閑話 池田家の護衛達
「不埒な輩達に、指一本お嬢様を触れさせるな」
「「「御意に!」」」
腰元3人と隠密であるれんげの後ろには、20人の護衛が付いている。厳密に言えば池田家、雨咲の家からである。彼らの気持ちは統一されていた。
戦国時代の公家は自前の領地を持っており、現地の代官を務めたり、時には自ら武力で領地を守ったりする必要があった。そのため、家臣には軍事や武力防衛に関わる職務(武士や警備など)が多くあった。しかし、江戸幕府によって公家の領地が再編・制限され、日本が平和な時代になると、こうした軍事・警備・実務的な役職は、武士の管理に移り不要になり消滅した。
正確には、応仁の乱以降に多くの公家領が武士たちに奪われ消滅寸前だったが、織田信長と豊臣秀吉が経済的に保護し、知行(領地)を宛てがって保護したのが江戸時代の公家領の原形となる。その後、家康がこれを引き継ぎ、宮家・公家を合わせ(一部例外あり)、1万~3万石の領地を正式に与えることになる。
ただ公家の管理地はそれだけに収まらず、
公家出身者が門主(住職)を務める門跡寺院などの独自所領や公家個人の所領、先祖代々相伝している所領は、細々と維持することを許されていた。
公家の多くは年貢の徴収と土地の防衛の管理を外さたことになり、多くの利権を失うことになった(収入、武力、家臣など)。
独自の領地(公家領)から得る収入を基本としつつも、生活の多くを幕府からの経済的支援や大名からの献金に依存。公家社会は家格によって厳格に分かれており、特に少数の特権階級(※五摂家など)を除いて朝廷からの支給(公家領など)が乏しく、「貧乏公家」として副業や内職(和歌や書道の指南、お香作りなど)で生計を立てる家が少なくなかった。
※五摂家とは、鎌倉時代中期に成立した藤原氏の嫡流である5つの名家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)の総称。代々、天皇を補佐する最高職である「摂政・関白」を独占できる、公家の中で最も格式の高い家柄。
池田家は中堅公家であった。彼らは多くの失業した家の者を邸や関連先で雇い入れ、掬い上げた過去がある。とは言え、多くの土地を奪われた家でもあり、秘された遺産の多くを放出した事実もある。
いわゆる身銭を切って、優秀な人材を守ったのだ。
その恩を受けた家は、今でも池田家に忠誠を誓っている。
没落した家の末路は一家離散に始まり、身売り、盗賊、餓死、自害等どこまでも悲惨であった。それは没落した武士も同じではあるが、池田家はそれを見逃せない家だったのだ。
たとえ生活レベルは落ちても、庇護された家々は踏ん張って池田家の為に尽くした。搾取される世を恨むだけではなく、世に順応し、武士の世に溶け込む努力をして生きていった。
時は流れ、身分が落ちて仕事の質が下がったこと(馬番や従者になった者)を蔑む者もいる中で、池田家、柳生家(青葉の家)、上杉家(葛樹の家)、三枝家(神楽の家)は、一切そんな素振りを見せなかった。神楽の母が教育してことも、関係したのかもしれないが。
特に雨咲は「いつもお家の為にありがとう」と、幼き時から隠密達に感謝する娘だった。公家の全盛期ならば、下の者に声をかけることは出来なかっただろう。けれど今は少しずつ風潮も変わっており、池田家は民と近い位置に落ち着いていた。
吟剣詩舞、歌舞伎、日本舞踊と、民衆が好む芸能に通じていたことも関係していた。
それは雨咲だけではなく、武家である青葉の家も分家は町で道場を開いていたし、葛樹の家は元より商売でいろんな身分の者と関わっている。神楽の母も身分を問わず、多くの者に学びを与えていた。時には近所の平民の子達に、簡単な文字を無料で教えることもあった。
皮肉にも武士の力が強くなったことで、雨咲の家は以前よりも民衆との距離が近付いていった。そしてそれ程地位の高くない、武士の家とも。
世が世なら、雨咲と神楽達の人生は掠りもしなかっただろう。
池田家の隠密達は、どこまでも池田家に尽くす。それは命令ではなく、池田家の人が好きだから。誰とでも優しく話す、雨咲が好きだからである。
雨咲の父も表立って命令はしないが、愛娘を守ることを望んでいた。
「そうか、行ってくれるか。ありがとうな、感謝するよ」
護衛を望む隠密の代表に、頭を下げる雨咲の父は深く頭を下げた。
「殿様、どうか顔を上げて下さい。お嬢様を守ることは、私共の望みなのですから。命に代えてもお守りします」
「ああ。信じているよ」
優しい微笑みを向け、もう一度娘のことを託す雨咲の父は慈愛に満ちていた。彼は前当主の前に、娘を愛する父親だった。
護衛と共に吟剣詩舞や剣術を習い、時には共に庭の花を植え、共に詩を披露しあった大事な雨咲を、たくさんの者が守りたいと思っていた。
それこそ、お菊のことよりも。




