第四章 選択
最初の魔物が森から姿を見せた時には、村の北側に簡単な防御線が作られていた。
レオンは街道に油を撒き、使わなくなった柵を横倒しにし、狩人たちには矢を節約するよう伝えた。
勝つための準備ではなかった。
必要なのは、村人が逃げるための時間だった。
火矢が油に落ちる。
炎が街道を横切り、先頭にいたゴブリンの群れが足を止めた。
「弓は後ろの奴を狙ってください。前を倒しても次が来るだけです」
村の狩人たちは無言で頷いた。
矢が放たれ、混乱した魔物の列がさらに乱れる。
その間に、最初の馬車が南門を出た。
レオンは道を抜けた数匹のゴブリンへ走り、剣を振るった。
一匹。
二匹。
足を止めない。
以前ならエリシアが先に斬っていた敵。
今は、自分で斬るしかない。
時間が過ぎるにつれ、魔物の数は増えていった。
オークが炎を踏み越え、狼魔が柵の隙間を抜けてくる。
レオンは村の道幅を利用し、同時に相手をする数を減らした。
戦いながらも、南門を何度も振り返った。
人が減っていく。
けれど、まだ多い。
「あと何人です」
「六十ほど!」
村長の声。
レオンは息を整え、剣を握り直した。
一時間が過ぎた。
さらに一時間。
腕が重くなった。
頬に血が流れ、右腿には浅くない傷があった。
それでも、まだ立てた。
やがて森の奥で、大きな木が一本倒れた。
続いて二本。
三本。
何かが、木を避けることなく進んでいる。
姿を現した巨体を見て、レオンは剣をわずかに下げた。
黒い体毛。
牛を思わせる二本の角。
額には縦に並んだ三つの目。
ベヒモス。
Aランクの中でも上位に分類される魔物だった。
その巨体が一歩進むたび、地面がわずかに沈む。
「……これは」
勝てない。
考えるまでもなかった。
白銀の翼ならば倒せるだろう。
今の自分一人では、どう組み立てても勝ち筋が見えない。
ベヒモスが頭を下げた。
次の瞬間には、村の北側にあった家が一軒、壁ごと崩れていた。
レオンは瓦礫の間から聞こえた声へ走った。
倒れた柱の下に、小さな男の子がいた。
身体を滑り込ませ、柱を持ち上げる。
肩の傷が開いた。
それでも、子供を外へ押し出した。
「南へ行け」
「レオン兄ちゃんは」
「後から行く」
子供は何度か振り返りながら走っていった。
レオンは立ち上がり、ベヒモスを見た。
逃げることはできる。
森へ入り、単独で南へ向かえば、少なくとも村人よりは速く動ける。
エリシアの言葉に従えばいい。
自分は生き残れる。
「レオン!」
村長が叫んでいる。
「もういい。お前も逃げろ!」
その言葉を聞いて、レオンはしばらく動かなかった。
白銀の翼から追放された夜のことを思い出した。
あの判断は、おそらく間違っていなかった。
弱い一人を守るため、強い三人が危険に晒される必要はない。
ルグ村を捨ててリューデンを守ることも、おそらく正しい。
百人と数万人。
数字だけなら迷う余地はない。
それでも。
切り捨てられた側に立った時、正しさは何の慰めにもならなかった。
レオンは剣を拾った。
「嫌です」
村長の声が止まった。
「何が」
「逃げるのが」
ベヒモスがこちらへ身体を向ける。
レオンの手は震えていた。
「俺、一度置いていかれたんです」
ゆっくり剣を構える。
「正しい理由があったって、置いていかれた方には関係なかった」
ベヒモスが走り始める。
レオンも前へ出た。
角を避け、腹へ剣を走らせる。
浅い。
尾が横から来た。
身体が地面を滑り、息が詰まる。
立つ。
もう一度。
脚へ斬りつける。
ほとんど通らない。
狼魔が横から炎を吐いた。
避け切れず、左肩から背中に熱が走る。
膝をついた。
焦げた服の下で皮膚が焼けている。
「レオン!」
遠くに、最後の馬車が見えた。
まだ村を出ていない。
立ち上がる。
足が震える。
死にたくなかった。
それはずっと同じだった。
追放されても。
独りになっても。
今も。
それでも、ここで逃げた後、自分がどんな顔をして生きていくのかを想像した時、足は南へ向かなかった。
「俺が逃げたら」
ベヒモスが近づく。
「こいつらが死ぬだろ」
その時だった。
頭の奥で、閉じていた何かが音もなく開いた。
【条件確認】
文字が視界の奥に浮かぶ。
【他者による進路決定からの離脱】
【自己の意思による未来選択】
【自己保全を超えた他者守護の意思を確認】
そして。
【特殊職業を解放します】
光が身体の内側から滲み出した。
【職業――勇者】
レオンはしばらく、その文字を見ていた。
「……今なのか」
笑うほどの余裕はなかった。
ただ、六年間待ち続けていた答えが、今さら現れたことが妙に可笑しかった。
ベヒモスの角が迫る。
剣を合わせた。
以前なら身体ごと飛ばされていた。
今回は、足が地面に残った。
腕にかかる力は重い。
けれど、支えられる。
「そうか」
レオンの目に、ベヒモスの身体を巡る魔力の流れが見えた。
脚。
関節。
重心。
【勇者の眼】
けれど、レオンは真正面から力比べを続けなかった。
これまで覚えてきた戦い方がある。
ベヒモスを村の防御溝へ誘導する。
片脚が沈む。
体勢が崩れた。
その瞬間に左脚の腱に剣を入れる。
巨体が膝をついた。
屋根へ駆け上がる。
これまでの自分では届かなかった高さまで跳ぶ。
首筋。
剣を突き立てる。
一度。
浅い。
二度。
刃が入る。
三度目。
剣身が首の奥まで沈んだ。
ベヒモスの身体から力が抜けていく。
レオンは剣を握ったまま地面へ落ち、膝をついた。
やがて巨体もゆっくり傾き、大地へ沈んだ。
しばらくして。
村長が走ってきた。
「レオン」
レオンは顔を上げた。
「避難は」
老人は何度か息を整えてから頷いた。
「全員、村を出た」
その言葉を聞いて、レオンはようやく剣から手を離した。
「……そうですか」
身体を支えていたものが、それで切れた。
倒れながら見えた空は、夕暮れに近づいていた。




