最終話 灯明け
灯明けの初日は、朝から晴れた。
灰灯期の三十日が終わって、年が終わる。今夜は救灯祭で、堂も、廊下も、部屋の窓辺も、灯を並べる。年に一度、この山でいちばん明るい夜だ。
私は朝から灯皿を運んでいた。二十四枚。数えたわけではない。棚の段の数で分かる。
昼前に、鐘が二度鳴った。門の鐘だ。
人が登ってきていた。
◇
そりが二台と、引き手が六人。荷用ではなく、人を乗せる形のそりだった。うちにはないものだ。
閉山は終わっていない。峠はまだ埋まっている。ただ、晴れて風がなければ、慣れた者は通れる。そういう日が、灯明けのころに何日かある。
彼らはその日を待っていた。
「引渡の命により、滞在者一名を引き取りに参りました」
先頭の男が母に言った。紙を出した。私は横から見た。印は本物だった。
名前は書かれていなかった。受け入れの日付と、預け主の印の写しだけがあった。
母は受け入れ簿を開いた。日付を確かめて、頷いた。
助けを頼む紙ではない。引き取っていく紙だ。だから空いた欄でも足りた。
荷に名前が要らないのと、同じだった。
◇
セラフィナは自分で支度をした。
熱が引いたのは三日前だ。壁に手をついて立ち、荷をまとめるあいだに二度休んだ。私が代わろうとすると、首を振った。
持ち物は少ない。来たときと同じだ。外套と、替えの下着と、櫛が一つ。
引き手は待たなかった。日のあるうちに峠を越えなければ、次の晴れ間がいつ来るか分からない。回復を待って日を選ぶ紙ではないのだ。
「板は」
私が言うと、セラフィナは首を振った。
「置いていく。あれはここのものだ」
門の外でそりが待っていた。
母が門まで来た。何も言わなかった。セラフィナも、母には頭を下げただけだった。
私は門柱のところに立っていた。
セラフィナが振り返った。
「クラリタ」
私の名を呼ぶ。
「はい」
「あなたの名前は、母上がつけたものだと言ったな」
「はい」
「私は、その名前しか知らない。だから、それがあなたの名前だ」
私は何か言おうとした。言葉が出なかった。
セラフィナは一歩戻ってきた。声を落とした。
「もう一つ。頼みがある」
「はい」
「誰かが私のことを聞いたら、話してくれ。隠さないでほしい」
私は答えられなかった。答えれば嘘になるか、断ることになる。
「返事はいらない。頼んだということだけ、覚えていて」
セラフィナは笑わなかった。この子は最後まで笑わなかった。
「行く」
そりに乗った。毛布をかけられて、すぐに顔は見えなくなった。引き手が声を合わせて、そりが動いた。門を出て、坂を下って、それから曲がって、いなくなった。
雪が明るくて、目が痛かった。
◇
夕方、灯を並べた。
堂の窓に八枚、廊下に十枚、門のところに六枚。私は決められた場所へ決められた数を置いて、順に火を移した。
日が落ちると、山の上の一軒だけが明るくなる。麓から見えるのだと聞いたことがある。私は麓から見たことがない。
救灯祭の祈りが終わって、みんな部屋へ戻った。
夜半の少し前、私は礼拝堂へ入った。
灯番の刻だ。
前の当番はもう出ていた。芯を切る。油を足す。手のほうが先に動く。いつもと同じだった。
いつもと同じだったので、私は口に出した。
「セラフィナ・フィデス。代わります」
誰もいない。誰も代わらない。
それでも私は言った。言ってしまってから、しばらく息を吸えなかった。そのまま祭壇の脇に座っていた。
書板を持ってきていた。炭も。
膝の上で、自分の名前を書いてみた。
『クラリタ』
字は下手だった。上の線が短くて、終わりが跳ねない。誰にも習っていない字だ。
しばらく見てから、親指で消した。
粉が膝に落ちた。
◇
扉のところに、子がいた。
去年の秋に来た子で、まだ十になっていない。灯番の刻に起きているのは、たぶん、救灯祭で寝そびれたのだ。
私を見ていた。
「誰の名前ですか」
問われる。
私は板を伏せた。伏せてから、それが何の役にも立たないことに気づいた。
母の言葉が浮かんだ。聞いてしまったことを、ほかの誰かへ渡さないでください。本人に頼まれても。本人に頼まれても、と母は言った。頼まれる場合があることを、母は知っていたのだ。
セラフィナの言葉も浮かんだ。話してくれ。隠さないでほしい。
返事はしていない。していないから、断ってもいない。
私は口を開いた。
「その人は……」
言いかけて、やめた。
やめてから、自分が何を守ったのかを数えた。母の言いつけを守った。婆を守った。ここへ来る誰かを守った。
それから、いま黙れば誰にも咎められないということも、勘定に入っていたのに気づいた。
子はまだ立っていた。
私は息を吸った。
「セラフィナ・フィデスといいます――」
「秋に来て、灯明けに行きました。十五でした。生きています」
子は黙って聞いていた。
「字が書けました。私より上手で。家の名前を炭で書いて、私に見せて、覚えていてと言いました。私はそれを消しました。何度も消しました」
言えることは、それだけだった。
家がなぜ潰れたのかは知らない。誰がそうしたのかも知らない。セラフィナがどこへ行ったのかも、これからどうなるのかも知らない。
知らないことを、私は足さなかった。ほかの人のことも言わなかった。
ここにいるほかの誰のことも、私は一言も言っていない。そう自分に言い聞かせて、それが言い訳だということも分かっていた。
私は約束を破った。一人分だけ、自分で決めて破った。
「その人は、どこにいるんですか」
「分かりません」
「じゃあ、どうするんですか」
私は答えられなかった。
しばらくして、私は板を子のほうへ向けた。何も書いていない板だ。
「名前だけ、覚えていてもらえますか」
子は板を見た。それから私を見た。
「セラフィナ・フィデス」
言った。
「セラフィナ・フィデス」
もう一度言った。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。




