表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/5

第三話 書簡

 十一の月。セラフィナは羊皮紙に手紙を書いた。


 炭ではなく、墨で。削っても跡が残る紙に。


 誰も封を開けない。開けたと聞いたこともない。


「あなたは書かないのか」


「書く相手がいません」


「そうか」


 セラフィナは書き終えると、封をして、私に渡した。私は水汲みの列の帰りに、麓へ降りる修道士へ渡した。それだけのことだった。


 自由だ、と私は思った。


 紙を封じて、山を降ろして、返事を待てる。ここは牢ではない。私はそのことを、少し誇らしく思っていたのだと思う。


    ◇


 返事は十九日ぶりに来た。


 思ったより早かった。道が凍る前だったからだ。


 包みは厚かった。手紙が一通と、それより硬い紙がもう一枚入っていた。


 セラフィナは礼拝堂の脇の小部屋で、それを開いた。私も呼ばれた。


 まず手紙のほうを、彼女が読んだ。読み終わるまで、何も言わなかった。


「父の弟の、そのまた縁の家だ」


「ご家族では」


「家は継がれている。ただし、うちの血ではない」


 セラフィナは紙を私のほうへ向けた。文字は整っていた。書き慣れた者の字だ。


 私は書式を見た。日付。宛先。差出人。それから末尾の印。


「これは代筆です。書いた人と、印を持っている人が違います」


「分かるのか」


「行の詰め方が写字の癖です。書き手は、文の中身を決めていません」


 セラフィナは何か言いかけて、やめた。


 文面は短かった。療養の労をねぎらう言葉が三行。修道院への謝意が二行。それだけだった。


 セラフィナの名は、どこにもなかった。


「先の当主の娘」と書かれていた。


    ◇


 もう一枚のほうを手渡され、私が先に見た。


 厚い紙で、上と下の余白が広い。文字は本文よりも大きく、行の間が空いている。角に印が二つ押してあった。


「これは写しです。役所の記録の」


「本物か」


「印が二つあります。原本を作った側と、写した側の。この形式は正式なものです」


 私は写字の下働きで、この形の紙を何度も畳んだことがある。中身を読んだことはあまりない。読む必要がないからだ。


 その日は読んだ。


『先の当主の娘。病没』


 日付が入っていた。三の月の末。半年前だ。


 私はもう一度読んだ。二度読んでも同じだった。


「セラフィナさん」


 呼んだ声が、自分のものに聞こえなかった。


 セラフィナは紙を取って、しばらく見ていた。それから、目を上げないまま言った。


「そうか。病死ということで通したのか」


「――そう記録されています」


「家の娘が生きていると、継いだ側は落ち着かない。死なせておけば、誰も訪ねてこないからな」


 セラフィナの声は変わらなかった。


 私は紙を見ていた。字も、印も、どこも間違っていなかった。書き損じもない。


 嘘には見えなかった。


 嘘には見えないものを、私は初めて怖いと思った。


    ◇


 手紙の末尾に、もう一行あった。


 私はそれを最後まで読んでいなかった。


『滞在者一名、次の護送のとき、別の療養先へ移されたし』


 名前はなかった。受け入れの日付と、預け主の印の写しだけが添えてあった。母の帳面の、あの空いた行を指している。


「これは、あなたのことですか」


「そう読めるな」


「でも、こちらの紙では、あなたは――」


「死んでいる」


 セラフィナは二枚を並べた。


「片方は死んだ娘。片方は名前のない滞在者。書いた人間は、それが同じ人だと決める必要がない」


「決めないと、動かせないはずです」


「動かせる。荷なら、名前は要らない」


 私は口を開いて、閉じた。


 食い違っているのは、目の前に座っている人だけだった。


「次の護送は、いつですか」


「灯明けのうちに、道が通れる最初の日だと書いてある」


 灰灯期が明けて、年が変わるころだ。指を折らなくても分かる。一月半しかない。


    ◇


 作業場へ戻ると、糸の婆が座っていた。


 婆の脇で、小さい子が羊毛をほぐしていた。秋に来た子で、まだ十になっていない。どこから来たのかは知らない。聞かないから知らない。


 私は向かいに座って、糸を取った。手が動かなかったので、しばらく持っているだけだった。


「婆様は――」


 言ってから、聞いてはいけないことに気づいた。私は聞き方を変えた。


「ここは、長いんですか」


「――四十年」


 婆は手を止めなかった。


「四十年」


 私は言い返すように繰り返した。


「そのくらいさ。数えちゃいねえけども」


 婆の糸は細くて、切れなかった。四十年、毎日そうしてきた手だ。


 私は婆の名を知らない。婆と呼んでいる。ここの誰も、婆の名を呼ばない。


 麓の役所の紙に、婆はどう書かれているのだろう。


 死んでいることになっているのかもしれない。滞在者一名と書かれているのかもしれない。どちらにしても、そこに婆の名はない。


 そして四十年経つと、こちらにも、もう名がない。


 私は糸を紡ぎ始めた。二度切れた。


 夜、灯番の刻に、私はセラフィナの名を呼んだ。


 紙が呼ばない名を、この山の上で、二人だけが呼んでいる。それが何かの役に立つとは思えなかった。


 それでも私は呼んだし、セラフィナも私の名を呼んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ