第三話 書簡
十一の月。セラフィナは羊皮紙に手紙を書いた。
炭ではなく、墨で。削っても跡が残る紙に。
誰も封を開けない。開けたと聞いたこともない。
「あなたは書かないのか」
「書く相手がいません」
「そうか」
セラフィナは書き終えると、封をして、私に渡した。私は水汲みの列の帰りに、麓へ降りる修道士へ渡した。それだけのことだった。
自由だ、と私は思った。
紙を封じて、山を降ろして、返事を待てる。ここは牢ではない。私はそのことを、少し誇らしく思っていたのだと思う。
◇
返事は十九日ぶりに来た。
思ったより早かった。道が凍る前だったからだ。
包みは厚かった。手紙が一通と、それより硬い紙がもう一枚入っていた。
セラフィナは礼拝堂の脇の小部屋で、それを開いた。私も呼ばれた。
まず手紙のほうを、彼女が読んだ。読み終わるまで、何も言わなかった。
「父の弟の、そのまた縁の家だ」
「ご家族では」
「家は継がれている。ただし、うちの血ではない」
セラフィナは紙を私のほうへ向けた。文字は整っていた。書き慣れた者の字だ。
私は書式を見た。日付。宛先。差出人。それから末尾の印。
「これは代筆です。書いた人と、印を持っている人が違います」
「分かるのか」
「行の詰め方が写字の癖です。書き手は、文の中身を決めていません」
セラフィナは何か言いかけて、やめた。
文面は短かった。療養の労をねぎらう言葉が三行。修道院への謝意が二行。それだけだった。
セラフィナの名は、どこにもなかった。
「先の当主の娘」と書かれていた。
◇
もう一枚のほうを手渡され、私が先に見た。
厚い紙で、上と下の余白が広い。文字は本文よりも大きく、行の間が空いている。角に印が二つ押してあった。
「これは写しです。役所の記録の」
「本物か」
「印が二つあります。原本を作った側と、写した側の。この形式は正式なものです」
私は写字の下働きで、この形の紙を何度も畳んだことがある。中身を読んだことはあまりない。読む必要がないからだ。
その日は読んだ。
『先の当主の娘。病没』
日付が入っていた。三の月の末。半年前だ。
私はもう一度読んだ。二度読んでも同じだった。
「セラフィナさん」
呼んだ声が、自分のものに聞こえなかった。
セラフィナは紙を取って、しばらく見ていた。それから、目を上げないまま言った。
「そうか。病死ということで通したのか」
「――そう記録されています」
「家の娘が生きていると、継いだ側は落ち着かない。死なせておけば、誰も訪ねてこないからな」
セラフィナの声は変わらなかった。
私は紙を見ていた。字も、印も、どこも間違っていなかった。書き損じもない。
嘘には見えなかった。
嘘には見えないものを、私は初めて怖いと思った。
◇
手紙の末尾に、もう一行あった。
私はそれを最後まで読んでいなかった。
『滞在者一名、次の護送のとき、別の療養先へ移されたし』
名前はなかった。受け入れの日付と、預け主の印の写しだけが添えてあった。母の帳面の、あの空いた行を指している。
「これは、あなたのことですか」
「そう読めるな」
「でも、こちらの紙では、あなたは――」
「死んでいる」
セラフィナは二枚を並べた。
「片方は死んだ娘。片方は名前のない滞在者。書いた人間は、それが同じ人だと決める必要がない」
「決めないと、動かせないはずです」
「動かせる。荷なら、名前は要らない」
私は口を開いて、閉じた。
食い違っているのは、目の前に座っている人だけだった。
「次の護送は、いつですか」
「灯明けのうちに、道が通れる最初の日だと書いてある」
灰灯期が明けて、年が変わるころだ。指を折らなくても分かる。一月半しかない。
◇
作業場へ戻ると、糸の婆が座っていた。
婆の脇で、小さい子が羊毛をほぐしていた。秋に来た子で、まだ十になっていない。どこから来たのかは知らない。聞かないから知らない。
私は向かいに座って、糸を取った。手が動かなかったので、しばらく持っているだけだった。
「婆様は――」
言ってから、聞いてはいけないことに気づいた。私は聞き方を変えた。
「ここは、長いんですか」
「――四十年」
婆は手を止めなかった。
「四十年」
私は言い返すように繰り返した。
「そのくらいさ。数えちゃいねえけども」
婆の糸は細くて、切れなかった。四十年、毎日そうしてきた手だ。
私は婆の名を知らない。婆と呼んでいる。ここの誰も、婆の名を呼ばない。
麓の役所の紙に、婆はどう書かれているのだろう。
死んでいることになっているのかもしれない。滞在者一名と書かれているのかもしれない。どちらにしても、そこに婆の名はない。
そして四十年経つと、こちらにも、もう名がない。
私は糸を紡ぎ始めた。二度切れた。
夜、灯番の刻に、私はセラフィナの名を呼んだ。
紙が呼ばない名を、この山の上で、二人だけが呼んでいる。それが何かの役に立つとは思えなかった。
それでも私は呼んだし、セラフィナも私の名を呼んだ。




