第三章 安全な場所
ルグ村は、山と深い森に挟まれた小さな集落だった。
家は五十軒にも満たず、畑と家畜の放牧地が村の周囲に広がっている。
レオンが荷車を止めると、数人の子供たちが遠巻きに見ていたが、そのうち一人が剣に気づき、恐る恐る近づいてきた。
「冒険者?」
「一応な」
「魔物、いっぱい倒した?」
レオンは塩袋を肩に担ぎながら少し考えた。
「小さいのなら」
子供が首を傾げた。
「弱いの?」
「お前よりは強い」
少し離れたところで、大人たちが笑った。
村長は白髪の老人で、レオンから荷物の目録を受け取ると、一本ずつ指で確認した後、丁寧に頭を下げた。
「助かった。このところ薬草も塩も届くのが遅くてな」
仕事自体は単純だった。
物資を運び、村周辺の街道を確認し、崩れた避難路があれば記録する。
レオンにはむしろ得意な仕事だった。
二度目の訪問になる頃には、村人たちは彼の名前を覚えていた。
三度目には、宿代を取ろうとしなくなった。
その日も、仕事を終えたレオンが村長宅で食事を取っていると、老人が何気なく口にした。
「エリシア嬢も、よく考えたものだ」
レオンの手が止まった。
「エリシア?」
「お前さんを、こういう後方の仕事へ回してやってくれと、ギルドへ頼んだそうじゃないか。戦わなくても経験を活かせる、適任だと言っていたそうだ」
レオンはしばらく椀の中のスープを見た。
「……そうですか」
それ以上は聞かなかった。
腹が立たないわけではなかった。
けれど、仕事そのものに不満はなかったし、この村も嫌いではなかった。
自分に向いているという言葉まで否定する気にはなれなかった。
翌朝、リューデンへ戻るために森へ入ってから、レオンは足を止めた。
土の上に、いくつもの足跡が残っていた。
しゃがみ込む。
ゴブリン。
オーク。
狼魔。
本来なら同じ場所を群れで移動することのない種類が、すべて同じ方向へ向かっている。
南。
ルグ村。
さらに進むと、太い木の幹に、レオンの腕より長い爪痕が残されていた。
傷は新しい。
彼は指先で木屑に触れ、それから森の奥を見た。
鳥の声がない。
すぐに村へ戻った。
「村長」
レオンの表情を見ただけで、老人も何かを察したらしい。
「何があった」
「避難の準備をしてください」
それだけ告げると、通信魔道具を取り出し、リューデンへ緊急連絡を入れた。
調査結果を聞いたギルド側が、しばらく慌ただしく応答を繰り返す。
やがて、ひとつの事実が分かった。
数日前。
白銀の翼が北部森林で、大規模な魔物の巣を討伐していた。
討伐そのものには成功した。
しかし、その周辺にいた魔物の多くが縄張りを失い、南へ流れている。
ルグ村は、その進路上にあった。
通信の向こうで、ギルド職員が何者かと話し合っている。
しばらくして戻ってきた声は、平坦だった。
『ルグ村を放棄する』
レオンは聞き返さなかった。
言葉の意味は分かっていた。
『レオン・アルヴェインは直ちに単独で帰還せよ。住民には南方へ避難命令を出す』
「間に合いません」
村を振り返る。
老人が多い。
幼い子供もいる。
荷車も十分ではない。
「全員徒歩で逃げれば、途中で追いつかれる」
『リューデン北門へ戦力を集中しなければならない。村へ部隊を回せば都市防衛が薄くなる』
数万の住民がいる街。
百人の村。
理屈は分かった。
そこへ別の声が割り込んだ。
『レオン』
通信越しでも、すぐ分かった。
エリシアだった。
「……」
『今すぐ村を出て』
「村人は」
『ギルドが避難させる』
「間に合わない」
『それでも、あなたが残って何ができるの』
声には焦りが混じっていた。
『お願いだから、今度くらい私の言うことを聞いて』
レオンは返事をしなかった。
『あなたを安全な仕事に回してもらったのも、こんなことにならないためだったの』
「……この仕事も、お前が決めたのか」
通信の向こうが静かになった。
『……そうよ』
「俺には言わずに」
『言ったら嫌がるでしょう。それに、あなたなら輸送や調査で役に立てる。討伐へ出るより安全だから』
レオンは村の北側へ目を向けた。
遠くの森で、鳥がまとまって飛び立っている。
その下では、木々の梢が不自然に揺れていた。
「その安全な仕事で」
彼は静かに言った。
「今、俺は魔物の群れの前にいる」
長い沈黙。
『……そんなことになるなんて、知らなかった』
レオンは目を閉じた。
「また、それか」
『レオン?』
「悪気がないのは分かってる」
追放したことも。
依頼を制限したことも。
ここへ送ったことも。
全部。
「俺のためなんだろ」
『そうよ』
迷いのない返事だった。
その返事を聞いた時、レオンの中にあった怒りは、不思議なほど静かになった。
代わりに、何かがひとつ離れていくような感覚があった。
「もういい」
『待って』
「お前が俺のために決めるたび、俺は自分で決められるものを一つずつ失ってる」
『レオン、今はそんな話をしている場合じゃ――』
「だから、今度は俺が決める」
通信を切った。
村長がすぐそばに立っていた。
「援軍は」
老人の問いに、レオンは首を振った。
「来ません」
村長は目を閉じた。
しばらくして、村の中から子供の泣き声が聞こえた。
レオンは剣を抜き、刃の状態を確かめた。
「全員を南へ。荷物は捨ててください」
「お前は」
「時間を作ります」
老人がしばらく彼を見た。
「一人でか」
レオンは答えず、森の方へ身体を向けた。
地面を伝ってくる振動は、もうはっきりと感じられた。




