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5話 扉の向こう

扉が、ゆっくりと叩かれた。


コン、と。


たったそれだけの音だったのに、拠点の中にいた三人の身体を一瞬で強張らせるには十分だった。


ほんの少し前まで、部屋の中には別の空気が流れていた。新しく手に入れた布をどう使うか、どこに置くか。レンがくだらないことを言って、ヘイズが面倒くさそうに返し、アリスがそのやりとりを黙って見ている。そんな、まだ不安定ではあっても、人の生活に近い温度がそこにはあった。


その全部が、今の一音で消えた。


部屋が急に狭くなる。


油の匂いも、鉄の匂いも、湯気の残る薄い煮込みの匂いも、すべてが急に生々しく感じられた。空気が止まり、音がなくなる。いや、正確には音はある。外では相変わらず、街のどこかで大きな機械が脈打つような低い音が鳴っている。


――ゴウン、ゴウン。


遠く、深く、途切れることなく。


それなのに、今この部屋の中では、その音すら遠のいたように思えた。


アリスは、さっきまで抱えていた布を無意識に握り締めた。


指の先に力が入る。粗い布地の感触が掌に食い込み、小さな擦れる音が鳴りそうになる。


しまった、と思った瞬間、ヘイズの視線が一瞬だけこちらを向いた。


口では何も言わない。


けれど、その目がはっきり告げていた。


――動くな。


――音を立てるな。


アリスは息を止めるようにして、指の力だけを少しずつ抜いた。


また扉が叩かれる。


今度は二度。


コン、コン。


一度目よりも、少しだけ遠慮がなくなっている。相手が、中に誰かいると確信している叩き方だった。


レンが、わずかに体重をずらした。


その動きは小さく、気をつけて見なければわからない程度のものだったが、アリスの目にはやけに大きく映った。作業台の端。放り出された工具。椅子の脚。扉までの距離。レンの視線はそうしたものを一瞬で測っているようだった。


ヘイズは動かない。


扉の方を見たまま、ただ立っている。


その姿はいつもと同じようにも見えた。背中を丸めすぎず、かといって胸を張っているわけでもない。気だるそうな、いかにも何かに熱心ではなさそうな男の立ち方だ。


けれど、アリスにはわかった。


あれは“止まっている”のではない。


何かあればすぐに動けるように、必要な力だけを残して静かに構えているのだ。


外から声がした。


「……いるんだろ」


低い声だった。


抑えてはいるが、隠しきれない苛立ちのようなものが混じっている。年のいった男の声ではない。若くもないが、まだ疲れきってはいない声。巡回の人間――という言葉が、アリスの頭に浮かぶ。昨日見た揃いの上着。金属の留め具。腰の武器。疑いを向ける目。


「ヘイズ」


名前を呼ばれた瞬間、アリスの胸が小さく跳ねた。


この場所は知られている。


ヘイズという男も知られている。


それだけで、拠点という場所が急に“隠れ家”ではなく、街の中のひとつの点に変わってしまった気がした。


ヘイズが、ようやく歩き出す。


焦らない。


音を立てない。


ごく自然な歩幅で扉へ向かう。まるで、少し面倒な来客に応対するだけだと言わんばかりの足取りだった。


その途中で、ほんのわずかに首が傾く。


視線だけでレンを見る。


レンは何も言わず、かすかに顎を引いた。


アリスには、その合図の意味はわからない。けれど、二人の間ではすでに何かが共有されているのだろうということだけはわかった。


ヘイズが扉の前に立ち止まる。


扉は開けない。


鍵がかかっているかどうか、アリスには見えない。けれど、開けないということ自体がすでに返答なのだと、今は感じられた。


「……何の用だ」


ヘイズの声は平坦だった。


低く、機嫌も悪くなければ良くもない。相手を刺激しない代わりに、へつらいもしない声だ。


外の男は一拍置いて答えた。


「確認だ」


「何の」


「この区画で、不審な人間が出た」


その瞬間、部屋の中の空気がさらに一段、冷えた気がした。


アリスは目を伏せる。


自分のことだ、と考えるまでもなかった。


昨日、表通りに近い場所で立ち尽くしていたこと。巡回に呼び止められ、何も答えられなかったこと。レンに腕を引かれて走ったこと。あれがただの一瞬で終わるわけがない。


街は広い。


人も多い。


けれど、自分のような“どこにも属していない”存在は、それだけで浮くのだろう。


ヘイズは即座に返した。


「知らんな」


その速さに、外の男がわずかに黙るのがわかった。


「昨日、この近くで目撃されている」


「そうか」


「見ていないか」


「見ていないな」


会話が噛み合っていないようで、実は噛み合っている。


外の男は事実を積み上げようとしている。ヘイズは、そのどれにも引っかからない平坦さで返している。


アリスは、扉の向こうに立つその男の姿を頭の中で想像していた。揃いの上着に金属の留め具。顔立ちははっきり見えなくても、警戒と不機嫌を貼りつけたような表情だけは思い浮かぶ。


再び、外の男が口を開く。


「金髪の少女だ」


アリスの指がまた強張る。


「年は十代前半。見慣れない服装。所属票なし」


昨日のほんの短い遭遇のあいだに、そこまで見られていたのかと思うと、背筋に冷たいものが走る。


自分ではただ怖くて立ち尽くしていただけなのに、相手はちゃんと見ている。髪の色も、服も、年齢まで、おおよそだとしても掴んでいる。


ヘイズは少しも沈黙しなかった。


「この辺にはいくらでもいるだろう」


「いないから来てる」


今度の返事には、はっきり苛立ちがあった。


巡回の男にとっても、このやりとりは面倒なのだろう。だがその面倒を引き受けているのは、彼らの側に“規則”があるからだ。


規則。


昨日も聞いた言葉だった。


アリスにはまだ、その言葉の正確な重さはわからない。けれど、この街ではそれが個人の事情よりずっと強く働くのだろうということだけは、なんとなく感じられていた。


外で衣擦れの音がした。


男が体勢を変えたのか、扉のすぐ前まで近づいたのかもしれない。


「開けろ」


短く、はっきりとした命令だった。


レンの肩が、ほんのわずかに動く。


アリスはその変化を見た。


作業台の陰。そこには長い柄のついた工具が立てかけられている。重そうな金属の塊。小さな刃物のようなもの。レンがどれに手を伸ばそうとしているのか、まではわからない。


ヘイズが、扉の前に立ったまま、ほんの少しだけ首を横に振る。


それだけで、レンの動きが止まる。


二人のあいだに長年の癖のようなものがあるのだと、アリスは思った。言葉にしなくても通じる、危険に対する反応の形。


「必要か」


ヘイズが言う。


「中を確認する」


「理由は」


「規則だ」


またその言葉。


ヘイズはそこで、ほんのわずかに笑った。


笑ったと言っても、愉快さの欠片もない。皮肉が口元に浮いただけの、ごく薄い変化だった。


「規則、か」


その響きには、嫌っているものを口にするときの乾いた感じがあった。


「この区画は俺の管理だ」


外の男が黙る。


「この辺で揉め事があれば、俺が先に報告する」


「……それはお前の仕事じゃない」


「だが、いつもそうしてる」


一拍の間があく。


アリスには、その沈黙が妙に長く感じられた。


そのあいだも、街の底では低い音が鳴り続けている。どこかの管から蒸気が抜ける短い音もした。遠くでは、人の怒鳴り声のようなものが一瞬だけ上がり、すぐに聞こえなくなった。


この街では、きっと誰かが毎日こうして問いただされ、誰かが見逃され、誰かが連れていかれているのだろう。


自分だけではない。


でも、自分もその中に含まれている。


そのことが、かえって怖かった。


外の男が低く言う。


「最近、この区画は報告が遅い」


ヘイズの返事は淡々としていた。


「最近は面倒ごとが多い」


「他人事みたいに言うな」


「他人事だ。俺が起こしてるわけじゃない」


レンが小さく、聞こえるか聞こえないかのところで息を漏らした。笑いそうになって堪えたのかもしれない。今この場でそれをやるな、とアリスは思ったが、もちろん声には出せない。


「とにかく」


外の男が言う。


「確認が必要だ。昨日から話が上に回っている」


“上”。


その言い方に、アリスは小さく反応した。


この街には、巡回よりさらに上のどこかがある。監視し、命じ、報告を受ける場所。まだ輪郭は見えないが、ここで生きる人々の上に乗っている何かがあるのだろう。


ヘイズも、その言葉にはほんのわずかに間を置いた。


「……そうか」


「開けろ」


今度は、さっきよりも強い声。


その瞬間、アリスの喉が強く縮まった。


もし扉が開いたら。


もし自分が見つかったら。


どうなるのかは、まだ具体的にはわからない。どこへ連れていかれるのかも、何をされるのかも知らない。けれど、知らないままでも十分に怖かった。


戻ってこないかもしれない。


それだけで、身体は動けなくなる。


ヘイズは扉の前で、ほんの少しだけ体重を預けるようにした。


無意識を装っているのか、本当にそうしているのかはわからない。


ただ、その姿勢によって、扉を向こう側から開きにくくしているのだということだけは、アリスにも伝わった。


「断る」


短い言葉だった。


外の男の気配が、ぴたりと止まる。


レンも息を詰めた。


アリスは、自分の鼓動の音が聞こえた気がした。


「……何だと」


「今、手が離せん」


ヘイズの口調は変わらない。


「中は散らかってる。危ない部品も多い。お前らに踏み荒らされると後始末が面倒だ」


「規則に逆らう気か」


「そうは言ってない」


ヘイズは少しだけ肩をすくめるような響きで続ける。


「俺が確認して報告する、と言ってる」


また沈黙。


扉一枚を挟んで、見えない睨み合いが続いている。


アリスには、そのやりとりのすべてを理解することはできない。けれど、ヘイズが今、“ただ拒絶している”のではないことはわかった。相手の規則を正面から否定せず、その内側で自分の領分を押し返している。


この街で生きていくには、そういうやり方が必要なのかもしれない。


力だけではない。


怖がるだけでもない。


押すべきところと、引くべきところを知っていること。


ヘイズは、その感覚を身体で覚えている人間に見えた。


外の男が、ようやく低く息を吐いた。


「……わかった」


その一言に、部屋の中の空気がほんの少し緩む。


けれど、次の言葉がすぐに続いた。


「だが報告は上げる」


「好きにしろ」


「もし何か隠していたら、お前も無事じゃ済まんぞ」


ヘイズの返事はあまりにあっさりしていた。


「そのときはそのときだ」


その軽さが、逆に怖いくらいだった。


扉の向こうで、男が一歩退く気配がする。


衣擦れ。靴底が石を擦る音。金具の鳴る小さな音。


それでもアリスはまだ息を吐けなかった。


男たちはすぐには去らないかもしれない。少し離れたところで様子を窺っているかもしれない。そう思うと、どこまで緊張を解いていいのかわからない。


外の足音が、ひとつ、ふたつ、みっつと遠ざかる。


やがて、ほかの街の雑音の中に紛れて消えた。



誰も、すぐには動かなかった。


時間が止まってしまったみたいだった。


ヘイズだけが扉の前に立ち、手を下ろしたままじっとしている。レンは椅子と作業台のあいだで半端な姿勢のまま止まり、アリスは布を抱えたまま立ち尽くしている。


一番最初に動いたのは、レンだった。


「っはぁ……」


大きく、でも声を殺しきれない息がこぼれる。


そのまま椅子に座り込むように腰を下ろし、片手で顔を覆う。


「心臓止まるかと思った……」


ヘイズはようやく扉から離れた。


「止まってないだろ」


「そういう問題じゃねえよ」


「大げさだな」


「お前が平気すぎるんだって」


そのやりとりを聞きながら、アリスもようやく息を吸った。


肺に空気が流れ込む。


けれど一気に吸いすぎて、喉の奥が少し痛んだ。


自分がここまで呼吸を浅くしていたのだと、今さら気づく。


脚が少し震えている。


手のひらには汗がにじみ、握っていた布が少し湿っていた。


「……アリス」


レンが手を下ろしてこちらを見る。


「大丈夫か」


アリスはすぐには答えられなかった。


大丈夫、という言葉の意味が今はよくわからない。


捕まらなかったから大丈夫なのか。まだここにいられるから大丈夫なのか。そうだとしても、この先も同じように隠れ続けなくてはいけないのだとしたら、それを大丈夫と呼んでいいのか。


それでも、何も答えないのも違う気がして、小さく頷いた。


「……うん」


声はかすれていた。


ヘイズが作業台の方へ戻りながら言う。


「今のは牽制だ」


アリスは顔を上げる。


「けん、せい……」


「すぐに踏み込む気はないが、目はつけてる、ってことだ」


説明は短い。


けれど、その言葉だけで十分に意味は伝わった。


監視されている。


知られている。


この拠点は、完全に隠れた場所ではもうないのかもしれない。


レンが顔をしかめる。


「昨日のだけでそこまで来るか、普通」


「普通じゃないんだろ」


ヘイズは工具を手に取り、指先で重さを確かめるように弄んだ。


「それだけ目立ったってことだ」


最後の一言は、アリスへ向けられたものだった。


責める声ではない。


ただ、事実を並べた声音だ。


アリスは視線を落とした。


自分の金髪。青い目。森で着ていた服。戸惑って立ち尽くしていた姿。どれもこの街では異物なのだろう。


この街にはこの街の色がある。


煤けた色。鉄の色。蒸気に曇った光の色。


その中で、自分はどうしたって浮いてしまう。


「……見つかったら」


ぽつりと呟いたつもりが、思ったよりはっきり聞こえた。


レンが少しだけ目を逸らす。


ヘイズは答えた。


「面倒なことになる」


曖昧な言い方だった。


だが、その曖昧さがかえって不気味だった。


「どこに連れていかれるの」


アリスはさらに問う。


部屋の空気が少しだけ止まる。


レンが、今度は露骨に嫌そうな顔をした。


ヘイズはしばらく返事をしなかった。


それから、工具を置いて言う。


「知らん」


アリスは眉を寄せる。


「……知らないの」


「正確には、知ってるやつが少ない」


ヘイズは肩をすくめた。


「巡回に連れていかれたやつが、何もなかったみたいな顔で戻ってくることは、あまりない」


それで十分だった。


戻ってこない。


あるいは、戻ってきても元通りではない。


どちらにしても、良い場所ではない。


アリスは唇を閉じた。


森では、恐ろしいものはもっと目に見えやすかった。獣の気配。夜の闇。刃物を持った人間。危険は形を持って、音を立てて近づいてきた。


でもこの街の怖さは、もっと曖昧だ。


規則という名の何か。


上、という名の見えない場所。


そして、それに従って動く人間たち。


顔も見えないまま、いつのまにか自分の行き先が決められてしまうような怖さだった。


「……生きてるだけ、まだいい」


レンがぼそりと呟く。


その声には、励ましきれない現実を知っている者の重さがあった。


アリスはレンを見る。


昨日、初めて会ったときには軽くて、面倒くさそうで、でも勢いでこちらの腕を掴んで走り出すような少年に見えた。今もそういうところはある。けれど、こうして時々落ちる声には、この街で生きてきた重みが混じる。


「……レン」


「ん」


「前にも、こういうことあったの」


レンは少しだけ考えた。


それから答える。


「ある」


短い。


「何度も?」


「何度も、ってほどでもねえけど」


言いながら、彼はゴーグルの縁を指でいじる。


「ここらじゃ珍しくない。珍しくないけど、慣れるもんでもねえよ」


その言葉に、アリスは小さく頷いた。


慣れるものでもない。


たぶん、そうだろう。


今さっき味わったあの息苦しさに、何度も慣れなければならないのだとしたら、それだけで嫌になってしまいそうだった。


ヘイズは再びいつもの調子に戻したように言う。


「だから言っただろ。この街で生きるなら、見つからんようにする工夫が要る」


アリスは手元の布を見る。


今日、外へ出て少しだけ服を整えた。それだけで昨日よりは目立ちにくくなった。さっきの巡回が扉を開けなかったのはヘイズのおかげだが、もし次があれば、見つかりにくくする努力はもっと必要になる。


ここでは、自分のままでいるだけでは足りない。


生き延びるために、隠すことを覚えなければならない。


その事実が、静かに重かった。



しばらくして、ヘイズが鍋を引き寄せた。


中に残っていた煮込みを、もう一度火にかけ直すらしい。レンも椅子から立ち上がり、作業台の端に散らばった金具を無造作にまとめ始める。


それは日常へ戻る動きだった。


ついさっきまで扉の向こうに危険がいたのに、こうして人はまた手を動かし、腹を満たし、夜を迎える準備をする。


この街で暮らすというのは、そういうことなのかもしれない。危険が消えたから安心するのではなく、危険があるままでも次の時間へ進んでいくこと。


アリスはその様子を見つめながら、ゆっくりと椅子に座った。


座ったとたん、力が抜ける。


背中が重い。


瞼も少し熱い。


疲れていた。外へ出て、服を買い、巡回をやり過ごし、扉の向こうの気配に怯え続けていたのだから当然だ。


ヘイズが鍋の火を調整する。


脇に取り付けられた金属のつまみを回すと、細い管の先から一定の火が出る。揺れない、まっすぐな火。何度見ても、アリスには不思議だった。


森でおじいちゃんが指先から灯していた火とは、まるで違う。


あちらは小さくても生き物のようで、こちらは道具のように正確だ。


アリスはふと、胸の奥を探るような気持ちになる。


あの感覚が、まだあるのかどうか。


森で何度か起きた、水面の揺れ。胸の奥で何かが触れるような気配。転移の直前、感情に引きずられるようにあふれ出した、あの得体の知れない力。


今は、何も起きない。


部屋の空気は重く、鉄と油と蒸気に満ちている。


この場所では、自分の内側にある何かも、奥へ奥へ押し込まれてしまう気がした。


「……どうした」


ヘイズが、火の調整をしながら声をかける。


アリスは少しだけ迷ってから首を振った。


「……なんでもない」


「そうか」


それ以上は聞かれない。


その距離感が、今はありがたかった。


レンが鍋を覗き込みながら言う。


「でもさ」


「何だ」


「今日ので、しばらく外はきついんじゃねえの」


ヘイズが無言でつまみから手を離す。


火が少しだけ弱くなる。


「だろうな」


「じゃあどうすんだよ」


「どうするも何も、置いとくしかないだろ」


レンがアリスを見る。


「……しばらく、ここで大人しくしてろってこと」


言い方は雑だったが、意味は十分わかった。


アリスは小さく頷く。


「……うん」


「返事だけはいいな」


「お前が言うな」


ヘイズの返しに、レンが不満そうに口を尖らせる。


そのやりとりを聞きながら、アリスは少しだけ肩の力を抜いた。


完全に安心はできない。


けれど少なくとも、今ここにいることを許されている。


それはとても小さなことのはずなのに、今のアリスにはずいぶん大きな意味を持っていた。



夜が深くなるにつれて、外の音は少しずつ変わっていった。


人の足音は減る。


代わりに、遠くで鳴る機械の音や、時折響く蒸気の抜ける鋭い音の方が目立つようになる。拠点の中にも、壁や床を通じて小さな振動が伝わってきた。


ヘイズはいつも通りの顔で作業台に向かい、レンも隣で何かをいじっている。


アリスだけが、何度も無意識に扉へ目を向けてしまった。


また叩かれるんじゃないか。


今度はもっと強く。


今度は開けろではなく、開けるまで帰らないと言われるんじゃないか。


そんな想像が、頭の隅から離れない。


そのたびに、自分がまだこの場所の“中の人間”ではないことを思い知らされる。


レンがふと顔を上げた。


「アリス」


「……なに」


「そんな見ても扉は逃げねえぞ」


アリスは思わず視線を逸らす。


レンが少しだけ笑った。


馬鹿にするような笑いではない。緊張を解こうとしているのか、それともただ事実を言っているだけなのか、微妙なところだった。


「……見てない」


「見てた」


「見てない」


「見てたって」


ヘイズが面倒くさそうに口を挟む。


「お前ら、そこまで仲良く言い合えるなら大丈夫だな」


「誰が仲良いって」


レンがすぐに反応する。


アリスは、思わずほんの少しだけ口元を緩めた。


その小さな変化に、自分でも少し驚く。


こんな日でも、笑うようなことがあるのかと思った。


あるいは、それがあるからこそ、この街の重さに潰されずに済むのかもしれない。



その夜、寝台に横になってからも、アリスはなかなか眠れなかった。


低い機械音が床の下から響いてくる。


壁の向こうを蒸気が走るような音もする。


森の夜はもっと静かだった。風が葉を揺らし、遠くで鳥が鳴き、時には獣の気配がする。怖さはあっても、自然の輪郭の中にあった。


ここには自然がない。


あるのは、人が作った音と、人が決めた規則と、人が見張る視線だ。


おじいちゃんの言葉が、また浮かぶ。


――お前は、選べ。


何を選べばいいのかは、まだわからない。


でも、今日ひとつだけわかったことがある。


選ばないままでいても、この世界は勝手にこちらを選別する。


属しているか、いないか。


見つけるか、見逃すか。


残すか、連れていくか。


そういう線引きの中に、自分はもう立ってしまっている。


アリスは毛布を胸の近くまで引き上げる。


布の匂いの向こうに、まだ少しだけ鉄の匂いがした。


眠れないまま、天井を見る。


低い。


暗い。


でも、昨日とは違う。


昨日は、知らない場所だった。


今日は、怖くても、とりあえず一晩を越える場所になっている。


その違いだけを胸の中で確かめながら、アリスはゆっくりと目を閉じた。


外では、街がまだ動いている。


止まることなく。


まるで、自分の迷いなど気にもしないように。

よく扉を隔ててさえいれば守られている、そう思う事があります。

実際には窓もあれば、力づくで入ってくるかもしれないのに。

けどそれは規則やルールがあるからこそ、扉ひとつで良いのかもしれませんね。

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