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4話 ここで生きるために

目を覚ましたとき、アリスはしばらく、自分がどこにいるのかわからなかった。


天井が低い。


木ではなく、薄汚れた鉄骨と板で組まれたそれが、やけに近くにある。ところどころに煤がこびりつき、細い管が這っていた。森の家の天井とはまるで違う。寝返りを打てば、すぐに頭をぶつけてしまいそうなくらい圧迫感がある。


ぼんやりと目を瞬かせる。


耳には、低い唸りのような音が届いていた。


――ゴウン、ゴウン。


遠くから、絶え間なく。


昨日の夜も聞いた。街のどこかで巨大な何かが動いているような、規則的で重たい音だ。その音は眠っている間にも止まることなく続いていたらしく、目を覚ました今も、空気の底で鈍く響いている。


鼻に届くのは、油と煤の匂いだった。


それに混じって、何かを焼くような香ばしさがわずかにある。森で朝に感じていた、湿った土や草の匂いとはまるで違う。最初は息苦しいと思ったのに、今はその匂いが「ここ」にいることを嫌でも思い出させた。


アリスはゆっくりと身体を起こした。


昨夜、ヘイズに案内されて使わせてもらった簡易の寝台は、想像していたよりずっと硬かった。薄い毛布の下には詰め物の少ない敷布があるだけで、身体のあちこちが少し痛む。それでも、外の冷たい石の上で朝を迎えるよりはずっとましだということくらいはわかる。


小さく息を吐いて、足を床につける。


冷たい。


木ではなく、薄い金属板が貼られた床は、森の家の床のようなぬくもりがなかった。足の裏から冷えが伝わってくる。


少しだけ躊躇ってから、アリスは立ち上がった。


周囲を見渡す。


昨日は暗くてよく見えなかったが、この部屋は拠点の奥に作られた小さな空間らしかった。壁際には古い棚があり、上には布の束や使い込まれた箱が積まれている。寝台の他には小さな机と椅子があるだけで、必要最低限のものしかない。


扉の向こうから、かすかな物音がした。


金属が触れ合う音。何かを引きずる音。人の気配。


アリスは一瞬だけ身を強ばらせたが、すぐにそれが昨日の男たちではなく、レンやヘイズのいる方から聞こえてくるものだと気づいた。


それでも、胸の奥には小さな緊張が残る。


知らない場所で朝を迎えるというのは、それだけで落ち着かないものだった。


扉をそっと開ける。


外――といっても、まだ拠点の中だが、昨日よりも明るかった。高い位置にある小窓から鈍い朝の光が差し込み、埃と蒸気の薄い膜を浮かび上がらせている。


中央の作業台の上には、相変わらず工具や部品が乱雑に広がっていた。その向こうで、レンが何やら細い金具をいじっている。椅子に座って片膝を立て、手元だけをじっと見ていた。


「……あ」


小さく声が漏れる。


レンが顔を上げる。


「起きたのか」


ぶっきらぼうな言い方だったが、驚いた様子はなかった。最初から起きてくるだろうと思っていたみたいに、あっさりしている。


「……うん」


アリスがそう返すと、レンはそれ以上何も言わず、再び手元へ視線を落とした。


カチ、と小さな音がする。


アリスは少しだけ近づいて、その手元を見た。


細い金属の板。小さな歯車。針のように細い工具。それをレンは器用な指先で組み合わせている。森で見てきたものとはまるで違う。木や布や土ではなく、ここではこんな小さな金属片が誰かの生活の一部になっているらしい。


「……それ、なに」


思わず口にすると、レンが少しだけ目だけでこちらを見た。


「留め具」


「とめぐ……」


「服とか鞄とかにつけるやつ。壊れたから直してる」


言われてようやく、何となく形の意味がわかった。


アリスは小さく頷く。


その仕草を見て、レンはふっと鼻で笑った。


「ほんとに何も知らねえんだな」


責めるような言い方ではなかった。ただ呆れているだけ、という感じだった。


アリスは返す言葉がなくて黙る。


知らない。


何も知らない。


それは事実だった。


この世界のことも。昨日言われた“所属票”というもののことも。ここで人がどうやって生きているのかも。


ヘイズの姿は見えなかった。


そのことに気づいて、アリスは辺りを見回す。


レンが気づいたらしく、「親父なら奥」と短く言った。


「……親父?」


「親父っていうか、まあ……ヘイズだよ」


少しだけ言葉を濁してから、レンは肩をすくめる。


「血は繋がってねえ」


それだけ言うと、それ以上は説明する気がなさそうに口を閉じた。


アリスは何も聞かなかった。


聞いていいことと、まだ聞かない方がいいことの境目が、少しだけわかるようになってきた気がした。


そのとき、奥の方から鈍い足音が聞こえてきた。


ヘイズだった。


片手に古びた鍋を持ち、もう片方の手には金属製の器を二つ重ねている。髪は寝ぐせのままに近く、無精ひげは昨日と変わらず整っていなかった。いかにも起きたばかりという顔なのに、目だけは妙にはっきりしている。


アリスを見るなり、ヘイズは足を止めた。


「起きたか」


「……はい」


短く答える。


ヘイズはじっとアリスの顔を見て、それからふっと鼻を鳴らした。


「とりあえず顔色は死んでねえな」


それが挨拶代わりだった。


レンが横から口を挟む。


「死んでたら嫌だろ」


「面倒が増える」


「ひでえな」


ヘイズは器を作業台の端に置いた。


「ひでえのはお前の拾い癖だ」


「だから拾ってねえって」


「昨日聞いた」


いつものやり取りらしい。


棘があるのに、どこか慣れた空気がある。


アリスはそのやり取りを見ていて、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。昨日まで、自分の周りにあった会話はもっと短く、静かで、少なかった。おじいちゃんとの間では、それで足りていた。けれど今は、この軽いやり取りがあるおかげで、沈黙に押しつぶされずに済んでいる気がした。


ヘイズが鍋の蓋を開ける。


湯気が立ち上る。


中には、少し粘り気のある薄い茶色の煮込みのようなものが入っていた。香りは強くない。けれど、昨日からろくに何も口にしていないアリスの空腹には、それだけで十分すぎるほどだった。


ぐう、と小さな音が鳴る。


自分のお腹からだと気づいた瞬間、顔が熱くなった。


レンが吹き出しかける。


「……おい」


「笑ってねえよ」


「笑ってる」


ヘイズはあからさまに口元を歪めたレンを一瞥してから、器に煮込みをよそった。


「食え」


短い言葉とともに差し出される。


アリスは両手で受け取った。


器は熱く、指先にじんと伝わる温度が少しだけ心地よかった。


「……ありがとう」


「冷める前に食え」


ヘイズはそれだけ言って、自分の分もよそう。


アリスは椅子に座り、慎重に器を口元へ運んだ。


熱い。


少しだけ塩気が強い。何か細かく砕いた豆のようなものと、柔らかく煮えた根菜に似たものが入っている。決して豪華ではない。むしろ質素だ。けれど、空腹の身体には十分だった。


一口、また一口と飲み込むうちに、喉の奥にあった緊張が少しずつほどけていく。


「……そんなに腹減ってたのか」


レンが呆れたように言う。


アリスは器から目を離さず、小さく頷いた。


ヘイズが自分の器を持ちながら、ぼそりと呟く。


「まあ、昨日のあれじゃな」


その“あれ”の中に、どこまで含まれているのかはわからない。


逃走のことか。巡回のことか。それとも、もっと別の何かをヘイズは勘づいているのか。


アリスは考えかけて、やめた。


今はまだ、食べることに集中したかった。



食事が終わるころには、少しだけ頭も働くようになっていた。


器を置いて小さく息を吐くと、ヘイズが腕を組んでアリスを見る。


「さて」


その一言で、空気が少し変わる。


「飯食わせた。寝場所も貸した。ここまでは善意だ」


言い方は投げやりなのに、話の筋は妙にしっかりしていた。


「ここから先の話をしよう」


アリスは背筋を伸ばす。


レンは椅子の背にもたれたまま、黙ってそのやり取りを見ていた。


ヘイズは机の上の小さな金属片を指で弾く。


カン、と乾いた音が鳴った。


「まず、お前はこの街じゃ何も持ってない」


アリスは黙って聞く。


「金もない。身分もない。所属票もない。服も目立つ。言葉は通じてるが、知識は足りない」


ひとつずつ並べられるたびに、自分がどれほど“何もない”のかを突きつけられている気がした。


実際、その通りだった。


森では、おじいちゃんがいて、家があって、食べるものがあった。自分が何者かを、少なくとも自分たちだけは知っていた。


けれどここには、それがひとつもない。


ヘイズは続ける。


「つまり、そのまま表に出りゃすぐ目立つ。昨日みたいにな」


アリスは器の縁を見つめながら、小さく頷いた。


レンが口を挟む。


「目立つどころか、立ってるだけで怪しいもんな」


「お前はまずその言い方を覚えろ」


「本当のことだろ」


ヘイズはため息をつき、アリスに視線を戻す。


「で、最初に必要なのは服だ」


アリスが顔を上げる。


「……ふく」


「その格好じゃ、外歩くたびに見られる。見られるだけならまだいいが、巡回に何度も声かけられるのは面倒だ」


ヘイズの言葉はずっと現実的だった。


優しさで包まない。必要なことだけを言う。


けれど、それが今のアリスには逆にありがたかった。どうしたらいいかわからないときに、必要な順番を示してくれる人がいるのは、それだけで助けになる。


「あと、髪も少しどうにかした方がいいかもしれんな」


「髪……?」


思わず自分の髪に手をやる。


森にいたときからそのままの、少し長めの髪。整えた覚えはあまりない。


レンが横から言う。


「色が目立つんだよ。こっちはもっと煤けた感じのやつ多いし」


「煤けた感じってなんだよ」


ヘイズが呆れる。


「だいたい合ってるけどな」


アリスは少しだけ口を閉じたまま考えた。


服を変える。


髪をどうにかする。


それはつまり、自分の見た目をこの世界に合わせるということだ。


森での自分から、離れていくみたいで、少しだけ胸がざわつく。


その気配をヘイズが見抜いたのか、声を少しだけ落として言った。


「別に、お前そのものを変えろって言ってるわけじゃない」


アリスが顔を上げる。


ヘイズは肩をすくめた。


「外で無駄に捕まらないための話だ。生きるための工夫だよ」


“生きるため”。


その言葉は、静かに胸へ落ちた。


森で暮らしていたとき、生きることはもっと当たり前だった。水を汲んで、火を起こして、食べて、眠る。おじいちゃんがいたから、それで回っていた。


けれど今は違う。


ここでは、生きるためにまず“疑われないようにする”必要があるらしい。


その事実が、じわじわと重くのしかかる。



「それと」


ヘイズが続ける。


「所属票の話だ」


昨日、巡回の男に言われた言葉。


アリスは小さく身を強ばらせる。


ヘイズはその変化に気づいているようだったが、あえてやわらげることはしなかった。


「この辺じゃ、まともに働いてるやつ、店に属してるやつ、住む場所が決まってるやつ、そういうのはだいたい何かしら持ってる」


「持ってないと?」


と、レンが代わりに問う。


ヘイズは鼻を鳴らす。


「面倒を見るやつがいない、ってことだ」


その説明は短いが、十分だった。


所属票というのは、単に何かの札ではなく、“この街の中でどこに属しているか”を示すものなのだろう。


持っていないアリスは、どこにも属していない。


だから怪しまれる。


だから捕まりかけた。


「すぐには無理だ」


ヘイズが言う。


「そんなもん、昨日今日でどうにかなる話じゃない」


アリスは黙って聞く。


「だが、しばらくここにいるなら、表向きの理由くらいは作れる」


レンが少しだけ身を起こす。


「うちの手伝い、ってことにするのか」


「他にあるか」


「ないな」


あっさりした会話だった。


けれど、その内容はアリスにとって小さくない。


ここにいる理由。


ここで生きる理由。


それを、二人は自分の前で淡々と作っている。


「……いいの」


思わず漏れた声は小さかった。


ヘイズが視線を向ける。


「何がだ」


「……わたし、いて」


言い切る前に、少しだけ喉が詰まる。


ヘイズはしばらく無言だった。


それから、ひどく面倒そうな顔で頭を掻く。


「良くはない」


レンが吹き出す。


「ひでえ」


「だが、追い出して表でぶっ倒れられても寝覚めが悪い」


「それ優しいって言うんだぞ」


「言わねえよ」


相変わらずのやり取りだった。


でも、その言葉の中には確かに拒絶ではないものがあった。


アリスは小さく息を吐く。


「……ありがとう」


ヘイズは目を逸らす。


「礼はまだ早い。仕事くらい覚えてから言え」


「仕事……」


「ここで食って寝るなら、何もしないわけにはいかん」


それは当然のことのように言われた。


アリスは少しだけ驚いたが、嫌ではなかった。


ただ守られているだけではなく、ここにいる理由を自分でも持てる気がしたからかもしれない。


レンがにやりとする。


「とりあえず掃除からだな」


「お前がやれ」


「なんでだよ」


「お前の散らかした部品が床に多すぎる」


「それは必要な配置だ」


「ゴミの間違いだろ」


ヘイズの即答に、レンが不満そうに顔をしかめる。


そのやり取りを見て、アリスはほんの少しだけ、口元が緩むのを感じた。


笑う、というほどではない。


でも、胸の内側にあった固いものが、ほんの少しだけほどけた。



午前のあいだ、アリスは二人の様子を見ていた。


ヘイズは拠点の奥から古い服の束をいくつか引っ張り出し、作業台の上へ放る。どれも色あせ、ところどころほつれているが、今のアリスの格好よりはこの街に馴染みそうだった。


「適当に合わせろ」


投げやりな言い方。


アリスはその中から、比較的布地のしっかりした上着を手に取る。少し大きい。袖が余る。けれど昨日のままの服でいるよりはずっとよかった。


布の手触りも違う。


森で着ていたものより重く、油の匂いが少し染みついている。


「……似合わねえ」


レンが横から言う。


アリスは思わず睨むように見る。


レンが少しだけ目を丸くする。


「いや、そういう意味じゃなくて」


「どういう意味」


「お、しゃべった」


少しだけ面白がるような言い方だった。


アリスは言い返そうとして、何も出てこずに黙る。


ヘイズが鼻で笑う。


「その調子だ。無言で立ってるよりましだな」


アリスは小さく口を閉じた。


こうやって、少しずつ会話が増えていくのかもしれないと、ぼんやり思う。



昼前、ヘイズが外へ出る準備を始めた。


厚手の上着を羽織り、小さな革袋を腰につける。レンも工具の入った袋を肩へ引っかけた。


「どこ行くの」


アリスが問うと、ヘイズは振り向かずに答えた。


「布と食い物の補充だ。ついでに、お前の見てくれを少しマシにする」


「マシにって……」


レンが肩を揺らして笑う。


「ひどい言い方」


「事実だろ」


アリスは新しい上着の裾を少し握る。


外へ出る。


それだけで胸がざわつく。


昨日の巡回の男たちを思い出す。捕まりかけたあの瞬間の冷たさ。知らない言葉をぶつけられて、答えられなかったときの怖さ。


それでも、ここにいる以上、いつかは外へ出なくてはいけない。


ヘイズがそんなアリスの様子を見て、少しだけ声を落とした。


「今日は表通りまで出ない。近場だ」


アリスは小さく頷く。


「……うん」


「あと、昨日言ったこと覚えてるか」


「……下、向いとく」


レンが吹き出す。


「素直かよ」


「お前は黙ってろ」


ヘイズの一言で、レンは不満そうにしながらも口を閉じた。



拠点の扉を開けると、やはり街の匂いが押し寄せてきた。


油。煤。蒸気。


その中に、今日は昨日より少しだけ色んな匂いが混じっている。焼いた何かの匂い。湿った鉄の匂い。人の身体から立つ匂い。街が生きている匂いだった。


路地を歩く。


昨日より少しだけ視界が広い。


新しい上着を着ているせいか、自分が少しだけこの場所に紛れ込めている気もする。もちろん、完全ではない。それでも、昨日のようにむき出しではなかった。


ヘイズが前を歩き、レンがその隣をだらだらとついていく。アリスは少し後ろから、その背中を追った。


途中、壁の高い位置に取り付けられた白い光の箱が、昼でも微かに灯っているのが見えた。夜に見たときと同じ、揺れない光だ。


アリスは思わず目で追う。


ヘイズが気づいたらしく、ちらりと見上げた。


「珍しいか」


「……うん」


「夜はもっと多いぞ。あれがないとこの辺はまともに歩けん」


説明はそれだけだった。


けれど、その一言だけで十分にこの街の夜を想像できた。暗くて、狭くて、光がなければ足元もわからない場所なのだろう。


少し先では、細い管の先から短く火が噴いていた。揺れず、細く真っすぐな火。誰かが機械のつまみを回すと、その火が弱くなったり強くなったりする。


アリスは足を止めかけた。


火なのに、森で見てきた火と違う。


魔法でつける火とも違う。


レンが振り返る。


「なんだよ」


「……火」


「ああ?」


レンは少しだけ首を傾げ、それから「ああ」と理解したように頷いた。


「調理用だろ。珍しいもんじゃねえよ」


珍しい。


珍しくない。


その差が、この世界と自分の知っていた世界の距離そのもののように思えた。



小さな露店の並ぶ一角へ着いたのは、その少しあとだった。


表通りほど広くはないが、人はそれなりにいる。布を売る店、金属片を並べる店、細い瓶に入った油のようなものを売る店。どこも簡素で、けれど人の生活を支える何かが並んでいるのだとわかる。


ヘイズは迷いなく布を売る店へ向かった。


店番の女は、ヘイズを見るなり顔をしかめる。


「また値切りに来たのかい」


「人聞きの悪いこと言うな。適正価格の確認だ」


「値切りだろ」


「交渉だ」


レンが横でぼそりと「同じだろ」と言う。


女がアリスに気づいた。


「……その子は?」


一瞬で視線が値踏みするものに変わる。


ヘイズは何でもないことのように答えた。


「手伝い見習いだ」


アリスの胸が、わずかに強く鳴った。


嘘だ。


でも、今の自分にはその嘘が必要なのだと、もうわかっている。


女は少しだけ眉を上げたが、それ以上は何も言わなかった。


「へえ。珍しいのを拾ったね」


レンが口を開きかけ、ヘイズに軽く脇腹を小突かれて黙る。


布地を選ぶあいだ、アリスは黙って立っていた。


街の人たちの声が交差する。金属の鳴る音。遠くの蒸気。小さな笑い声。怒鳴り声。色んなものが混ざり合って、森では考えられないほど騒がしい。


なのに、不思議と昨日ほどは怖くなかった。


隣にレンがいて、その向こうにヘイズがいる。それだけで、少しだけ“ひとりじゃない”と思えたからかもしれない。



布を受け取り、露店を離れたあと、ヘイズが歩きながら言った。


「しばらくはそれで誤魔化せるだろう」


「誤魔化すって」


レンが呆れたように言う。


「言い方」


「事実だ」


アリスは腕に抱えた布の重みを感じながら、黙って歩く。


“誤魔化し”でも、“仮”でもいい。


今はまだ、それでも必要だった。


そのとき、通りの向こうで、揃いの色の上着が目に入った。


巡回だ。


昨日見たのと同じ種類の服。


アリスの身体が反射的に強ばる。


ヘイズはそれに気づいて、歩調を変えずに低く言う。


「目を合わせるな」


アリスはすぐに視線を落とした。


心臓がうるさい。


足音が近づく。


通り過ぎる。


ほんの数秒。


けれど、やけに長く感じられた。


何も言われないまま、男たちはそのまま行った。


アリスは少しだけ息を吐く。


レンが小声で言う。


「昨日よりはマシだろ」


「……うん」


本当に、少しだけ。


でも、その“少し”は大きかった。



拠点へ戻るころには、アリスはひどく疲れていた。


何か特別なことをしたわけではない。ただ外を歩いて、布を買って、巡回を見ただけだ。


けれど、それだけで身体のあちこちがこわばっていたのだとわかる。


扉の中へ入った途端、ヘイズがぼそりと呟く。


「今日はここまでだな」


レンが椅子へ倒れ込む。


「お前よりアリスの方が疲れてるだろ、たぶん」


「お前は口より手を動かせ」


「へいへい」


アリスは新しい布を胸の前で抱えたまま立っていた。


ここで生きるために必要なもの。


それが、少しだけ増えた。


まだ何も解決していない。


おじいちゃんのことも、自分のことも、この世界のことも。


けれど、昨日よりほんの少しだけ、「次」がある気がした。


そのときだった。


扉の外で、何かが止まる気配がした。


足音ではない。


金属が触れ合う、小さな音。


ヘイズの顔が変わる。


レンもすぐに立ち上がる。


拠点の空気が、一瞬で張りつめた。


アリスの手の中で、布がかすかに鳴る。


誰かが、いる。


外に。


ヘイズは音を立てずにアリスへ目配せした。


動くな、という意味が、その一瞬でわかった。


沈黙。


そして――


扉が、ゆっくりと叩かれた。

案外生きるために必要なものって言うのは本人には分からないものかもしれません。

あなたにのとっての必要なものは?

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