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第四話 灰灯期

 十二の月。灰灯期に入って、灯は最小限になる。


 雪は十二日から降り続いた。十五日には峠が埋まり、麓へ降りる者はいなくなった。閉山だ。晴れて風のない日を待たなければ、人も物も動かない。


 セラフィナが熱を出したのは、二十一日の朝だった。


 朝課に来なかった。私が水を持って部屋へ行くと、寝台に横になったまま、起きようとして、途中でやめた。


 額に触れる。


 熱い。


 指を離しても、指のほうが熱を持っている。


「起きられます」


 セラフィナは言った。語尾は下がらなかった。


「起きなくていいです」


 私は部屋を出て、走った。


    ◇


 修道院には薬がある。熱冷ましの草と、傷の膏薬と、腹下しの粉。婆たちが夏のうちに集めて、乾かして、袋に分ける。


 私は水を汲み、布を絞って、額に置いた。すぐぬるくなる。取り替える。汲んだ水はすぐ冷える。冷えすぎた水は使えない。ちょうどの温さは、手の甲でしか分からない。


 温めるのか、冷やすのかが分からなくて、婆に聞いた。


「両方さ」


 上がるときは包む。下がるときは拭く。婆はそれだけ言って、糸へ戻った。


 上がりはじめは分かる。手先から先に冷たくなる。そうしたら毛布を重ねて、脇と背中を温める。額が濡れてきたら、今度は外して、拭く。順番を間違えると、汗が冷えて震えが来る。


 三日で、私は手のほうが先に動くようになった。


 三日目に、袋が空いた。


 熱は下がらなかった。上がっては少し下がり、また上がった。夜のほうが高い。灯番のあいだは婆と代わってもらい、終われば戻った。


 眠ったのは、椅子でだった。


 四日目の夜、セラフィナが起き上がろうとした。


「――板を」


「あとにしてください」


「――あとがない」


 私は書板と炭を渡した。セラフィナは炭を握った。膝に板を置いた。


 線が引けなかった。


 手が震えていたのではない。震えるほどの力もなかった。炭の先が板に触れて、そのまま止まっていた。


 私は板を取った。炭も取った。


「私が書きます」


「――いや」


 セラフィナは首を振った。それだけで疲れて、目を閉じた。


 私は板を棚へ戻した。何も書かれていない板だった。


    ◇


 麓には施療院がある。


 聖教会が置いたもので、金を持たない者も診る。名を名乗れない者も診る。戸口へ着けば、誰でも診る。私はそう教わって育った。それは本当だと思う。


 問題は、戸口までが遠いことだった。


 雪の峠を、熱のある人を背負って越えることは、私にはできない。そりが要る。そりを引ける者が四人は要る。うちにはそりはあるが、荷用で、人を寝かせる形ではない。引ける者も、この雪では足りない。


 閉山のあいだ、施療院から人とそりを出してもらう手はある。要請すればいい。


 要請には紙が要る。


 私は五日目の夜、母の部屋へ行った。


    ◇


「送療状を出してください」


 母は机の前に座っていた。灰灯期のあいだ、母の部屋の灯も細い。


「出せません」


「出せない、というのは」


「書けないという意味です」


 母は棚から受け入れ簿を取った。閉じたまま、机に置いた。


「送療状には、うちの簿から患者の名を写します。麓は、その名で人とそりと薬を動かします。誰を運ぶのかを、麓の側が帳面に残せなければ、人は出ません」


「あの人の欄は……」


「空いています」


 母は簿を開かなかった。開かなくても知っているのだ。


「受け入れの行には、あとから書き足しません。書き足せる帳面なら、いつでも誰の名でも入れられます。そういう帳面は、預けた側からも信じられません」


「では、あの人はどうなるんですか」


「うちで手当てを続けます。できることはします」


「足りていません」


「足りていません」


 母は同じ言葉を返した。言い返さなかった。私はそのことに、かえって行き場がなくなった。


 私は息を吸った。


「では、私の行を使ってください」


 母がこちらを見た。


「私の名前は、簿に載っています。あの行から私の名前を消して、セラフィナと書いてください。それなら、写せます」


 言いながら、私は自分が何を言っているか分かっていた。分かっていて、いい考えだと思っていた。


 私は困らない。名前がなくても、私はここにいる。十六年ここにいて、みんな私を知っている。名前が要る用事など、何もない。


 母はしばらく黙っていた。


 それから、簿の上に手を置いた。


「その名も、私があなたにつけたものです」


「あなたを消して、誰かへ渡すことはできません」


    ◇


 部屋を出てから、廊下でしばらく立っていた。


 石が冷たい。息が白い。


 母の言い方は、責めるものではなかった。だから逃げようがなかった。


 私は門の前に置かれていた子だ。誰の子かは知らない。母が拾って、名をつけた。その前の名は、たぶんあった。誰かがつけて、誰かが呼んでいた名が。


 それは、どこへ行ったのだろう。


 私の行には、名前がある。クラリタ、と書いてある。


 書けたのは、母が先に名をつけたからだ。名のない子を拾って、名をつけて、それから書いた。順番が逆なら、私の欄も空いていた。


 セラフィナには、そうする人がいなかった。


 違いはそれだけだった。


 分からないまま、私はずっと平気だった。


 平気だと思っていた。何も知らなくても困ったことはないと、私は誰にでも言ってきた。


 言いながら、私はセラフィナの家名を、消えないように毎晩さらっていた。


 婆の糸のことを思った。四十年、切れない糸を紡いできた手。婆は自分の名を言わない。聞かないのは私たちだが、言わないのは婆だ。


 長くいれば、言わなくなるのだ。


 私は廊下の窓を見た。何も見えなかった。雪の夜は、山も空もない。


    ◇


 熱は八日目に下がった。


 薬ではなかった。婆たちが交代で身体を拭き、水を飲ませ、汗をかかせた。それだけだ。それで下がった。下がらないこともある。今回は下がった。


 セラフィナが目を開けて、私を見た。


「クラリタ」


「はい」


「今、何日」


「八日です」


「――ずいぶん寝たんだな」


 私は水を渡した。セラフィナは自分で持てた。持てたことに、私は座り込みそうになった。


 言わなかったことがある。


 送療状のことも、母のことも、私が自分の行を渡そうとしたことも、言わなかった。


 言えば、この人は私に礼を言う。礼を言われるようなことを、私は何一つできていない。


 私は板を持ってきた。炭も。


「書けますか」


 セラフィナは炭を取った。


『フィデス』


 書けた。線は細かったが、上の線が長くて、終わりが跳ねていた。


 私はそれを見て、それから消した。


 指の粉を、外套(がいとう)で拭かなかった。

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