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6話 蒸気と暮らす人々

朝、目を覚ましたとき、アリスはしばらく天井を見ていた。


低い鉄骨と板で組まれた天井は、昨日と同じように近い。そこに走る細い管の一本から、時おり小さく金属の鳴る音がする。眠っているあいだも止まることのなかった、街の底を流れるような低い唸りも、今ははっきり耳に届いていた。


――ゴウン、ゴウン。


遠くで、どこか大きなものが息をしているような音。


森の朝はもっと静かだった。風が木々を揺らす音や、遠くの鳥の声が薄く重なるだけで、それ以上のものはあまりなかった。目を覚ましたとき、世界がもう起きているのではなく、これからゆっくりと目を開いていくような感じがあった。


けれどこの街は違う。


アリスが眠っているあいだも、機械は動き続けていたのだろう。目を覚ました瞬間から、世界はすでに忙しく回っている。


毛布の中に残っていたわずかな温もりが、起き上がるとすぐに逃げていった。足を床につける。ひやりとした金属板の感触に、身体が少しだけ縮こまる。


昨日のことを思い出す。


扉を叩く音。


巡回の男の声。


開けろ、と言われたときの息苦しさ。


その記憶は、朝になったからといって薄くなってはくれなかった。むしろ、明るくなった分だけ現実味を増して、胃の奥のあたりに重く残っている。


それでも、起きなければならない。


アリスはゆっくりと立ち上がり、扉へ向かった。


外の部屋へ出ると、すでにレンが起きていた。


作業台の端に腰をかけ、片膝を立てて、何やら細い金具を指でいじっている。額に乗せたままのゴーグルは昨日と同じで、髪は寝癖のついたままだった。けれど本人は気にしていないらしい。


ヘイズは、拠点の奥で何かを漁っている最中だった。金属箱の蓋が開く音、布の擦れる音、工具同士が軽く触れ合う音が混ざっている。


アリスが出てきたことに気づいたのはレンの方が先だった。


「起きたか」


ぶっきらぼうな声。


アリスは小さく頷く。


「……うん」


レンはその返事を聞くと、手の中の金具を回しながら言った。


「今日は外出るぞ」


唐突だった。


アリスは一瞬、意味が飲み込めずにレンを見る。


「……そと」


「そう。外」


まるで昨日のことなど気にしていないみたいな言い方だった。


アリスの顔色が変わったのを見て、レンは少しだけ肩をすくめる。


「そんな顔すんなよ。別に表のど真ん中連れ回すわけじゃねえし」


そのとき、奥からヘイズが出てきた。


片手に小さな革袋、もう片方の腕には丸めた布を抱えている。眠そうな顔はいつも通りだったが、目だけは冴えていた。


「外へは出る」


ヘイズが言う。


レンより少し低い、よく通る声。


「いつまでもここに押し込めておく方が、かえって不自然だ」


アリスは返事をしなかった。


出たくない、と思った。


昨日の巡回のことがある。扉の向こうから名前を呼ばれたことも、忘れられない。あの男たちがまた近くにいたらどうするのか。見つかったらどうなるのか。それを思うと、足の内側がひやりとする。


ヘイズは、そんなアリスの様子を見ても急かさなかった。


ただ、必要なことだけを並べるように言う。


「布がもう少し要る。お前の首元を隠すものも欲しい。手袋もあった方がいい。あと、いつまでも昨日の借り物だけで過ごすわけにもいかん」


レンが横から口を挟む。


「ヘイズが言うと優しく聞こえねえな」


「優しく言っても意味は同じだ」


「まあそうだけど」


アリスは新しく借りた上着の袖口を少し握った。


昨日手に入れた布と上着のおかげで、森から来たときほどには目立たなくなった。そう思いたい。けれど髪の色も目の色も変わらない。自分がこの街の人間ではないことは、きっと見ればわかる。


「……きのう、来た」


小さく言う。


ヘイズが何のことか一度で理解したように頷いた。


「来たな」


「あの人たち……また」


「来るかもしれん」


はっきりした答えだった。


「だが、来るかもしれないからといって、何もしないままで済むわけでもない」


アリスは唇を閉じる。


正しい。


きっとそうなのだろう。閉じこもっていたところで、この街の中で生きていくことにはならない。生きるなら、少しずつでもこの街の空気に触れなくてはいけない。


ヘイズがアリスに近づき、抱えていた布の束を差し出した。


「これを巻け」


受け取る。


少し厚みのある、くすんだ灰色の布だった。柔らかいが、ところどころに繕いの跡がある。首元に巻けば、防塵にもなるし、顔立ちも少し隠れるだろう。


レンが笑う。


「お、だいぶそれっぽくなるんじゃね」


「“それっぽく”ってなんだ」


「この街の人間っぽく、だろ」


ヘイズの返しにレンが肩をすくめる。


アリスは布を見下ろした。


こうして何かを足していくたびに、自分が少しずつ森から遠ざかっていくような気もする。けれど、同時に、この街の中で目立たずにいられるなら必要なことなのだともわかる。


「……やる」


ようやくそう言うと、レンが少しだけ意外そうな顔をした。


「へえ」


「何」


「いや。もうちょっと嫌がるかと思った」


「……嫌だけど」


「じゃあ同じだな」


何が同じなのかはわからなかったが、レンはそれ以上言わなかった。



出る準備には、思ったより時間がかかった。


首元に布を巻くのも、アリスにはまだ慣れない。ヘイズが一度適当に巻き、レンが「それだとずり落ちる」と横から手を出し、結局またヘイズが「お前がやると雑すぎる」と巻き直す。そんなやりとりのあいだ、アリスはされるがままだった。


最後に小さな革の手袋まで渡された。


指先は出ない作りで、少し大きい。けれど、今のアリスにはその方が都合がよかった。


「蒸気管にうっかり触るなよ」


ヘイズが言う。


「火傷する」


レンがすかさず続ける。


「あと鉄の柵も気をつけろ。熱持ってることあるし」


「そんなの見てわかるの」


アリスが問うと、レンはあっさり首を振った。


「わからん」


「……」


「だから触るなって言ってんだよ」


それを先に言ってほしい、と思ったが、口には出さなかった。


ヘイズは扉の前で、いつものようにさほど緊張したふうもなく言う。


「今日は遠くへは行かん。工房区の手前までだ。レン、お前がついてろ」


「へいへい」


「余計なもん見せるなよ」


「余計なもんってなんだよ」


「お前が面白がるもの全部だ」


その会話に、アリスは少しだけ不安になった。


レンが面白がるもの、というのが何を指しているのか想像がつかない。たぶん、自分にとってはどれも十分に見たことのないものなのだろう。


ヘイズが最後にアリスへ目を向けた。


「困ったら立ち止まる前に言え」


短い言葉だった。


けれど、それが“無理をするな”という意味だとわかる程度には、アリスもここ数日でこの二人の言い方に慣れ始めていた。


「……うん」


そう返すと、ヘイズが扉を開いた。



外の空気は、拠点の中より冷たかった。


朝の早い時間だからか、人の流れはまだ密になりきっていない。それでも、完全に静かなわけではなかった。遠くから重たい車輪の軋む音がする。蒸気が抜ける鋭い音が、どこかで短く弾ける。人の声もある。荷物を運ぶ者たちの短いやりとりや、店を開ける準備をする音も混じっていた。


路地を歩く。


昨日も通ったはずの道なのに、朝だとまた違って見える。


壁は煤けている。ところどころ錆びて赤茶けている。高い位置を走る管には、夜露ではない何か湿ったものが薄くついていて、朝の弱い光をくすませていた。建物の外壁から伸びた腕木に布が吊るされ、風ではなく、どこかを通る空気の流れでわずかに揺れている。


頭上を見上げると、建物と建物のあいだを、太い蒸気管が橋のように渡っていた。


一本だけではない。何本もだ。


大きさの違う管が何層にも交差し、その継ぎ目や弁のようなものが鈍い光を返している。そこからときどき低い唸りが響き、街の奥へ流れていく。


アリスは思わず立ち止まりかけた。


「見るのはいいけど、口開けて歩くなよ」


レンが前を向いたまま言う。


「危ねえから」


「……」


アリスは慌てて歩き出す。


けれど視線はどうしても上へ行ってしまう。


森の空は開けていた。木が高くても、その向こうには空の広がりがあった。ここでは逆だ。空へ向かうはずの視線が、何本もの管や橋や建物に遮られて、そのたびに「この街の内側」へ押し戻される。


「……あれ、なに」


アリスが指さした先には、建物同士を繋ぐ細い鉄の橋があった。


人が二人並ぶには少し狭いくらいの幅しかない。床は格子状で、その下が透けて見える。上の方にあるせいで、下から見上げるだけでも足がすくみそうだった。


「ああ、整備橋」


レンが振り返らずに言う。


「上の管の調整するときに使うやつ」


「……あそこ、歩くの」


「歩く」


「……落ちない?」


「落ちるやつもいるかもな」


アリスが言葉を失うと、レンが少しだけ笑った。


「冗談だよ。たぶん」


「たぶんってなに」


「だっておれ登ったことねえもん」


まるで役に立たない説明だったが、少なくともレン自身も全部を知っているわけではないのだとわかって、ほんの少しだけ気が楽になる。


路地を抜けるにつれて、周囲の音が増えていく。


そして、不意に視界が開けた。


アリスは立ち止まった。


今までの狭い路地とは違う、ひとつ大きな通りに出たのだ。


道幅が広い。


左右には建物が並んでいるが、間隔が少しだけ広く、そのぶん人も荷車も通りやすそうに見える。石畳の中央には二本の細い鉄の筋が埋め込まれていた。線路のようにまっすぐ続くそれは、通りの奥まで伸びている。


「……なに、これ」


思わず呟く。


レンは少しだけ得意そうな顔をした。


「これが軌道」


「きどう……」


「車が走るとこ」


アリスが何かを言う前に、遠くから鈴のような音が聞こえてきた。


チン、と澄んだ短い音。


それが二度、三度と鳴ったあと、通りの向こうから大きな箱のようなものが現れる。


鉄でできた車体。


窓は小さく、側面に金属の縁取りがあり、下には太い車輪がついている。その上部や脇からは白い蒸気が噴き、前の方からは規則的に低い音が響いていた。


ゆっくりと、だが確かな力で、それは埋め込まれた鉄の上を進んでくる。


アリスは息を呑んだ。


「……うごいてる」


「そりゃな」


「……馬、いない」


「いないな」


「……誰も押してない」


「押してもねえな」


レンの返答はあまりにも普通で、逆にアリスの方がおかしいことを言っているみたいだった。


けれど、そうとしか言いようがなかった。


森では、物が動くには理由があった。誰かが持つか、押すか、引くか。あるいは魔法で火を灯すように、誰かの力がそこに働くか。


でも目の前のそれは、誰も触れていないのに勝手に進んでいる。


もちろん“勝手に”ではないのだろう。けれど、その仕組みがわからないアリスには、そう見える。


軌道車――とレンが呼んだそれは、二人のすぐ近くを、白い蒸気を吐きながら通り過ぎていった。


近くで見るとさらに大きい。


車輪が鉄を噛むように進むたび、床がわずかに震える。車体の継ぎ目からは熱を帯びた空気が洩れ、油と鉄の匂いが濃くなる。窓の向こうには人がいた。座っている者もいれば、吊り革のようなものにつかまって立っている者もいる。


乗っている人たちは、誰もその動きに驚いていない。


当然のものとして受け入れている。


「……どうして動くの」


アリスが尋ねると、レンは少し考えるような顔をした。


「どうしてって……蒸気で」


「じょうき、で」


「お前な、それ昨日から何回も見てるだろ」


そう言われてアリスは口を閉じる。


確かに、この街には蒸気があふれている。管の継ぎ目から噴き出す白い煙。機械の脇で鳴る圧の抜ける音。けれど、それが“動力”として何かを動かしているという感覚が、まだうまく結びつかない。


レンは少しだけ説明する気になったのか、進みながら言った。


「熱で圧を作って、そいつで動かすんだよ」


「……」


「わからんって顔すんなよ」


「……わからない」


「だよな」


まるで最初から期待していないような返しだった。


「とにかく、こっちはそういうもんだ。火で湯を沸かして、圧で回して、動かす。車も、昇降機も、工場の機械も、だいたいそう」


アリスはその言葉を聞きながら、もう一度通りを見回した。


軌道車だけではない。


荷物を運ぶ台車もあった。小さな車輪のついた平台で、前方に筒のような機構がついている。人が押しているように見えるのに、押す力の割に荷台が軽く進んでいる。ときどき「シッ」と蒸気の抜けるような音がするから、たぶんこれも何か仕掛けがあるのだろう。


少し離れた場所では、建物の壁沿いに設置された昇降機がギギギと音を立てながら上下していた。


鉄格子の箱だ。


中には木箱が山のように積まれていて、作業着姿の男が一人、それを片手で押さえている。箱が上へ上がるたびに、横の大きな歯車が唸り、鎖が引き上げられる。


アリスはそれを見上げて、小さく言った。


「……怖い」


「乗るか?」


レンが嬉しそうに言う。


「乗らない」


即答だった。


レンは吹き出す。


「そう言うと思った」


「……あれ、落ちたら」


「死ぬだろうな」


「……」


「だから冗談だって」


ぜんぜん冗談に聞こえない、と思ったが口にはしない。


通りの両脇には店が並んでいた。


布だけではない。金具、歯車、管の継ぎ手、革の鞄、壊れた道具から外したらしい部品。どの店にも、森では見たことのないものが所狭しと並んでいる。


しかも、そのどれもが“飾り”ではなく、誰かの生活に必要なものとして置かれているのが伝わってきた。


金属の匂い。


熱い蒸気。


煤けた布。


そのあいだに、焼いた甘い生地の匂いも混ざる。


アリスは思わずそちらを見た。


露店だ。


丸い鉄板の上で、薄い生地のようなものが焼かれている。火は、これまた揺れていない。細い管の先から静かに出ている青みがかった火が、鉄板を一定の熱で温めているらしい。


その様子をじっと見ていたら、露店の店主らしき女がこちらを見た。


「買うのかい」


アリスは慌てて首を引く。


レンが横から言う。


「見てるだけ」


「冷やかしは邪魔だよ」


ぴしゃりと言われ、レンが肩をすくめた。


「こわ」


アリスは少しだけ顔を店の方へ戻した。


店主の手際は速い。生地を流し、丸い器具で広げ、焼けたら薄い道具でくるりと返す。その動きには無駄がなく、しかも火の強さを脇のつまみ一つで調整している。


「……火、近いのに」


思わず口にすると、レンが意味を測りかねたように眉を寄せる。


「近いのに、なに」


「……燃えない」


店主が一瞬だけ手を止めた。


レンは「ああ」と声を漏らした。


「鉄板だしな」


「そうじゃなくて」


アリスはうまく言葉を探す。


森でおじいちゃんが起こしていた火は、もっと揺れていて、薪や布に近づけば当然気をつけるものだった。けれどこの街の火は、道具の一部になっている。危なくないわけではないのだろうが、火そのものというより、“熱を出す仕掛け”のように見える。


店主が、少しだけ面白がるように言った。


「嬢ちゃん、火ぃ見るの初めてかい」


レンが即座に口を挟む。


「変な言い方すんなよ」


「だって変な見方してるだろ」


アリスは少しだけ首元の布を握った。


変なのは自分だ。


この街ではたぶん、火も光も、森で知っていたものとは意味が違う。


店主は焼きたての生地をひとつ取り上げると、ほんの少し迷ってからアリスの方へ差し出した。


「ほら」


アリスは目を丸くする。


「……え」


「そんな顔で見てると商売の邪魔だから、黙って食って行きな」


言い方は雑だったが、押しつけるような優しさがあった。


アリスは戸惑いながら受け取る。


まだ熱い。


「……ありがとう」


小さく言うと、店主はもう次の生地に取りかかっていた。


レンが横から言う。


「よかったな。珍しいぞ、あの人が機嫌いいの」


「うるさいよ、聞こえてるよ」


即座に飛んできた返事に、レンが笑いながら一歩下がる。


アリスは手の中の焼き菓子のようなものを見下ろした。


少し焦げ目がついていて、端はぱりっとしていそうだ。恐る恐る口に運ぶと、外は薄く香ばしく、中は少しもっちりしていた。甘さは強くないが、ほのかな香りがする。


「……おいしい」


思わず漏れる。


レンが、少しだけ得意そうな顔をする。


「だろ」


「お前のじゃねえだろ」


「この街の案内してんのおれだから、だいたいおれの手柄」


「意味わかんない」


言ってから、アリスは自分で少し驚いた。


レンに対して、こんなふうに返すのが少しだけ自然になっていた。


レンも同じことを思ったのか、目を丸くしたあと、にやりと笑った。


「お、慣れてきたな」


アリスはすぐに視線を逸らし、残りを小さく齧った。



通りをさらに進むと、街の表情は少しずつ変わっていった。


露店が増える区画もあれば、逆に建物そのものが巨大になり、人よりも機械のために作られているような場所もある。


ある一角では、建物の壁面いっぱいに歯車が露出していた。


大きいものから小さいものまで、複雑に噛み合って回っている。何に使われているのかはまるでわからない。けれど、それが動くたび、建物の奥から低い唸りが返ってくる。誰かが中で何かを作っているのか、それともただ別の動力を伝えているだけなのか。


アリスは立ち止まりそうになる。


「触るなよ」


レンが言う。


「触ってない」


「見てる顔が触りそう」


「触らない」


「ならいいけど」


アリスは少しだけ唇を尖らせた。


自分だって無闇に危ないものへ手を出すほど子どもではない、と言い返したくなったが、実際この街では何が危なくて何がそうでないのかの見分けがつかないのだから、やめておいた。


少し先には、背の高い塔のような構造物が見えた。


塔というより、細い煙突を何本も束ね、その周囲に足場と管と梯子を貼りつけたような不思議な形だった。上部からは白い蒸気が定期的に噴き出している。


「あれ、なに」


アリスが尋ねる。


レンは視線だけ向けた。


「あれは圧塔」


「……あっとう」


「街の管に圧送るやつ。たぶん」


「たぶん?」


「詳しくは知らねえって。見ればわかるだろ、おれ整備士でも工場のやつでもねえし」


レンの説明は相変わらず大雑把だ。


けれど、そういう曖昧さが逆にこの街の広さを感じさせた。レンはこの世界で生きてきた人間だが、それでも全部を知っているわけではない。むしろ、自分の暮らしに必要な範囲だけを自然に知っていて、それ以外は「そういうもの」として受け入れているのだろう。


アリスにはまだ、その感覚が新鮮だった。


森での暮らしはもっと小さかった。水を汲む場所、薪を割る場所、食べられる木の実、風の通り方。知るべきものが限られていて、その代わり一つ一つが生活に近かった。


この街では、知るべきものがあまりにも多い。


それなのに、人々はその全部を知らなくても生きている。


そんな当たり前があるのだと、今ようやくわかり始めていた。



大きな通りを渡るとき、レンが唐突にアリスの腕を引いた。


「ちょっと待て」


そのまま通りの脇へ寄せられる。


直後、目の前を大きな搬送車が通り過ぎた。


軌道車よりは小さいが、それでも人が何人も乗れそうな大きさがある。後ろの荷台には木箱と金属筒がいくつも積まれ、前方の機関部からは断続的に蒸気が噴いていた。


近くで見ると、車体の側面には薄く何かの紋章が描かれている。


「……あぶな」


アリスが呟くと、レンは鼻を鳴らす。


「この辺のやつは止まると思うな」


「……人、いるのに」


「いるからっていちいち止まってたら回んねえんだよ」


その言い方に、アリスは少しだけ驚いた。


命が軽い、という意味ではないのだろう。けれどこの街では、物が動き続けることそのものが、人の生活を支えている。だから人の方がその流れを読んで避けなければならないのだ。


“止まらない街”。


そんな言葉が頭に浮かんだ。


アリスは少しだけ自分の手を見た。


森では、自分の足で歩く範囲だけが世界だった。ここでは違う。車輪があり、軌道があり、蒸気があり、人の流れも速い。遅れていると置いていかれるような感覚がある。


「……大変だね」


ぽつりと言うと、レンが意外そうな顔をした。


「何が」


「……生きるの」


レンは少しだけ黙った。


そして前を見ながら言う。


「まあな」


それは肯定だった。


笑わない。


否定もしない。


その短い返答の中に、この街で育った者にしかわからない当たり前が詰まっている気がした。



少し歩いた先で、レンは足を止めた。


通りの脇に、小さな広場のような空間がある。そこでは、細い鉄骨と布で作られた屋根の下に、さまざまな店が肩を寄せ合うように並んでいた。


「ここならだいぶマシだ」


「……なにが」


「見物しやすい」


アリスが辺りを見る。


確かに、ここは通りより少し歩く速度が遅い。露店を覗く人が多く、荷車も少ない。その分、視線を動かす余裕がある。


ひとつめの店には、小さな金属箱が並んでいた。


蓋つきで、側面にガラス窓のあるもの。手に収まるくらいのものから、両手で抱える大きさのものまである。


「……あれ、なに」


「携帯灯」


レンが答える。


「持ち歩く明かり」


「火じゃないのに?」


「火も使ってるやつはある。けどこっちは違う」


アリスは近づきすぎない程度に覗く。


ガラスの奥で、細い線のようなものが白く光っている。揺れない。煙も出ない。


森で使う灯りといえば、火そのものか、火を閉じ込めたようなランプだった。あれらは揺れ、煙り、匂いがした。だがこの小さな灯りには、それがない。


「……どうして光るの」


「蓄えた熱か、圧か、そっち系だろ」


「そっち系って……」


「おれは店主じゃねえんだぞ」


アリスは思わず小さく息を吐く。


レンの説明は雑なのに、不思議と腹は立たなかった。


全部を丁寧に教えられても、今の自分にはきっと覚えきれない。その代わり、こうして「この街ではそれが普通に売られている」という光景の方が、ずっと強く残る気がした。


別の店には、金属の羽根がついた小さな箱があった。


店主が脇のレバーを引くと、羽根がくるくると回り始める。風が起き、吊るされた布の端を揺らした。


アリスは目を見開く。


「……風」


「送風機だな」


レンが言う。


「暑いとこで使う」


森では風は自然のものだった。来るか来ないかは天気次第で、自分ではどうにもできない。それが、ここでは道具の一つになっている。


火も。


光も。


風さえも。


アリスはそのことに、少しだけ眩暈のような感覚を覚えた。


この街は、自然にあるものを、仕組みによって作り直しているのかもしれない。


まるで、人の手で別の世界を作り直したみたいに。



「おい」


レンが急に低く言った。


アリスがそちらを見る。


レンの視線は広場の入り口の方へ向いていた。


揃いの色の上着。


巡回だ。


二人。


昨日ほど近くはない。こちらへ来るというより、広場の向こう側を歩いているだけに見える。けれど、アリスの胸はすぐに硬くなる。


レンが何でもないふうを装って言う。


「こっち」


そのまま布地の店と金具の店のあいだの狭い通路へ入る。


アリスもついていく。


心臓がまた速くなる。


狭い通路の先は、露店の裏側に出た。表から見えないように、木箱や巻いた布が積まれている。人の気配は少ない。


レンは立ち止まらず、そのまま少し歩いてからようやく振り返った。


「大丈夫か」


「……うん」


声が少しだけ弱くなる。


レンは軽く肩をすくめた。


「今日はあっちも仕事中だ。いちいち見つけて回るほど暇じゃねえよ」


「……でも」


「でもはでもだ」


それから少しだけ、声を落として付け足す。


「近づきたくねえってのはわかるけどな」


アリスは首元の布を押さえる。


見つからないようにする。


それも、この街で生きるための形の一つなのだろう。


息を整えていると、背後から柔らかい金属音がした。


振り向く。


そこには、小さな時計のようなものがいくつも吊るされていた。針がついているものもあれば、歯車が外から見えるようになっているものもある。しかも、そのうちの一つは、時間を刻むたびに中の小さな鳥の模型が羽を震わせる仕掛けになっていた。


アリスは思わず、少しだけ身を乗り出す。


「……かわいい」


レンが一瞬きょとんとした顔をする。


「え、そこ?」


「……だめ?」


「いや、だめじゃねえけど」


少し考えるような間。


「そういうの好きなのか」


「……わからない。でも、なんか……」


言葉を探す。


かわいい、だけでは足りない気がする。


無機質な鉄の街の中で、こんな小さな遊びのあるものが存在していることに驚いたのだ。役に立つからではなく、見て面白いから作られたような物がここにもある。


レンがその顔を見て、少しだけ柔らかい声で言う。


「この街、そういうの結構あるぞ」


「……そうなの」


「機械好きなやつ多いからな。役に立つもんばっか作っててもつまんねえんだろ」


アリスはもう一度、小さな鳥の羽を見る。


この街は冷たいだけじゃないのかもしれない、と、そのとき初めて少しだけ思った。



戻る前に、レンは一つの店で足を止めた。


そこで、アリス用の細い革紐と、金具のついた小さなポーチのようなものを選ぶ。首元の布を留めるための留め具まで買った。


「これ、必要なの」


「必要」


レンは即答する。


「手ぶらで歩いてると余計変だから」


「……そうなんだ」


「この街のやつ、だいたい何か下げてるだろ」


言われて見ればそうだった。


工具袋、革袋、細い筒、折り畳み式のランプ、手帳のようなもの。大きさは違っても、みんな何かしらを持っている。


森では逆だった。手ぶらでいる時間の方が多かった。必要なときに必要なものを取りに行けばよかったからだ。


「持ってると“ここにいる理由がある”感じがするんだよ」


レンが何気なく言う。


アリスはその言葉を聞いて、小さく息を止めた。


ここにいる理由。


それは昨日から、ずっと足りていないものだった。


どこにも属していない。


何も持っていない。


何のためにここを歩いているのか説明できない。


だから怪しまれる。


小さなポーチ一つで全部が変わるわけではない。けれど、見た目の一部としてそれがあるだけで、「この街の誰か」に少し近づけるのなら、それはたしかに意味がある。


レンは会計を済ませると、それをぽん、とアリスに渡した。


「なくすなよ」


「……うん」


受け取る。


革は少し硬いが、手の中で温まると馴染みそうだった。


森から来たときには、こんなものを自分が身につけるとは想像もしなかった。なのに、今は不思議と嫌ではない。



帰り道、通りの角を曲がったところで、アリスはふと足を止めた。


視線の先。


街の建物群の向こうに、何かが見えたのだ。


高い。


あまりにも高い。


普通の煙突や圧塔とは比べものにならないほど。


それは街の中心に立つ巨大な塔だった。


塔、と呼ぶには奇妙な形をしていた。まっすぐではない。何本もの太い管が外側に沿うように這い、ところどころに張り出した足場や輪のような構造がついている。上へ行くほど細くなっているのに、その細い先端近くで、白い光がぼんやりと脈打つように灯っていた。


低い街の空を押し上げるように、そこだけが異様な高さを持っている。


アリスは思わず呟いた。


「……あれ」


レンが、一歩先で足を止める。


振り返りはしない。


「……見えたか」


その声は、今までの軽さが少しだけ抜けていた。


「なに、あれ」


アリスが問う。


レンはすぐには答えなかった。


いつもなら、知らねえよとか、たぶんどうこうとか、何かしら軽く返してきそうなのに、それがない。


その沈黙が、かえって重かった。


「……見なくていい」


やがて出たのは、それだけだった。


アリスは塔を見る。


白い光が、遠すぎるのに確かにそこにある。


「……どうして」


「いいから」


レンが振り返る。


その顔は、珍しく本気で笑っていなかった。


「今は、見なくていい」


アリスはそれ以上聞けなかった。


あの塔がただ大きいだけのものではなく、この街のどこか深いところへ繋がっているのだと、言葉にされなくても感じてしまったからだ。


森で見上げた空の先には、ただ空があった。


けれどこの街では、見上げた先にも誰かの作ったものがある。そしてそれは、まだ自分が近づいてはいけないものなのだろう。


レンが歩き出す。


アリスもその背を追う。


街の音が戻ってくる。蒸気の音。車輪の軋み。遠くの呼び声。露店の鉄板で何かが焼ける音。


それらはさっきより少しだけ違って聞こえた。


怖い。


けれど、知りたい。


その二つが胸の中で混ざっている。


アリスは首元の布を少しだけ押さえ、小さなポーチの重みを確かめながら歩いた。


この街はまだ自分を拒む。


でも、もうただの恐ろしい場所ではなかった。


光があり、火があり、風があり、動く箱があり、小さな鳥が羽を震わせる時計がある。


人の手で作られた仕組みが、自然の代わりのように街を満たしている。


それが美しいのかどうか、まだ言葉にはできない。


けれど少なくとも、目を離せない世界ではあった。


拠点へ戻るころには、空の灰色が少しだけ濃くなっていた。


昼に向かっているのに暗いのではなく、流れる煙の層が厚くなったのだとレンが言っていたのを思い出す。


扉の前でレンが振り返る。


「どうだった」


いきなりそんなことを聞かれて、アリスは少し考えた。


怖かった、とも言える。


疲れた、とも言える。


知らないものばかりだった。


巡回も見た。


大きな塔も見た。


でも、それだけでは足りない気がした。


「……へん」


ようやく出た言葉は、それだった。


レンが吹き出す。


「何それ」


「だって、へん」


「まあ、へんだな」


「……でも」


アリスは小さく続ける。


「ちょっと、すごかった」


レンが一瞬だけ目を丸くする。


それから、少しだけ笑った。


今までのような、茶化すだけの笑い方ではない。


「……だろ」


その一言に、この街で育った者のささやかな誇りのようなものが混じっていた。


アリスは扉の向こう、油と鉄の匂いのする拠点の中を思う。


そこはまだ仮の場所だ。


でも、この街の“外”を少し見た今ならわかる。


自分はもう、森だけの人間ではいられないのかもしれない。


そのことを、少しだけ嬉しいと思ってしまった自分に、アリスはまだ名前をつけられなかった。

皆さん街の描写ってどうしてるんでしょう。

気付けば長くなってしまいました。

日本語には俳句や短歌と言ったものがあります。

あの文字数でひとつの世界を表現するのは凄まじいことですね。

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