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7話 手の中の違和感

朝は、音よりも先に熱でわかった。


目を開ける前から、拠点の空気は夜のそれではなくなっていた。完全に冷え切った静かな場所ではない。床の下か、壁の向こうか、見えないどこかを熱の通る管が走っているのだろう。空気の底に、じんわりとしたぬるさが残っている。


冷たくないわけではない。


けれど森の朝のように、毛布から手を出した瞬間に肌が震えるような冷えではなかった。かわりに、鉄と油の匂いが重く鼻の奥に残っている。目を閉じたままでも、自分がもう木と土の世界にはいないのだとわかる匂いだった。


そして、そのぬるい空気の底で、街はもう動いている。


――ゴウン、ゴウン。


遠く、深いところから響く鈍い振動。


それはもはや耳で聞くというより、寝台の脚や床板を通して身体の奥へ触れてくるものに近かった。止まることなく、均一でもなく、けれど確かな重さで続いている。大きなものが、街のどこかで休みなく働き続けているような感触。


アリスは毛布の中で小さく目を瞬かせた。


ここへ来てから何度か朝を迎えた。まだほんの数回だというのに、この街の朝はいつも同じ顔ではないと気づき始めている。音の位置も、熱の残り方も、匂いの濃さも少しずつ違う。


それでも変わらないのは、起きる前から世界がもう動いているということだった。


ゆっくりと身体を起こす。


毛布が擦れ、寝台の端が小さく鳴る。足を下ろすと、床の金属板がひやりとした。ぬるい空気の中で、その冷たさだけが妙に際立って感じられる。


アリスはしばらく座ったまま、昨日買った小さな革のポーチを見た。


寝台の脇、机の隅に置いてある。小さい。けれど、そこにあるだけで少しだけこの街の人間に近づけた気がした。


森にいたころ、自分の持ち物といえばもっと単純だった。布袋ひとつ、木の椀ひとつ、そういう生活に近いものばかり。ここで人が持っているものは、もっと細かく、もっと用途が分かれていて、もっと“街で生きるため”に作られている。


そのことを思いながら、アリスはポーチに触れた。


革はまだ少し硬い。


でも昨日より、自分のものに近づいている気がした。



外の部屋へ出ると、すでに作業は始まっていた。


拠点の中は朝になると少し違う顔を見せる。夜には影の方が強かった棚や工具が、今は小窓から落ちる鈍い光に輪郭を与えられていた。光は決して澄んでいない。外の煙を通ってきたせいか、少し薄汚れていて、空気の中の細かな塵まで照らしている。それでも夜よりはずっと見やすい。


作業台の上には工具が広がっていた。


細い棒状のもの、先の曲がったもの、穴のあいた金属板、ネジの頭を掴むための器具、用途も名前もわからないものばかりだ。どれも使い込まれていて、柄の部分には手の脂と煤が染みついている。


ヘイズはその前に立っていた。


相変わらず、やる気があるのかないのかわからない顔だ。髪は適当に後ろへ流してあるだけで、無精ひげもきちんと整ってはいない。けれど、そういう見た目のだらしなさとは裏腹に、手元の動きには迷いがなかった。


細い管を火にかざす。


青い火は揺れない。細く、まっすぐに立っている。そこへ金属を当てると、色がじわりと変わり、ヘイズは頃合いを見て火から外し、器具でわずかに曲げる。その一連の流れに無駄がない。


レンは床にしゃがみ込み、工具箱をひっくり返していた。


「……ねえな」


ぶつぶつと言いながら、工具を次々と取り出しては戻す。


「何探してるの」


アリスが聞くと、レンは顔を上げずに答えた。


「細いやつ」


「細いやつじゃわからない」


「おれにはわかるからいいんだよ」


「わかってないから探してるんでしょ」


そう返すと、ようやくレンが顔を上げた。


一瞬、きょとんとする。


それから少しだけ笑った。


「……言うようになったな」


「最初から言ってる」


「いや、最初はもっとこう、黙ってただろ」


アリスは言い返しかけて、少しだけ考える。


確かに、ここへ来たばかりの頃よりは言葉が出るようになっているかもしれない。必要に迫られてというのもあるし、レンがいちいち何か言うせいでもある。


ヘイズが、火から金属を離しながら言った。


「起きてるなら座れ。今日は働け」


「いつも働いてる」


レンが口を尖らせる。


「お前じゃない」


「ひど」


ヘイズは気にも留めず、アリスへ顎をしゃくった。


「そこ」


アリスは作業台の横の低い椅子に座る。


そこにはすでに、金属部品がいくつも山になっていた。


昨日より多い。


細かいものも多い。


丸い輪のようなもの、小さな歯車、筒のようなもの、平たい板。ぱっと見た限りでは、ほとんどが似ているように見える。


「分けろ」


ヘイズが言う。


「同じものを同じところへ。違うと思ったら別にしろ」


それだけ。


「あとは?」


「それでいい」


「……いいの?」


「最初から全部わかるなら、お前が全部やれ」


レンが横から口を挟む。


「それはそう」


ヘイズが無言でレンを見る。


レンはすぐに肩をすくめた。


「やりますやります」


アリスは小さく息を吐き、部品に手を伸ばした。



手袋越しでも、金属の感触はわかる。


冷たい。


硬い。


でも、それだけじゃない。


表面の滑らかさ。縁の微妙なざらつき。指に乗せたときの重さの偏り。それが一つ一つ違う。


最初は、ただ目で見て同じようなものをまとめていく。


丸い輪を集める。小さな歯車を集める。細い筒を集める。


でも、やっているうちに気づく。


“同じようなもの”の中にも違いがある。


穴の位置がほんの少しずれているもの。


厚みがわずかに違うもの。


歯の間隔が微妙に粗いもの。


指でつまんだときの重さが違うもの。


見れば見るほど、“同じ”がなくなっていく。


「……これ」


アリスは二つの部品を並べる。


どちらも小さな輪だった。けれど、片方は少しだけ薄い。もう片方は穴の縁がごくわずかにいびつだ。


レンが覗き込む。


「どした」


「違う」


「どこが」


アリスはすぐには言葉にできなかった。


“なんとなく”では足りない気がして、ちゃんと探す。


指で縁をなぞる。穴のところを見比べる。少し傾けて光を当てる。


「……こっち、薄い」


「あー……」


レンが片方を指先で挟み、確かめる。


「ほんとだ」


ヘイズの手が一瞬止まる。


そのまま振り向きもせずに言う。


「そっちは別にしろ」


短い指示。


アリスは頷き、小さく脇へよける。


それだけなのに、少しだけ胸の奥が軽くなった。


役に立っている。


ほんの少しでも。


それがわかるだけで、手元の冷たい部品の山がさっきより怖くなくなる。



作業は単調だった。


でも、単純ではなかった。


同じことの繰り返しのようでいて、同じものは一つもない。手を動かすたびに、目を凝らすたびに、違いが見つかる。


「……これも違う」


「どれ」


「これと、これ」


「んー……あ、縁が欠けてる」


「こっちも重い」


「ほんとだな」


そんなやり取りが何度も続く。


レンは最初こそ面倒そうだったが、アリスが一度気づくたびに少しずつ本気で見るようになっていった。


「お前、変なとこ細かいな」


「変じゃない」


「いや、変だろ。こんなの普通そこまで見ない」


「見えるから」


「おれは見ようとしないと見えない」


「それはレンが雑なんじゃないの」


一瞬、沈黙。


それからレンが吹き出した。


「お前、たまにちゃんとひどいこと言うな」


「たまにじゃない」


「自覚あるのかよ」


作業の手は止めず、言葉だけが軽く飛び交う。


そのやり取りを聞いていたのか、ヘイズがぼそりと言った。


「雑なのは事実だ」


「ヘイズまで言う?」


「言う」


「最悪だ」


そう言いながらも、レンの口元は少しだけ緩んでいた。


工房の朝は、こうして進んでいくのかもしれないとアリスは思う。


大きな笑い声があるわけではない。


誰かが特別優しいわけでもない。


けれど、手を動かしながら言葉を交わして、それが空気を少し軽くする。そういう形の朝。


森の家でのおじいちゃんとの時間とは、まるで違う。


違うのに、少しずつ自分の身体に馴染み始めているのが不思議だった。



しばらくして、アリスは一つの癖に気づいた。


部品の違いは、見た目だけではない。


音も違う。


試しに、脇へよけた部品を二つ、指先で軽く弾く。


チン。


もう一つ。


コン。


ほんの少しだけ濁る。


「……」


アリスは顔を上げる。


もう一度試す。


チン。


コン。


確かに違う。


金属の音なのに、一方は高く、もう一方は少しだけ重く濁る。


「何してんだ」


レンが聞く。


「音」


「音?」


アリスは二つを差し出す。


「これ、違う」


レンは半信半疑の顔で受け取り、同じように爪先で弾いた。


チン。


コン。


「……あ」


ほんの少しだけ目を見開く。


「マジだ」


「でしょ」


自分でも少しだけ得意になっていたのかもしれない。言ったあとで、アリスは小さく息を引いた。


レンは部品を見比べ、次にヘイズを見る。


「これ」


ヘイズが受け取る。


指先で弾く。二度。


音の違いを確かめるように。


その横顔は平静だったが、目だけが一瞬だけ細くなった。


「……精度が落ちてるな」


小さな呟き。


それは誰かに聞かせるためではなく、自分で確かめるための言葉のようだった。


「精度?」


アリスが聞く。


ヘイズは短く答える。


「出来の良し悪しだ」


「……悪いの?」


「悪い」


それだけ言うと、また作業へ戻った。


あまりにもあっさりしている。


けれど、その反応の薄さが逆に引っかかった。


悪いのなら、もっと嫌そうにしてもよさそうなのに。


レンも少し口を閉ざしている。


さっきまでの軽い空気が、ほんの少しだけ変わった気がした。



そのあと、レンは別の作業を始めた。


壁際に立てかけてあった細長い道具――たぶん手押し式のポンプか何かの一部なのだろう――を持ってきて、机の上へ置く。側面の管が少し歪み、取っ手の根元に緩みがある。


「これ、昨日のやつ」


「壊れたの?」


「壊れたっていうか、動き悪くなった」


レンはそう言いながら、留め具を外す。


小さなネジが三つ、金属皿の上へ落ちて乾いた音を立てる。


アリスはそれをじっと見ていた。


「それ、何に使うの」


「水汲み用」


「水汲み……?」


レンが少しだけ手を止める。


「お前んとこ、どうやって水汲んでたんだよ」


アリスは少し考えてから言う。


「……桶で」


「桶で?」


「川とか、桶とか」


レンが目を丸くする。


「まんま人力かよ」


「……うん」


レンは信じられないという顔でヘイズを見る。


「すげえな」


「何が」


「何もかもがだいぶ違う」


ヘイズは淡々と返す。


「違うから驚いてるんだろ」


レンは口を尖らせながらも、ポンプの分解を続けた。


「こっちは下から圧で吸い上げて、上に送る仕組み。これが噛んでると重くなる」


言葉はわからない部分も多いが、レンが手を動かしながら説明してくれるので、アリスにも少しずつイメージができる。


部品を外す。


中から細い弁のようなものが出てくる。


レンはそれを指先で押した。


「これが引っかかってんだよな、たぶん」


「見てわかるの?」


「見て、触って、音で」


最後の一言に、アリスは少しだけ目を上げる。


「音で?」


「そ。変なときは変な音するし」


レンは言いながら部品を指で軽く弾いた。


高い音。


それから別の部分を押すと、少し鈍い音。


「ほら」


アリスはその動きを見ていた。


さっき自分が部品の違いを音で感じたことと、少しだけ似ている。


レンは雑に見えて、ちゃんと聞いているのだ。


たぶん本人はあまり言葉にしないだけで。


そのことを思っていると、レンがちらりとこちらを見た。


「何」


「……別に」


「なんだよ」


「……レンも、見てるんだなって」


一瞬だけ、レンの顔が止まる。


それから、少しだけ照れくさそうに鼻を鳴らした。


「当たり前だろ。見てねえと壊れる」


その返しが妙にレンらしくて、アリスは小さく息を吐いた。



しばらくして、工房の外から何かを引きずるような音が聞こえてきた。


ギギギ、と金属の擦れる重たい音。


人の声も混ざっている。


「そこ持て!」


「持ってる!」


「逆だ、逆!」


レンが顔を上げる。


「朝からうるせえな」


ヘイズは振り向きもしない。


「工房区だからな」


「それはそうだけど」


アリスは耳を澄ます。


その音の向こう側に、いつもの低い街の振動がある。けれど今日はその上に、何か別のものが重なっている気がした。


少しだけ、規則から外れた音。


何と言えばいいかわからない。


時計の針がほんの少しだけ狂ったまま動いているような、落ち着かない感じ。


アリスは手を止めた。


「……また」


レンが気づく。


「何だよ」


「音」


「また音か」


「……変」


レンはため息をつきかけたが、そのまま耳を澄ます。


外の音が続く。


ギギ、と擦れる音。


蒸気の抜ける短い音。


誰かが怒鳴る声。


そして、その全部の下にある低い唸りの中に、ほんのわずかな乱れ。


「……おれはわかんねえ」


レンが言う。


「でも、お前がそこまで言うなら、何かあんのかもな」


その言い方には、さっきまでより少しだけ本気が混じっていた。


ヘイズはようやく手を止めた。


扉の方へ顔を向ける。


何秒か、そのまま聞いている。


「……工房区の奥だな」


ぼそりと呟く。


「何が」


レンが聞く。


「圧が乱れてる」


それだけだった。


圧。


また知らない言葉。


けれどその一言で、アリスの中で音の違和感と街の仕組みが少しだけ繋がる。


この街は蒸気で動いている。


その蒸気には圧がある。


もしそれが乱れたら、音も、部品も、全部に少しずつズレが出るのかもしれない。


「……それって」


アリスが言いかけたときだった。


外から突然、大きな音がした。


ガンッ、と何か重いものが弾けるような音。


直後、甲高い蒸気の悲鳴のような音が響く。


シィィィィィィィッ――!


アリスは思わず耳を塞いだ。


細く鋭く、耳の奥へ刺さるような音。空気そのものが震えているみたいだった。拠点の壁に掛けられた小さな金具が、かすかに鳴る。


レンが立ち上がる。


「やべ」


「待て」


ヘイズが即座に止める。


「出るな」


「でも近い」


「だから出るな」


声に迷いがなかった。


レンは舌打ちしながらも、その場で止まる。


外ではまだ音が続いている。


蒸気。


人の叫び。


重たいものが倒れるような響き。


誰かが「弁!」と怒鳴った。


別の声が「閉まらねえ!」と返す。


それが何を意味しているのかはわからない。けれど、良くないことが起きているのだと、音だけで十分にわかった。


アリスは椅子の縁を掴む。


胸の奥がざわつく。


森で危険が来るときの感じと、少し似ている。


でも、もっと見えない。


獣の唸りや足音ではなく、仕組みそのものが悲鳴を上げているような怖さだった。


やがて、音は少しずつ遠ざかるように弱くなった。


完全に消えたわけではないが、さっきまでの切迫した鋭さは薄れていく。


拠点の中に、重たい沈黙が残った。


レンがゆっくりと息を吐く。


「……検査だな、これ」


「だろうな」


ヘイズの返事も低い。


「早すぎる」


「検査って」


アリスが問う。


今度はレンが答えた。


「おかしいとこ、止めたり見るやつ。工房区の奥で問題が出ると、すぐ来る」


「……さっきのも?」


「多分」


レンは扉を見ながら言う。


「誰かが止め損ねたか、部品が悪かったか、そのへんだろ」


その言葉に、アリスは机の上の部品を見る。


微妙に厚みの違う輪。


穴の位置のずれた部品。


音の濁る金属。


全部が急にただの部品ではなくなる。


「……関係、あるのかな」


ぽつりと漏らす。


レンが振り返る。


「何が」


「これと、今の」


レンは答えない。


答えられない、の方が近いのかもしれない。


ヘイズが静かに言う。


「あるとしても、今ここで口にする話じゃない」


それだけだった。


けれど、その言い方は“関係ない”とは言っていない。


アリスはそれを聞いて、ますます胸の中のざわつきが大きくなるのを感じた。



外はしばらく騒がしかった。


誰かが走る音。遠くから飛んでくる怒鳴り声。蒸気を抜くような短い音。搬送車らしい車輪の響きも混じっていた。普段から騒がしい街ではあるが、その騒がしさの質が違う。いつもの“動いている音”ではなく、“止めようとしている音”だった。


拠点の中でも、作業の手は少しだけ鈍った。


レンはポンプの部品を戻しながらも、何度か無意識に扉の方へ視線を向ける。ヘイズは黙ったまま、いつもより少しだけ早い手つきで工具を動かしていた。


アリスは作業台の上の部品に目を落とす。


同じように見えるものの中から、違うものを探す。


それが今はただの手伝いではなく、何かもっと嫌なものに繋がっている気がして、指先に少しだけ力が入る。


一つ持つ。


見比べる。


もう一つ。


「……これも」


レンが覗く。


「どれ」


「こっち、縁が歪んでる」


「……うわ、ほんとだ」


さらにもう一つ。


「これ、重い」


「中身詰まってんのか?」


ヘイズが受け取って確認する。


「……雑だな」


小さな一言。


それが、かえって重かった。


雑。


それだけのことなのに、この街ではそれが音の乱れになり、蒸気の噴き出しになり、人が怒鳴る事態になるのかもしれない。


アリスはふと、昨日見た軌道車を思い出した。


白い蒸気を吐きながら、何事もない顔で通り過ぎた鉄の箱。


ああいうものも、全部こうした小さな部品の積み重ねで動いているのだろうか。


もしそうなら、一つのズレが全部を狂わせることだってあるのかもしれない。


その考えに行き着いた瞬間、背筋に小さな寒気が走った。


この街は大きい。


広くて、複雑で、目を奪われるものが多い。


でも、その大きさは、無数の小さなものが正しく噛み合っているから成り立っているのだ。


もしどこかでそれが崩れ始めたら。


アリスは無意識に首元の布を握った。



昼近くになって、外の騒ぎはようやく薄れた。


かわりに、疲れたような人の声が通りを流れていく。


「だから前から言っただろ」


「検査が来る前に止めときゃよかったんだ」


「どうせ上はこっちのせいにする」


そんな言葉が、断片的に聞こえてくる。


レンが小さく舌打ちした。


「上、上って……ほんと嫌になる」


アリスが顔を上げる。


「上って、誰」


レンは口をつぐむ。


ヘイズが代わりに答える。


「決めるやつらだ」


曖昧だが、それで十分でもあった。


この街には“決めるやつら”がいる。


巡回がいて、検査があって、その上にさらに何かを決める場所がある。


まだ見えない。


けれど確実にある。


アリスは昨日見た塔を思い出す。


街の中心に立っていた、あまりにも高い構造物。


頂の近くで白い光を脈打たせていた、あの塔。


あそこに何があるのかはわからない。けれど、“上”という言葉を聞くたびに、あの塔の影が頭に浮かぶ。


レンが空気を変えるように言う。


「ほら、手止めんなよ。お前が一番見つけてるんだから」


アリスは少し驚いてレンを見る。


「……わたしが?」


「そうだよ。おれよりな」


「レンが雑なだけ」


「それひどくない?」


「事実だから」


今度はアリスの返しが先だった。


レンが一瞬遅れて笑う。


「最近ほんと容赦ねえな」


ヘイズがぼそりと付け足す。


「いい傾向だ」


「どこがだよ」


「お前が適当にしてるとこを誰かが拾うのは大事だ」


その言葉に、レンが不満そうな顔をしながらも反論しないのが少し可笑しかった。


アリスは再び部品へ視線を戻す。


さっきまでの重苦しさが完全に消えたわけではない。


でも、その中でも手は動かせる。


動かしていると、少しだけ落ち着く。


ここでの自分の役割が、まだほんの小さいものでも確かにあるのだと感じられるからかもしれない。



午後に近づくころ、ヘイズはようやく一息つくように工具を置いた。


「そこまでだ」


アリスは小さく肩の力を抜く。


思っていた以上に、目も指も疲れていた。細かいものを見続け、触り続ける作業は、森での薪拾いや水汲みとは違う疲れを身体に残す。


レンは伸びをした。


骨が軽く鳴る。


「目ぇ痛ぇ」


「普段使ってないからだ」


ヘイズの言葉に、レンが「使ってるって」と返す。


アリスは分け終えた部品の山を見る。


最初はただの金属の塊にしか見えなかったものが、今は少しだけ違って見える。


似ている。


でも違う。


ちゃんと見ると、ちゃんと分かれる。


そのことが、妙に胸に残った。


ヘイズがその山を一度見回し、小さく言った。


「……使えるな」


その一言だけだった。


大きく褒めるわけではない。


笑うわけでもない。


でも、軽くもない。


アリスはそれを聞いて、ゆっくり息を吐いた。


「……うん」


返事になっていない返事だったが、ヘイズはそれ以上何も言わなかった。


レンが横から覗き込む。


「うわ、ちょっと嬉しそう」


「うるさい」


「嬉しいんだ」


「うるさい」


二度目は少しだけ強く言う。


レンが肩を揺らして笑う。


その笑い方が、最初に出会ったときの軽薄さだけのものではなくなっているのがわかった。


自分もたぶん、最初よりは少しだけ、ここで言葉を返せるようになっている。


それが少し不思議で、少しだけ悪くなかった。



夜。


寝台に横になってからも、アリスの手の中には今日の感触が残っていた。


小さな部品の冷たさ。


わずかな厚みの違い。


弾いたときの音の差。


昼前に聞こえたあの鋭い蒸気の音。


全部が混ざって、胸の奥に引っかかっている。


目を閉じる。


暗闇の中に、昼間の工房の光景が浮かぶ。


机の上の部品。


レンの手元。


ヘイズの止まった横顔。


それから、昨日見た塔。


白く脈打つような光。


“上”。


“検査”。


“決めるやつら”。


まだ何一つはっきりしていないのに、全部がどこかで繋がっている気がする。


この街は大きい。


知らないものだらけだ。


きれいで、冷たくて、便利で、息苦しい。


そして、その全部を動かしているのは、見えないほど小さなものと、見上げるほど大きな何かの両方なのかもしれない。


アリスは毛布を少しだけ引き上げる。


耳の奥では、街の低い振動がまだ続いている。


――ゴウン、ゴウン。


昨日までなら、それはただ怖いだけの音だった。


今は少し違う。


怖い。


でも、それだけじゃない。


あの音のどこがズレているのか、いつか自分にももっとわかるようになるのだろうか、と、そんなことを思ってしまう。


知らないままでいたいのに、知りたいとも思う。


その気持ちは、森で暮らしていたころの自分にはなかったものだった。


おじいちゃんの言葉が、ふと浮かぶ。


――お前は、選べ。


まだ何を選ぶのかはわからない。


けれど、この街のことを少しずつ見て、聞いて、触れていくことも、たぶんその一部なのだろう。


アリスはゆっくりと目を閉じた。


眠りに落ちる直前まで、手の中にはあの小さな違和感が残っていた。


何もかもが正しく動いているように見えるこの街で、ほんの少しだけ噛み合っていないもの。


それが、少しずつ形になり始めている。


そんな予感だけが、暗闇の中で静かに息をしていた。

何かを学ぶ時、何かを知る時、そこには違和感があるかもしれません。

違和感があるからこそ、知りたいと人は思うのかもしれませんね。

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