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第二話 灯番

 十の月に入ると、朝の水が冷たくなる。


 私は決めたとおりにしていた。話しかけない。聞かない。すれ違えば会釈をする。それだけだ。


 けれど、あの子のほうから来た。


 作業場で、羊の囲いで、水汲みの列で。私が糸を紡いでいると、隣に座って、しばらく手元を見ている。


「それは、どこで覚えた」


「ここでです」


「誰に教わったのか」


「たぶん、見ていて覚えました」


 私の答えはいつも短い。短くしようとしているのではなく、長く答えるほど知っていることが、私にはあまりない。


 あの子の言葉も短い。しかも、語尾が下がらない。聞いているのに、頼んでいるように聞こえない。私はそれが、少し怖かった。


 滞在者に作業の割り当てはない。手伝いたい人が手伝う。あの子は毎日来た。


 糸の婆が一度だけ言った。


「あの子は手が硬くてねえ」


 そのとおりだった。指の腹に、糸の通った跡がない。


 三日目に、あの子は錘を落として、指を挟んだ。爪の下が黒くなった。


 私が水を汲んできたときには、もう自分で巻き終えていた。布の巻き方が下手で、ほどけかけていた。


「痛くありませんか」


「痛い」


 目を合わさず言って、それきりだった。


 その日、あの子は夕方まで糸を巻いた。速さは半分になっていたが、やめなかった。


 痛い、と言われたとき、私は何かできると思った。けれどあの子は、痛いと言っただけだった。訴えではなかった。私が聞いたから答えた、それだけだった。答えが返ってきて、私にはもう、することがなくなった。


 婆が横目で見て、また手元へ戻った。婆は何も言わなかった。


 十日ほどして、あの子の指の黒いところは、爪の先へ動いていた。伸びた分だけ、傷が上へ行く。私はそれを毎日見ていた。見るたびに、自分が何日そうしているかを思った。


 その日、糸の婆がより終えた糸の輪を、私たちの間へ置いた。


「巻きな」


 あの子が両腕を出したので、私は糸の輪をかけた。一人が輪を広げ、一人が玉に巻く。二人でするほうが、糸は絡まない。


「もう少し腕を開いてください」


 あの子が開いた。


「それは開きすぎです」


「さっきより広い」


「その間です」


「――細かいんだな」


 そう言いながら、あの子は腕を少し戻した。


 私は糸端を取り、玉へ巻いた。最初は糸を引くたび、あの子の手首に輪が引っかかった。三度目からは、私が引く前に手首を返した。


「速いな」


「急ぐと切れます」


「あなたは、よく切っている」


 私は手を止めた。


「見ていたんですか」


「隣にいるからな」


 あの子は手首を返した。止めたぶんだけ、糸が引っかかっていた。


 私はまた巻き始めた。


 一束が終わるころには、どちらも相手の手を見なくなっていた。


    ◇


 十の月の八日。夜の灯番は私一人だった。


 礼拝堂は昼より暗い。壁も床も石で、息を吐くと少し白くなる。灯は祭壇の脇に一つ。夜のあいだ、これを消さないのが当番の務めだ。


 扉が開いた。


「私が代わろう」


 あの子が立っていた。外套(がいとう)の上から毛布を巻いている。


 寝られないのだと、私は思った。ここへ来てから、あの子の部屋の灯は夜半まで消えない。三十人が寝ている建物で、消えない灯は一つだけだから、廊下を通れば分かる。


「割り当てがありません」


「知っている」


「規則では――」


「規則を聞いていない。代わってほしくないなら、そう言ってくれればいい」


 私は断れた。断ってよかったし、断るのが正しかった。滞在者を当番に入れれば、記録に残らない務めができる。


 私は口を開いて、閉じた。


「交代のときは、名前を呼ぶんです」


「なぜ」


「決まりです。誰から誰へ渡したか、分かるように」


「クラリタ」


「はい。私の名前は――」


 言ってから、私は続けた。言わなくてもよかったのに、なぜか言った。


「母がつけました。私は門の前に置かれていた子なので、前の名前は……わかりません」


 あの子はしばらく黙っていた。


 私は、次に何を聞かれるかを待っていた。誰の子か。どこから来たか。聞かれれば私は答えられない。答えられないことが、初めて少しだけ恥ずかしかった。


 ――聞かれなかった。


 かわりに、あの子は灯のほうを見た。


「油は、どのくらいで足すんだ」


半刻(はんとき)に一度くらいです」


「多いんだな」


 どうでもいい話だった。どうでもいい話を、この人はわざわざ選んだのだと、私はあとで気づいた。


「クラリタ」


 私の名を呼ぶ。


「代わってくれ」


 私は息を吸った。


「セラフィナ・フィデス」


 呼んだ。母の簿にない名だ。


「代わります」


 あの子は祭壇の脇へ行って、腰を下ろした。私も座った。交代したのに、どちらも出ていかなかった。


    ◇


 しばらく、油の匂いだけがしていた。


「炭はあるか」


「あります」


 写字の下書きに使う炭と、書板を、私は棚から出した。板は羊の油を吸って黒くなっている。何度も書いて、何度も削って、そのたびに薄くなる板だ。


 セラフィナは炭を取って、膝の上で書いた。


『フィデス』


 それから、その下にもう一つ書いた。父の名だった。文字の形が私のとは違っていた。上の線が長くて、終わりが跳ねている。習った人の字だ。


「読めるか」


「読めます」


「では、覚えていて」


 私は板を見ていた。


「うちは東の谷を三つ持っていた。父が代官で、税を集めて、道を直させていた。その父が、聖守を元へ戻すべきだという側についた。負けたのはそっちだ」


「お父さまは」


「死んだと聞いている。伯父も、たぶん」


「――たぶん」


「誰も教えてくれない。知らせが来ないことが、知らせだ」


 セラフィナは炭を置いた。指の腹が黒くなっていた。それを外套で拭かずに、そのままにしていた。


 それから、毛布の端をこちらへ寄こした。


「いりません」


「手が冷えている」


「慣れています」


「慣れているのと、冷えていないのは違う」


 私は端を受け取った。石の床は冷たくて、毛布は一枚しかなかった。


「あなたに頼むのは、家を取り戻してくれということじゃない。私には無理だし、あなたにはもっと無理だ」


「はい」


「フィデスという家があったことを、覚えていてほしい。それだけだ」


 私はうなずいた。


 うなずいてから、自分が何を引き受けたのか、順に考えた。


 母は言った。聞いたことを、ほかの誰かへ渡すな。本人に頼まれても。


 

セラフィナは、渡してくれとは言っていない。覚えていろと言っただけだ。


 だから、守れる。両方守れる。


 そのとき私はそう思った。


    ◇


 夜半の鐘が鳴る前に、私は板を膝に置いた。


「消します」


「かまわない」


 親指の腹で、上から下へ擦った。フィデス、が灰色になって、それから板の色に戻った。父の名も消した。粉が指について、膝に落ちた。


 母を恐れたのではない。書いたものが残れば、いつか誰かが読む。読んだ人はまた誰かへ渡す。渡してはいけないと決まっている。


 だから消すのが正しい。正しいはずだった。


「よく消える」


 セラフィナが言った。


「何度も使う板ですから」


「羊皮紙だと、こうはいかない」


「書き直すときは、削ります」


「削っても跡が残る」


「残ります」


 セラフィナは板を見ていた。何か言いかけて、やめた。


 私は板を棚へ戻した。炭も戻した。


「――明日も来ていいか」


「割り当てがありません」


「知っている」


 さっきと同じやりとりをして、同じ答えになった。


「先に戻れ」


「当番は私です」


「あと半刻で夜半の鐘だ。あなたは明けの鐘でまた起きる。私は昼まで寝ていられる」


 そう言われて、私は初めて、この人が私の当番の順番を覚えていることに気づいた。


 私は戻らなかった。戻らなかったけれど、言われたことは残った。


 灯は消えていなかった。当番の務めは果たしている。記録には何も残らない夜だった。


 戻る途中で、廊下の窓から山が見えた。頂のあたりが白い。もう雪が来ている。


 私は指の粉を、外套で拭かなかった。

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