第一話 不問
山の上の修道院。ここでは、来た者の過去を聞いてはいけない。
拾われて育ったクラリタは、その規則の中で十六年を過ごしてきた。
秋、山道を登ってきた一行が、少女を一人だけ置いていく。受け入れ簿の名の欄は、空いたまま閉じられた。
修道院の明けの鐘。
礼拝堂の扉を押すと、夜のあいだ灯っていた火が、細く伸びたまま揺れた。
「サビナ、代わります」
サビナは頷いて、私と入れ替わりに出ていった。
芯を切る。油を足す。手のほうが先に動いた。
昼前に、山道を人が登ってきた。
四人。馬では登れない道だから、みんな歩きだった。そのうちの一人だけが、私と同じくらいの背丈だった。
門のところに母が立っていた。院長のことを、私たちはそう呼んだ。
先頭の男が布に包んだものを渡し、母が受け取った。言葉は少なかった。それから母は、受け入れ簿を開いた。
母が私を呼んだ。私は墨を持って、母の横に立った。
私はあの帳面の書き方を知っていた。写しの手伝いをしているからだ。
日付。預け主の印。どの名で、あるいはどの立場で預けられたか。
母は書いた。
『滞在者一名』
名の欄は空いていた。
母は墨が乾くのを待って、帳面を閉じた。受け入れの行に、あとから書き足すことはしない。だからその欄は、空いたまま決まった。
三人は同じ道を降りていった。振り返らなかった。
あの子が、門のところに残っていた。
◇
朝課の鐘で堂へ入った。
男は右、女は左。席は分かれているが、祈るのは同じ堂で、同じ時刻だ。額、唇、胸の順に触れる。三十人ぶんの衣ずれが、一度だけ揃う。
あの子は左のいちばん後ろに座らされた。誰も何も言わなかった。
朝課が終わると、みんな作業へ散る。祈ってから働くのではない。働くことも祈ることだと教わっている。だから、堂を出ていく足音は速い。
私は作業場で糸を紡いだ。
糸の婆は私の向かいに座る。婆の糸はいつも細くて、切れない。私のはときどき切れる。
「急ぐからさ」
婆はそう言う。急いでいるつもりはないのだけれど、たぶん、急いでいるのだと思う。
婆の名は知らない。私が生まれるより前から、婆は糸の婆だ。
昼の食事のとき、あの子は左の端に座った。
誰も来歴を聞かなかった。器を渡す者がいて、席を詰める者がいて、それだけだった。
こういうとき、私はいつも安心する。ここは人に何も聞かない場所だ。私が育ったのもそういう場所で、だからこそ、婆も、ほかの滞在者も、ここにいられる。
食事のあと、作業場へ戻る途中で、あの子とすれ違った。外套の裾が濡れていた。昨日の雨で、山道はまだぬかるんでいる。誰も案内をつけていなかった。
「お腹は空いていませんか」
あの子は首を振って、それから聞いた。
「ここは、出てはいけないのか」
「暮れの鐘までに戻れば、いいことになっています」
「手紙は」
「止めません。麓へ降りる人に渡せば、出ていきます。人が訪ねてきても、会えます」
あの子は少し黙って、頷いた。
私はそれで終わりにすればよかった。
けれど、聞いた。
「お名前は」
言ってから、口の中が乾いた。
あの子は少し黙っていた。
「セラフィナ・フィデス」
はっきりした声だった。
「クラリタです」
私は自分の名を言った。それだけ言って、作業場へ戻った。
戻ってからも、糸が二度切れた。
夕方、羊の囲いを直しているとき、若い修道士が私に言った。
「今日の人、麓の屋敷の娘だってな」
「知りません」
「聞かなかったのか」
「聞いてはいけません」
言いながら、私は自分が昼に聞いたことを思い出していた。思い出しても、まだそれが違反だとは分かっていなかった。
◇
暮れの鐘のあと、母に呼ばれた。
母の部屋には机がひとつと、棚がひとつある。棚には帳面が並んでいて、いちばん手前の一冊が受け入れ簿だ。今日はそれが閉じたまま置かれていた。
「あなたが名を聞いたと耳にしました」
母は座ったままだった。声も、いつもと変わらなかった。
「二度としないように」
「はい」
「聞かれた本人が名乗ったのなら、呼んでかまいません。自分で口にしたものは、その人のものです」
私は顔を上げた。
「ただ、聞いてしまったことを、ほかの誰かへ渡さないでください。本人に頼まれても、です」
「本人が、いいと言ってもですか」
「ええ」
母は棚のほうを見た。
「ここは、誰の過去も広まらない場所だと思われているから、預けられます。一人分でも外へ出れば、次の人はここへ来られません。あなたが守るのは一人ではなく、まだ来ていない人たちです」
罰はなかった。写字の当番を外されることもなかった。
私は親切のつもりだった。親切のつもりで、規則の外へ出ていた。
それが分かったのは、部屋を出てからだった。
廊下は冷えていた。
私は門の前に置かれていた子で、聖教会が受け入れ、母が名をつけた。誰の子だったかは知らない。誰も聞かなかったし、私も聞かなかった。
それで困ったことは、一度もない。
私は、それを幸福だと思ってきた。
◇
その夜、灯番の刻に、私は礼拝堂へ入った。
芯を切る。油を足す。窓の外は暗くて、山も見えない。
母の言葉を、順に並べ直した。
名乗られた名は呼んでいい。聞いたことは渡さない。
二つとも守れる。難しいことは何もない。
そう思ったので、私は決めた。もう聞かない。聞いたことも、誰にも言わない。
決めるのは簡単だった。




