第七章 魔王
ノアには、驚くほど生活能力がなかった。
料理を任せれば鍋の底を焦がし、テントを張らせれば支柱が一本だけ妙な方向を向き、薪を拾いに行けば帰り道を見失った。
ただし、覚えることを嫌がらなかった。
同じ失敗を二度、三度と繰り返しながら、それでも毎日続けた。
一か月後。
ノアが作ったスープを口にしたレオンは、しばらく味を確かめた。
「普通」
ノアの表情が明るくなった。
「普通ですか」
「普通」
「よかった」
「そこまで喜ぶことか」
ノアは小さく笑った。
短剣も教えた。
こちらは料理以上に覚えが悪かった。
それでも、彼女は何度も構え直した。
ある夜。
二人で火を囲んでいた時、ノアが唐突に尋ねた。
「レオンさん」
「何」
「私が、ずっと役に立たなかったら」
言葉が途中で止まる。
レオンは急かさない。
「捨てますか」
焚き火の中で薪が崩れた。
「前の主人は、役に立たない奴隷はいらないと言いました」
レオンは火を見たまま答えた。
「俺も昔は役立たずだった」
「勇者なのに?」
「勇者になる前」
ノアは黙る。
「できないことは覚えればいい」
「覚えられなかったら」
「俺がやる」
「レオンさんにもできなかったら」
レオンは少し考えた。
「その時は一緒に困ればいい」
ノアはしばらく何も言わなかった。
それから小さく笑った。
その頃から。
旅の中で奇妙なことが起こり始めた。
魔物がノアを襲わない。
オーガと遭遇した時など、レオンが剣へ手を掛ける前に、相手がノアを見て後退し、そのまま森へ消えていった。
下級魔族は、彼女を見た瞬間に膝をついた。
「へ、陛――」
そこまで口にしたところで、何かに怯えたように立ち上がり、逃げていった。
「今、陛下って言わなかったか」
「聞き間違いです」
「俺にもそう思いたい」
街で魔力を測った時には、水晶が砕けた。
弁償金額を聞いたレオンは、しばらく無言で財布を見つめた。
決定的だったのは、古代魔族の遺跡だった。
誰にも読めないという壁面の文字を、ノアは当然のように読んだ。
「『我らは王の帰還を待つ』」
レオンは隣を見る。
「読めるのか」
「はい」
「どうして」
ノアも困ったように首を横に振った。
最深部には、古い職業鑑定石が残されていた。
レオンが触れる。
【勇者】
文字は正常に浮かんだ。
「私も触っていいですか」
「壊すなよ」
ノアが少しだけ頬を膨らませてから手を置く。
その瞬間。
水晶が黒く染まった。
遺跡の壁に埋め込まれた魔力灯が一斉に点き、床に古い紋様が浮かんだ。
そして。
【職業未完全覚醒】
その下に。
【魔王】
ノアは長い間、文字を見ていた。
「レオンさん」
声が、いつもよりわずかに低かった。
「魔王って」
少し間が空く。
「悪い人ですよね」
その夜。
ノアはほとんど食事を取らなかった。
焚き火を挟んで座り、膝を抱えている。
「レオンさん」
「うん」
「私を殺しますか」
レオンは答える前に、彼女の顔を見た。
「どうして」
「勇者は魔王を倒すものだと、聞きました」
「俺も聞いた」
「レオンさんは勇者です」
「ああ」
「私は魔王です」
「そうらしい」
ノアは自分の膝へ目を落とした。
「だったら」
「お前、人を殺したか」
ノアが顔を上げる。
「いいえ」
「村を焼いた?」
首を横に振る。
「世界を滅ぼした?」
もう一度。
「だったら、今殺す理由はない」
「でも、いつか」
「滅ぼしたいのか」
「嫌です」
「じゃあ今はそれでいい」
ノアは何かを言おうとして、やめた。
レオンは火へ視線を戻した。
「俺はさ」
「はい」
「人のためだって言いながら、その人に選ばせない奴が嫌いなんだ」
ノアは何も言わない。
「職業不明だから危険なことはするな。勇者だから戦え。魔王だから殺されろ」
薪の端が赤く崩れている。
「全部、似たようなものに見える」
「……」
「俺が知ってるお前は、魔王じゃない」
ノアがこちらを見る。
「料理が最近やっと普通になった」
「普通より上手です」
「剣はまだ下手」
「練習中です」
「たまに迷う」
「最近は迷いません」
「そういうノアだ」
少し間を置く。
「魔王だって知ったのは今日だ」
ノアの目に涙が溜まった。
「だから、そっちは後回しでいい」
やがてノアは袖で目元を拭った。
その夜。
彼女はいつもよりレオンに近い場所で眠った。
しかし。
古代の鑑定石がノアを魔王だと示した時。
遠く離れた大神殿にも、同じ事実が伝わっていた。
そして。
レオンが最も会いたくなかった三人が、
再び彼のために動き始めていた。




