妊娠、都合よく逃げていく男、望まれない命の処置、そして冷たい医療器具によって取り出され、透明なケースに入れられていく小さな命が描かれていた。ページを進めるごとに、美結の視界が微かに揺れ始めた。胸の奥から何かがせり上がってくる。吐き気がしてくる。チューブを流れる自分の血が、急速に温度を失っていくような錯覚に陥る。
『もしできちゃったら、堕すしかないでしょって話』
クリスマスイブの夜、瀬戸が言い放った平坦な声が、脳内で冷たくこだました。あの時、彼は明日の天気を語るような軽さで「堕すしかない」と言った。瀬戸にとって、美結との関係は「許されないことだとわかっている」ただの火遊びにすぎないのだろうか。美結の夫から、美結を秘密の泥濘へと引き摺り下ろす。そして、彼の抱える劣等感を慰める。同時に「いけないことをしている罪深い自分」という感傷的なドラマの主人公になりきっている。気持ち悪い。『透明なゆりかご』を読んで「戒め」を感じるという振る舞いが、その証拠だ。
彼は本の中の悲劇に涙し、今はまだ安全であろう場所から「自分は罪深い」と嘆いてみせることで、良心を満たしている。しかし、実際に妊娠の恐怖に晒され、現在の居場所をすべて失うリスクを背負っているのは、女である美結の側なのだ。自分の体を傷つけることなく、これまでの生活を壊される覚悟すら持っているかどうかあやしい男だ。どの口で「戒め」などという言葉が出てくるのか。自らの身勝手さを棚に上げ、よくもこんな本を、不倫相手に平然と渡すことができるのだろう。
美結は、瀬戸の抱える心の形を、はっきりと透き通った視界の中で理解した。彼は、大人になりきれない子どもなのだと。自らのちっぽけな劣等感を慰めるため、他人の痛みに無自覚なまま、同情するような素振りで言葉を言い放っている。夫の窮屈な生活から逃れるため、美結は瀬戸のまとう「不便さ」や危うさに惹かれた。彼が与えてくれる熱を浴びれば、干からびた日常から救われると信じたかった。
瀬戸の不器用な愛し方も、暗い瞳も、重ねた肌の熱も、確かに美結の心を満たしてくれた。二人の間にあった時間を、嘘偽りなく、甘く、切なく、そしてひどく美しいと思った。しかし、そのことは、美結の尊厳を内側から溶かしていくようなジリジリとした痛みを伴った。血の気が引き、ページを押さえる指先が震え始めた。これ以上、この空間に彼と共に座っていることは耐えられない。
「すみません、少し気分が悪くなってしまって……」
美結は近くの看護師に細い声で呼びかけ、献血の途中で針を抜いてもらった。
驚いてこちらを見つめる瀬戸の視線を正面から受け止め、美結は小さく、しかし明確に首を横に振った。少し横になるようにと看護師に言われたため観察室のような別の部屋で20分ほど横になった。そして、よろめく足取りで献血ルームを後にした。
外に出ると、身を切るような冷たい風が吹いていた。一息吸い込んだ時、美結の頬を温かいものがひとすじ伝い落ちた。あまりにも儚い幻想に踊らされ、馬鹿な夢を見ていた自分自身との別れの涙だった。
その夜、美結はベッドの上で、窓の外の暗い空を穏やかな目で見つめていた。二階の奥にある書斎からは、相変わらず流暢な外国語で海外の相手とオンライン会議をしている夫の低い声が、床板を伝って微かに響いてくる。立派な家具、整えられた庭、生活の細部まで満たされた、何一つ不自由のない日常がそこにある。
手元のスマートフォンが短く震えた。瀬戸からのLINEだった。
『献血お疲れ様です。もう少し話したかったですね。なんだか、話ができる雰囲気ではなくて残念でした』
『透明なゆりかごを読んで、改めて動揺しました。でも、美結さんのことが好きで、触れたくて、欲望に駆られて今に至ります。悪いことだとわかっています。自分への戒めのように読んでいます』
『今日、献血ルームで言えなかったんですけど。美結さんのワンピース、可愛かったです』
画面に並ぶ文字の羅列を見て、美結は静かに微笑んだ。
どこまでも自分の感情を中心に世界を回している、不器用で、愛おしくて、残酷な人。彼からのメッセージは、もう美結の心を乱すことはなかった。
美結は深く息を吸い込み、かつて彼に向けた情熱を夜風に溶かすように、静かに文字を打ち込み始めた。
『今日はお疲れ様でした。さっきはサッサと帰ってしまってごめんなさい。気分が悪くなって耐えられなくなったからです』
送信ボタンを押す指に、もはや迷いは微塵もない。
『透明なゆりかご読んで、頭がクラクラしました。不倫相手の子を妊娠したり、望まない妊娠をしたりとか。自分の事を棚に上げては読めないです。責任ある行動を、ですね』
画面の向こうで、瀬戸がどんな顔をしているか。それを想像する胸の痛みすら、今の美結には愛おしく感じられた。
『簡単に「できたら堕すしかない」とか言わないで下さい。前の、もし妊娠したらの話の時、本当にショックでしたよ。でも実際にそうならないとどうなるかなんて分からないから、反論しませんでしたが。もう、会いたくないよ』
一気に打ち込み、送信する。そして、最後の一文を綴る。
『私に堕すしかないと言った瀬戸さんが、どんなつもりで本を渡してきたのかと思って再度読んでみましたが、理解できず気分が悪くなりました。』
既読はすぐについた。しかし、瀬戸からの返信は来ない。
何も言い返せないのだろう。自らの底の浅さを突きつけられ、行き場のない沈黙しかないはずだ。
美結はスマートフォンの電源を切り、ナイトテーブルの上にそっと置いた。
熱病のような日々が終わった。
瀬戸という青年は、満たされすぎた息の詰まる生活から逃れるための、逃避行の相手だった。彼との関係を通して、美結は自分自身の心の底にある空虚さと向き合うことから目を背けていた。
明日になれば、また白い制服を着て、病院へと向かう。この一軒家に帰れば、美しい生活の装飾品として美結を扱う夫と、愛すべき幼い子どもがいる。
世界は何も変わらない。息苦しく、整いすぎた残酷な日常が続いている。しかし、美結の胸の中には、不思議なほど静かで透明な風が吹き抜けていた。もう、暗い夜空を見上げて誰かの甘い言葉を乞う必要はない。与えられた居場所の中で、自分自身の生活を淡々とこなして生きていくのだ。
夫の話し声が途絶え、広い邸内が深い静寂に包まれる。暗い寝室で、美結はゆっくりと目を閉じた。かつて二人で見上げた不気味な火星の赤と月の光は、夜の闇にすっかり溶け込み、そこにはどこまでも澄み切った、透明な静けさが広がっていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
悲劇の主人公を気取る瀬戸の無自覚な残酷さと、それに気づいてしまった瞬間の急速な温度低下。美結の最後の選択肢が、読者の皆様の心に少しでも残るものになっていれば嬉しいです。
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