2
塩樹の森。
それは大陸西北部の海辺にあるホックス王国唯一の都市である王都の南に広がるレッドアン大森林の一部。
王都ホックスを出て南へ1時間ほど歩いた場所から始まり、縦断するだけだけでも数日は必要とするレッドアン大森林の沿岸部がそう呼ばれている。
その名前の通り、塩樹と呼ばれる塩の花を咲かせるこの地域特有の樹木が生えており、そこから収穫される樹塩の輸出はホックス王国にとって重要な外貨の収入源となっている。
また内陸部側は豊かな植生で様々な動物も住んでおり、レッドアン大森林の奥に入らなければ危険な魔獣も滅多に表れない為、薬草や獲物を求める者達も多い。
ホックス王国はレッドアン大森林を除いた狭い国土の多くが草原であり農業と酪農で国内の食料こそ賄っているものの冬には雪に閉ざされ収穫は難しく、特別な特産品を他に持たないので様々な恵を与えてくれる塩樹の森はとても貴重な場所だった。
今日もまた塩樹の森では近くの村の塩採りと呼ばれる人々が塩の花を収穫していたのだが、いつもと変わらないその光景に変化が現れたのは突然だった。
「おいっ、狼だ!」
「いや待て、あれはフォレストウルフだ! やばいぞ、すぐに集まれ!」
このスターティア世界には人族と動物の他に魔獣や幻獣などと呼ばれる存在がいる。
魔獣とは心臓に魔素の塊である魔石を持ち、魔力を身に纏っているので通常の生物よりも肉体的、魔法的に強力な存在だ。
濃い茶色の毛並みで通常の狼よりもひとまわり大きな体躯をもつフォレストウルフは森林地帯に棲息する魔獣の代表格であり、当然ながらレッドアン大森林にも棲息している。
数匹以上の群れで狩りを行う危険な魔物だが基本的に森の奥深くに居るため人里に近い塩樹の森に出ることはほとんど無かった。
とはいえ、彼らもこの危険な世界で暮らしているのだ。
多少の混乱はあれど速やかに集まり、こんな時のために荷車に積んでいた棒を武器のように構えると大声を張り上げフォレストウルフを威嚇した。
だが、姿を現した1匹のフォレストウルフはちらりと人々を見ただけですぐに落ち着かない様子で森の奥を警戒するように睨みつけた。
「おい、なんか様子がおかしいぞ?」
「ああ、珍しく1匹しかいないようだしな」
「いや、それもそうだけどよ。あれじゃまるで森の奥から逃げてきたみたいじゃねえか?」
リーダー格の若者がそう言った時、フォレストウルフのさらに奥、森の暗がりからひっそりと1匹の獣が現れた。
それはフォレストウルフよりもさらに大きい狼だった。
艶やかな灰色の毛並みを持ち額からはスラリと細い角が伸びている。
その狼が一鳴きすると、村人達は勿論だがフォレストウルフすらもビクリとその身を震わせた。
それは明らかにフォレストウルフよりも格上の魔獣、そしてその後ろから数匹のフォレストウルフが従うようについて来ている。
「ごめんなさい、驚かせちゃったね」
新たな脅威の登場に浮足立つ村人達の耳に突然、声が響いた。
まるで鈴の音のように涼やかな女の声だった。
一角狼が暗がりから歩みでてくると、その声の主が判明した。
声の主は一角狼の背に横座りに腰かけている1人の少女。
少女はゆっくりと一角狼の背から降りて、顔にかかるほつれ毛を後ろへと流した。
「もっと奥で終わると思ってたんだけど、気合いの入った子がいたみたいでさ。
でもまあ、そろそろ決着もつくだろうから、ちょっとだけ待っててね?」
その直後、少女に頭を一撫でされた一角狼は嬉しげに一鳴きすると瞬く間に相対していたフォレストウルフに飛び掛かり、圧倒的な力で取り押さえてしまった。
ひっくり返され喉元を前足で押さえ付けられたフォレストウルフが悲しげな声を漏らす。
そして少女が何事か一角狼に囁くと、一角狼は押さえていたフォレストウルフとその様子を伺っていた残り数匹のフォレストウルフを連れて森の奥へと消えていった。
「あの、あんたは一体?」
その様子を唖然として眺めていた村人達だったが、周りに促されてリーダー格の若者が狼を見送っていた少女へと声をかけた。
恐ろしい狼の魔獣もいなくなり、少女の先ほどのようすから自分達を害する気はなさそうだとは思ってはいるが、それでも声が震えてしまったのは仕方のないことだろう。
「あっ、お待たせしちゃってごめんね?」
振り返った少女を見て若者は息を飲んだ。
先ほどまでは魔獣が気になりよく見ていなかったのだが、改めて少女を見るとその美しさに圧倒された。
後ろで一つに結ばれて背中に流されている黒髪は見たこともないほど滑らかで、顔立ちは異国のものだが大人びた美しさと幼いあどけなさが絶妙に入り混じっており、笑顔が眩しい。
異国風の衣装は一見してわかるほど上質の生地に惜し気もなく装飾を使っており、少女の立ち姿には国の式典で何度か見た高貴な方々にも引けをとらない風格があった。
黒にも見えるほどに深い青の瞳、それが日の光を受けて煌めき自分を見つめていると思うと息をすることすら忘れてしまいそうだ。
「あー、そんなに警戒しなくて良いよ? 私はマイナ。 この近くに引っ越してきた魔術師だよ」
「……引っ越してきた? 魔術師?」
「そう、この先の崖の上にある洞窟に引っ越してきたんだ。近所には早いところ挨拶に行かなきゃと思ってたんだけど、ローシュ……えっと、さっきの狼ね? そのローシュが先に縄張りを掌握したいっていうからさ。驚いたよね、ゴメンね?」
ペロリと舌をだして謝る少女。
そのあまりにも場違いな姿に二の句が告げない若者やその他の者達と返事がなくどうしようかと悩む少女のにらめっこはその後しばらく続いた。




