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14話 切断点

小さな住処を離れたあと、二人はしばらく無言で歩いた。


見送られた、という感じではなかった。あの小さな生活圏にいた人たちは、別れを惜しむ余裕も、気安く手を振る親しさも持っていなかった。ただ、行くなら勝手に行け、戻るなら勝手に戻れ、でも帰ってくる場所が完全に消えているとは限らない――そういう種類の、乾いた受け入れ方をしてくれただけだ。


それでもアリスは、背中にいくつかの視線を感じていた。


老人の、どこか知ったような目。

あの女性の、心配するような目。

それから、子どもの、面白いものを見るみたいにまっすぐな目。


その全部が、通路を二つ三つ曲がったあとでも、なぜかまだ背中のあたりに残っていた。


「……静かだね」


ぽつりとアリスが言う。


レンはすぐには答えなかった。


前を見たまま、足場の端を避け、狭い通路の左へ寄る。それからようやく低く言った。


「後ろが静かって意味なら、そうだな」


「うん」


「前は静かじゃねえ」


アリスは少しだけ口を閉じる。


たしかに、その言い方の方が正しかった。


音がないわけじゃない。


むしろ多い。


水が滴る音。

管の中を何かが流れる低い唸り。

遠くで弁が開閉する乾いた音。

時々、壁の向こうを大きな圧が抜けていくような、腹の底に響く振動。


でも、それらが一つの“街の音”になっていない。


同じ場所から鳴っているはずなのに、同じ時間に属していないみたいな、不自然なばらつきがある。音と音のあいだに、目に見えない隙間が空いている感じがするのだ。


アリスはそれをうまく言葉にできなかった。


言葉にしようとすると、かえって感覚の輪郭が崩れてしまいそうだった。


代わりに、鞄の紐を握る。


中に入っている装置の重みは、歩くたびにわずかに位置を変える。そのたびに、自分の身体の中にある何かが反応してしまうのが分かった。痛いわけでも、熱いわけでもない。ただ、そこに“異物”があると、身体が忘れない。そういう感じだった。


「……ねえ」


「なんだ」


「さっきの人たち」


「うん」


「やっぱり、ああいうところにも人って残るんだね」


レンが少しだけ肩を揺らす。


「残るだろ」


「でも、供給も不安定で、切られそうで、それでも?」


「それでも、だろ」


答えは短かったが、その短さの中に現実が詰まっていた。


アリスは少し考えてから言う。


「上に行けない人もいるってことだよね」


「行けない奴もいるし、行かない奴もいる」


「行かない?」


「上に行ったって、席があるとは限らねえだろ」


その一言で、アリスは少しだけ寒くなった。


上には街がある。光がある。供給がある。きれいな通りも、ちゃんと動く設備もある。けれど、そこへ行けば誰でも救われるわけじゃない。そもそも受け入れられない人間がいるのだ。


いらない、と判断される人間が。


その感覚が、さっきコミュニティで見た暮らしと、あまりに自然につながってしまって、アリスはそれ以上軽く言葉を返せなかった。


「……嫌な街だね」


思わず出た言葉に、レンが少しだけ笑った。


「今さらかよ」


「今さらだよ」


「むしろよくここまで来て、まだ“嫌”で済んでるな」


「だって、すごい場所もいっぱいあるし」


「そういうとこが余計にタチ悪いんだよ」


レンの言い方はぶっきらぼうだったが、アリスには少しだけ分かった。


この街――ギアラクトは、全部が醜いわけではない。むしろ逆だ。光っている場所はちゃんときれいで、動いているものはちゃんと面白くて、人を驚かせる力がある。だからこそ、下に沈んでいるものの冷たさが余計に際立つのだ。


通路はさらに先へ続いていた。


さっきまで通っていた補助路は、まだ“人がたまに通る”前提の幅を残していたが、今進んでいる道はその名残すら薄かった。太い配管と壁のあいだに、斜めに体をねじ込まないと通れない箇所もある。古い保守用の足場が途中で折れ、その先に無理やり板を渡しているような場所もあった。


足元の水は増えたり減ったりしながらも、完全にはなくならない。ときどき、金属板の下から冷たい風が抜けてくる。その風に混じって、長く閉じていた場所特有の乾いた匂いがした。


「待て」


レンが急に手を上げる。


アリスはすぐ止まる。


前方の通路が、途中で二つに分かれていた。右へ行く道は少し高く、左へ行く道は下っている。どちらにも灯りはない。見た目だけでは違いが分からないが、レンはそこで地図を出した。


携帯灯の光を絞ったまま地図を広げる。


「ここがさっきの区画」


指先で一点を押さえる。


「で、今たぶんこの分岐」


アリスも覗き込む。


青い線は大きく迂回しながら西へ回り、その先でまた中央寄りへ戻るようになっていた。赤い線はそこを無視して、短く鋭く、真っ直ぐ奥へ伸びている。


「赤、ほんとに中央へ近いんだね」


「だから早い」


レンは地図を指でなぞる。


「でも、中央寄りに近いってことは、上の見回りにも管理装置にも引っかかりやすい。

何かを切るにも集めるにも、向こうにとっては都合がいい」


「……まとめて処理しやすい」


アリスが言うと、レンは小さく頷いた。


それから、少しだけ言葉を足した。


「ただ、勘違いすんなよ」


「え?」


「今から行くのは赤じゃねえ」


レンの指が青線を叩く。


「こっちだ」


「うん」


「でも、青だから安全って意味じゃない」


アリスは地図を見たまま首を傾げる。


「どういうこと」


「赤は線じゃねえんだよ」


レンは低く言った。


「中心があって、その周りにも傷が広がる。ここから先は、赤の“外縁”をかすめる」


アリスはそこでようやく理解する。


赤線という一本の危険な道があるわけじゃない。中心に危険が濃く集まっていて、その周辺まで影響が滲んでいる。その真ん中に入らないための青線なのだ。


「じゃあ、ヘイズが近づくなって言ったのは」


「中に入るな、ってことだろ」


レンは短く答えた。


「でも外側でも、無傷じゃ済まねえ」


その時だった。


鞄の中で、装置がほんのわずかに震えた。


アリスは息を止める。


今までで一番小さい反応だったかもしれない。けれど、自分の身体はそれをもう見逃せないようになっていた。


「……今、反応した」


レンが顔を上げる。


「どっちだ」


「まだわかんない」


アリスはゆっくりと鞄の上から触れる。


金属の冷たさが布越しにも伝わる。そのまま少しだけ向きを変えてみると、右よりも、下っている左の方で、振動がほんの少しだけ強くなる気がした。


「……たぶん、左」


レンは地図を見たまま言う。


「青もそっちだ。行くぞ」


二人は下りの通路へ入った。


床はさっきより傾きがきつい。古い鉄板が段差のように継ぎ足されていて、ところどころで水が溜まり、灯りを受けて鈍く光っている。壁際を流れる細い管はすでに半分ほど腐食していて、その一部は補修材で雑に巻かれていた。


「ここ、踏み抜きそう」


アリスが小声で言う。


「お前なら大丈夫だろ」


「どういう意味?」


「そういう意味で言った」


「じゃあ今のは安心していいの? 不安になればいいの?」


「不安になっとけ」


「あ、ひどい」


軽く言い返しながらも、アリスの足は慎重になる。


レンはこういう時、冗談を言っているのか本気なのか分かりにくい。でも、本当に危ない時はもっと短く、もっと低い声になることを、この数日のあいだにアリスは覚えはじめていた。


しばらく進むと、空気がまた変わった。


今度は温度ではなく、重さだ。


同じように湿っているのに、肌にまとわりつく感じが急に薄くなる。かわりに、空気と空気のあいだへ細い隙間が入り込んだみたいな、不自然な軽さが混ざる。


アリスは無意識に足を止めかけた。


「……ここ」


「分かるか」


レンの声が少しだけ低くなる。


「うん」


アリスは答える。


「なんか、変」


それは曖昧すぎる言い方だったが、今の自分にはそれしかない。


見た目には何も変わっていない。通路は狭く、暗く、配管だらけで、湿っている。けれど、空気の厚みが違う。音の返り方もおかしい。自分の呼吸だけが妙に近く聞こえて、そのくせレンの足音は少し遠く感じる。


「……レン」


「ん」


「前より、ここ変」


「どのくらい」


「……説明できるほどじゃない」


レンがほんの少しだけ振り返る。


「それで十分だ」


短くそう言って、再び前を向く。


それだけで、アリスは少しだけ落ち着いた。分からないことを、無理に分かったふりをしなくていい。今は、それが大きかった。


通路を抜けると、そこは開けた区画だった。


広い。


けれど、“広場”ではない。


もともとは作業区画か、集積場か、そのどちらかだったのだろう。天井は高く、何本もの太い管がそこを横切っている。壁際には大型の搬送機の残骸が並び、中央には箱やコンテナがいくつも積まれたままになっていた。だが、そのすべてが、途中で止まっている。


灯りはない。


水も流れていない。


音がない。


正確には、街全体の奥底で鳴っているような低い唸りはまだ聞こえる。だが、この区画そのものは、死んでいた。


「……うわ」


アリスは思わず息を呑む。


今まで見てきた“使われていない場所”とは違った。


ただ古びたのでも、捨てられたのでもない。


ここは、止められている。


その感じが、目に見えるもの全部から滲み出ていた。


壁際には、椅子が一脚だけ倒れたままになっている。机の上には紙が散らばり、その一枚は床へ落ちていた。箱の上には、布がかかったままの工具。水差しのような容器は、途中まで使われていたらしく、乾いた輪染みを机へ残している。搬送機のアームは何かを持ち上げかけた角度のまま止まり、その先に掴み損ねた箱が床へ落ちた状態で転がっていた。


まるで時間そのものが、ここだけで一度切られたみたいだった。


「……ここ、逃げた感じじゃない」


アリスが言う。


「うん」


レンも静かに頷く。


「逃げる時間があったなら、もうちょい片づくだろ」


アリスは目を凝らす。


床には細かなガラス片が散っている。だが踏み荒らされた形跡はない。扉も、ほとんどが中途半端に開いたままだ。あわてて飛び出した跡というより、動いていたものがそのまま動けなくなった時の静止に近い。


「……ヘイズが赤線に近づくなって言ったの、これかな」


アリスがぽつりと言う。


レンは周囲を見ながら答える。


「これ“だけ”じゃねえんだろうな」


その返しに、アリスは少しだけ背筋が冷える。


これだけでも十分怖い。

けれど、ヘイズがわざわざ“近づくな”と言う以上、もっと深い理由があるはずだ。


その時だった。


鞄の中で、装置がはっきりと震えた。


今度は、気のせいでは済まない。


アリスはすぐに取り出す。


手のひらへ乗せた瞬間、中心の結晶が内側から淡い光を含みはじめる。環の一つがかすかに震え、向きを持っているように微妙に偏る。


「……反応してる」


レンが声を落とす。


「行ってみるか」


アリスは装置をゆっくりと動かす。


左。弱い。

右。変わらない。

正面――そこで、振動が少しだけ強くなった。


「前」


「真ん中か」


レンは区画の中央を見渡す。


そこには、一見するとただ積まれたコンテナと、止まった搬送機しかない。


けれどアリスの身体は、別のものを感じていた。


音が、二重になっている。


この区画に入ってから、遠く聞こえていた街の唸りとは別に、もっと近くて、もっと薄い音が混じりはじめていた。誰かの足音に似ている。でも、人が今ここを歩いている音ではない。もっと古くて、もっと弱い。


「……待って」


アリスが言う。


「今、聞こえる」


「何が」


「足音」


レンの目が鋭くなる。


「どこだ」


「わかんない……でも、いる、っていうか……」


言葉が追いつかない。


レンはすぐに灯りを絞った。


区画の暗さが一段深くなる。


「姿は」


「見えない」


「なら音だけか」


「でも――」


アリスが言いかけた、その瞬間だった。


視界が揺れた。


ほんの一瞬、明かりの色が変わる。


暗いはずの区画に、別の光が差し込んだ。


アリスは思わず息を止める。


そこには、人がいた。


さっきまでいなかった場所に、作業着の男たちが立っている。女が机の紙を押さえ、誰かが箱を運んでいる。搬送機のアームは止まっておらず、ぎりぎりと音を立てて動いていた。天井の灯りは弱いが、確かに点いている。今より少しだけ、空気に熱がある。


「こっちのライン落ちてる!」


誰かが叫ぶ。


「まだ持つ、待て!」


別の声。


子どもの泣き声。


遠くで誰かが何かを叩いている。


アリスはその中に立っていた。


見ているのに、触れられない。

聞いているのに、混ざれない。


これは今ではない、と直感で分かる。


過去だ。


この区画がまだ“死ぬ前”の、途中の時間だ。


次の瞬間、景色は消えた。


暗闇へ戻る。


止まった機械。散らばる紙。無音に近い静けさ。


アリスは思わず一歩よろめく。


レンが肩を掴んだ。


「見たのか」


「……うん」


息が浅い。


胸が速く上下する。


「動いてた……ここ」


「どんなふうに」


アリスは目を閉じて、今見たものを思い出そうとする。


光。

声。

慌ただしい動き。

それから、不安。


「なんか……急いでた」


「急いでた?」


「うん。みんな、何か止まる前みたいな感じで」


レンはしばらく黙った。


それから低く言う。


「悪かったな、ヘイズが言ってた“近づくな”っての、そういうことかもな」


「どういうこと」


「今のが本当なら、長くいると飲まれる」


アリスは目を開ける。


その言葉には、妙な説得力があった。


過去の残りカス。

止まる前の気配。

それがただ見えるだけならまだいい。けれど、もしそれがもっと強くなったら、自分は今と過去の区別をちゃんとつけていられるだろうか。


そう思った瞬間、背中に冷たいものが走った。


装置が、さらに強く震えはじめる。


アリスは顔を上げる。


「……もっと先だ」


「行くのか」


「うん」


今度は、迷わず言えた。


レンは一瞬だけ区画の周囲を見回し、それから頷いた。


「行くぞ」


二人は中央へ向かって歩き出す。


床にはところどころ、目に見えない段差のような違和感があった。見た目には平らなのに、足を下ろすとほんの少しだけ沈む気がする。次の一歩では何もない。そんな妙な場所が、区画の中へまだらに散っている。


「……ここ、変」


アリスが小さく言う。


「さっきからそればっかだな」


「だって変なんだもん」


「語彙が死んでる」


「レンに言われたくない」


そう言い返した直後、また視界が揺れた。


今度はほんの一部だけだ。


倒れた椅子の向こうに、一瞬だけ人影が見えた。女だ。何かを抱えて走っている。顔までは見えない。けれど必死なのが分かる。次の瞬間にはもういない。


アリスは足を止める。


「また」


「何だ」


「今、いた」


「誰が」


「女の人。何か持ってた」


レンはその先を見るが、そこには止まった椅子と散らばった紙しかない。


「……見えるって、そういう見え方か」


「うん」


アリスは唇を湿らせる。


「いきなり来る」


「便利かと思ったけど、全然そうでもねえな」


「便利って思ってたの?」


「ちょっとは」


「ひどい」


「事実だろ」


そのやりとりのあいだにも、装置の光は消えなかった。


むしろ、少しずつ濃くなっていく。


区画の中央近くまで来たところで、二人はようやく“それ”を見つけた。


壁に埋め込まれた大きな金属の装置だった。


一見すると、供給の切り替え弁に見える。だが近づくと違いが分かる。配管へ繋がる線が多すぎる。余計な管があり、余計な弁があり、中心部には複雑な刻印のような目盛りまである。しかも、その一部だけが今も動いていた。


ゆっくりと。


正確に。


この区画のほかのすべてが止まっているのに、そこだけがごく小さな音を立てて生きている。


「……なんだこれ」


レンが低く言う。


「普通の弁じゃねえな」


アリスは装置を持ったまま、壁の機械へ近づく。


すると、手の中の観測器の震えが一気に強くなった。


結晶の光が濁りを深くし、外側の環が細かく鳴るように震える。


アリスは息を呑んだ。


「当たりだ」


レンが言う。


「ここだな」


壁の装置には、見覚えのない印が刻まれていた。監察局の記章に似ているが、少し違う。もっと簡略化され、機能だけを示すような印だ。下には数字と記号が並び、その横へ手書きで何かを書き足した跡がある。


アリスが灯りを寄せる。


「……読める?」


「少し」


レンが顔を寄せる。


「供給分岐……遮断……再編優先……」


そこで顔をしかめる。


「最悪だな」


「何て?」


「“供給分岐再編優先、下層旧居住区の維持は後回し”」


アリスは言葉を失う。


後回し。


つまり、この区画は最初から守る順番が低かったのだ。


「……切られたの?」


「切られた、っていうか」


レンは装置の横を指でなぞる。


そこには、人の手で無理やり弁をこじ開けたような傷が残っていた。


「誰かが戻そうとしたんだろ。でも途中で無理だった」


アリスはその傷を見る。


新しくはない。けれど一度や二度の試みではないことは分かった。何回も触れ、何回も諦めた傷だ。


その時、視界がまた大きく揺れた。


今度は、はっきりと。


壁の装置が生きた動きを取り戻す。


暗い区画へ灯りが戻る。


何人もの人が、ここへ集まっている。


「戻せる、まだ戻せる!」


誰かが叫ぶ。


装置の前には、男が一人膝をついていた。汗だくで、何かの器具を弁へ差し込んでいる。女がその横で灯りを支え、別の誰かが後ろから管を押さえている。


「早くしろ、赤が落ちる!」


「分かってる!」


「子どもを下げろ!」


その混乱の中、アリスの視線は一人の少女へ引かれた。


年は、自分より少し上か、同じくらいか。痩せている。頬に煤がついている。けれどその目だけが妙にはっきりしていた。少女は壁の装置ではなく、その向こう――もっと見えない何かを見ているような顔をしていた。


そして、その少女が振り返る。


アリスは息を止めた。


似ている。


誰に、と言われればすぐに答えられない。自分に、というのとも少し違う。けれど、その目の使い方が似ている。見なくていいものまで拾ってしまうような、あの老人に言われた“そういう目”だ。


少女の口が動く。


音は、かすれてよく聞こえない。


けれど、次の瞬間にはっきりした。


「そこじゃない」


少女が言う。


壁の装置の向こうを指す。


「ずれてるのは、そこじゃない」


そして、その直後。


光が落ちた。


一気に。


音が消えた。


人が叫ぶ。


誰かが倒れる。


壁の装置が、異様な高い音を立てる。


少女が一歩前へ出る。


「だめ!」


その声と同時に、アリスは現実へ引き戻された。


「……っ!」


膝が揺れる。


レンがとっさに腕を掴む。


「大丈夫か!」


「……いま、いた」


呼吸が苦しい。


「子ども…女の子……」


レンが顔をしかめる。


「何見た」


アリスは壁の装置を見つめたまま答える。


「ここを止めた時……誰か、分かってた」


「何を」


「ずれてる場所」


自分でも言いながら混乱していた。


でも、間違いなくあの少女は見えていた。壁の装置だけじゃない。そのもっと先にある、何か別の狂いを。


そして、その声は届かなかった。


レンが低く言う。


「……犠牲者、出たんだな」


その一言で、アリスの背筋が粟立つ。


今の一瞬の混乱。落ちる光。倒れる人影。あれは事故じゃない。ここは、ただ止まった場所ではなく、止められたことで人が死んだ場所なのだ。


「ヘイズが近づくなって言ったの、これもあるんだろうな」


レンの声が硬い。


「見えたもんを信じすぎるなって意味と、ここ自体が危ねえって意味と、両方だ」


アリスは壁の装置を見る。


ここはただの停止区画ではない。切断点だ。街の流れを切り、切られた側を捨てるための境界だ。しかも、その境界の近くでは時間の残りカスみたいなものが溜まり、触れる者へ過去を見せる。


「……これ、壊せないかな」


アリスが言う。


レンがすぐに答える。


「壊したらどうなるか分からん」


「でも」


「分からんから、今はやらねえ」


その判断は冷たく聞こえるかもしれない。けれど、アリスにはそれが正しいと分かった。今ここで壊して、別の区画まで一気に供給が乱れたら、さっきのコミュニティにまで影響が及ぶかもしれない。


上はそういうことを平気でやる。


だからこそ、自分たちはむしろ、やみくもにはできない。


レンが壁の装置の脇にある小さな盤を調べる。


「……番号、あるな」


灯りを寄せる。


数字と記号。それから、一部消えかけた文字列。


「何?」


「管理側の識別だろ。区画番号と、分岐の種別」


レンは短く読み取り、記録帳の余白へ書き写す。


「持って帰る」


「帰る?」


「戻れるならな」


レンの言い方に、アリスは少しだけ笑いそうになった。


「そこで弱気になるんだ」


「現実的って言え」


「同じかな」


「違う」


短い会話が、極端に張りつめた空気へほんの少しだけ隙間を作る。


けれど、その隙間は長く持たなかった。


区画の奥で、何かが崩れるような音がしたからだ。


――ガラッ。


二人が同時に振り返る。


今度は、過去の残像ではない。現在の音だ。


レンが灯りをすぐ絞る。


「下がれ」


アリスは壁際へ寄る。


息を殺す。


暗闇の中、区画の奥の方で何かがゆっくり動いた気がした。視界ではなく、音でそう思う。重いものが引きずられるような、低い擦過音。


「……誰かいる?」


アリスが小さく聞く。


レンは答えない。


代わりに、足場の影へ身を低くしたまま移動する。


アリスも続く。


そこから見ると、区画の奥に倒れていたコンテナの一つが、少しだけ位置を変えているように見えた。


「……人?」


アリスが言う。


「わからん」


レンは視線を外さない。


その時、また装置が震えた。


今度は、壁の機械に向かってではない。区画の奥、動いた気配の方へ向かって。


アリスは喉の奥が冷えるのを感じる。


残像だけじゃない。何か、今ここに“ある”。


「レン」


「見えてる」


「これ、さっきと違う」


「分かってる」


区画の奥から、かすかな光が見えた。


一瞬だけ。低い位置で。


すぐに消える。


まるで、誰かが手元の灯りを隠したみたいだった。


レンが小さく舌打ちする。


「……やっぱ人か」


「上の人?」


「こんなとこで分かるか」


けれど、その可能性は高い。上がここを管理しているなら、見回りがあってもおかしくない。あるいは、この装置の記録を取りに来る者がいるのかもしれない。


アリスの心臓が強く鳴る。


今見つかれば、逃げ道は狭い。しかもここは、足元も悪いし、過去の残像がいつ入り込むかも分からない。


レンが耳元で言う。


「奥へ行く」


「え」


「ここにいたら挟まれる」


たしかに、その通りだった。


来る相手が一人でも二人でも、今いる位置は壁の機械の近すぎる。見つかれば逃げにくい。


二人は身を低くしたまま、区画の反対側へ回り込むように移動した。


倒れた搬送機の影。

箱の積み上がった隙間。

止まったレールの横。


ほんの数歩の移動なのに、音を立てないようにするだけでやけに長く感じる。


アリスの頬を、冷たい金属の縁がかすめる。


足元のガラス片を踏みそうになり、慌てて身体をひねる。


その瞬間、視界の端でまた残像が走った。


誰かがここを駆け抜ける。

箱が倒れる。

叫び声。


アリスは歯を食いしばってそれを振り払う。


今はだめだ。今見てはいけない。


レンが低く言う。


「集中しろ」


「……してる」


「顔に出てる」


「どういう意味」


「今すげえ嫌そうな顔してる」


「そりゃ嫌だよ」


レンがそれに一瞬だけ笑う。


「だろうな」


その軽口がかろうじてアリスを現在へつなぎ止める。


二人は区画の端まで辿り着いた。


そこに、小さな点検路へ続く隙間がある。人ひとりがやっと通れる幅。錆びた鉄板で囲まれていて、普通なら見逃しそうな通路だった。


「ここ」


レンが言う。


「西へ抜ける」


アリスは頷く。


その時、区画の奥で明確に人の声がした。


低い。短い。何を言ったのかまでは聞き取れない。


けれど、人だ。


過去ではない。今、ここにいる。


レンもアリスも、同時に顔を見合わせる。


「……いたな」


「うん」


「行くぞ」


二人は点検路へ滑り込んだ。


通路は狭く、すぐに曲がる。壁が近すぎて、肩が何度も擦れた。けれど、その狭さが今は救いだった。背後の区画から漏れる音が一気に遠くなる。誰かが追ってきたとしても、すぐには見つけにくい。


しばらく進んだところで、レンがようやく歩みを止めた。


二人とも、しばらく何も言わない。


呼吸だけが荒い。


暗い。狭い。湿っている。なのにさっきの広い停止区画よりは、ここにいる方がずっとマシだった。


「……今の、上かな」


アリスがようやく言う。


レンは壁に背を預けたまま答える。


「たぶん」


「やっぱり見に来てるんだ」


「管理してる場所ならな」


アリスは装置を鞄へ押し込み直す。


手が少し震えていた。


「……あそこ、人が死んだんだね」


レンは数秒黙った。


それから、低く言う。


「たぶんな」


その“たぶん”は、ほとんど確信だった。


「しかも、ただ止まったんじゃなくて……止められて」


「うん」


「それを、上は知ってる」


「知っててもおかしくねえ」


アリスは目を閉じる。


さっき見た少女の顔が頭に浮かぶ。

“そこじゃない”と言った声。

届かなかった言葉。

光が落ちる瞬間。


もしあれが本当に、この区画で起きたことの残りなら。

もしあの少女が、ここにいた誰かなら。


この街の“再編”には、人の死が最初から含まれていたことになる。


アリスはゆっくり息を吐いた。


「……行かなきゃ」


レンが顔を上げる。


「まだ行く気あんのかって顔してる?」


「ちょっとだけ」


「ひどいな」


「普通、あれ見たあと少しは引く」


アリスは少しだけ考える。


そして、正直に言った。


「引いてるよ」


「じゃあ」


「でも、引いて終わりにするの、もっと嫌」


レンはしばらく黙ったあと、小さく笑った。


「……そういうとこだよな」


「何が」


「お前が変なとこ」


「それ褒めてる?」


「半分はな」


「半分は?」


「半分は知らん」


アリスは少しだけ笑った。


その笑いは長く続かなかったが、それでも呼吸を整えるには十分だった。


レンが地図を広げる。


「このまま西へ抜ける。さっきの区画の外縁を回る」


「上の人とぶつからない?」


「運が悪けりゃな」


「運の話なの?」


「最後はだいたいそうだろ」


アリスは呆れたように息を吐く。


「それ言われると急に雑になるね」


「おれは最初から雑だ」


「それは知ってる」


レンがまた小さく笑う。


ほんのわずかに、二人の間の空気がやわらぐ。


けれど、そのやわらぎの下に、さっき見たものの重さはちゃんと残っていた。


ここから先は、もう“おかしい場所”を歩く話ではない。

上が、何を切り、何を捨て、どうやって再編しようとしているのか。その一部に、自分たちは触れてしまったのだ。


そして、その境界のそばには、まだ人の気配がある。今も動いている何かがある。


ヘイズが近づくなと言った理由は、もう十分すぎるほど分かる。


危険だから。

壊れているから。

見えないものが見えるから。


それだけじゃない。


近づけば、知ってしまうからだ。


戻れなくなるくらいに。


レンが地図をたたむ。


「行くぞ」


アリスは頷く。


「うん」


二人はまた、暗い点検路の奥へ進み始めた。


西へ。

さらに奥へ。

上に近づくために、いったん下へ潜るような、不思議な道の先へ。


さっきの停止区画で見た残像は、もう一度は現れなかった。

けれど、現れないからといって消えたわけではない。

少女の声は、まだ耳の奥に残っている。


“そこじゃない”


あの言葉が、アリスの中で小さな棘みたいに引っかかったままだった。


そこじゃない。

じゃあ、どこなのか。


ズレている場所。

止めるべき場所。

上が触れている本当の“中心”。


もしそれがまだもっと奥にあるのだとしたら――。


アリスは鞄の紐を握り直した。


装置は今のところ静かだ。

けれど、それは何もないという意味じゃない。


むしろ、この静けさの方が不気味だった。


何かに近づけば、また反応する。

また見てしまう。

また、過去の残りを拾ってしまう。


それでも進むしかない。


通路はゆるやかに上りへ変わっていく。


頭上の配管が少しずつ減り、代わりに壁の厚みが増していく。外縁へ向かっているのだろう。空気の流れも微妙に変わる。湿気はまだあるが、先ほどの停止区画ほどの重さではなくなった。


その変化の中で、レンがぽつりと言った。


「さっきの女の子」


アリスは顔を上げる。


「うん」


「見たことある感じしたんだろ」


「……うん」


「誰に似てた」


アリスは少し考える。


でも、まだ言葉にできない。


「わかんない」


正直に答える。


「私に、って言うのとも違う」


「でも気になった」


「うん」


しばらく沈黙が続く。


レンもそれ以上は聞かなかった。


けれど、その問いはアリスの中に残る。


誰に似ていたのか。

なぜ、自分はあの顔に引っかかったのか。


その答えはまだ遠い。


でも、遠いままでも、たしかに何かへつながっている感じだけはあった。


前方に、わずかな光が見えはじめる。


自然の光ではない。人工の、弱い、でも今までの通路より少しだけ安定した灯り。


レンが足を止め、壁際へ寄る。


「次、保守路だ」


「安全そう?」


「安全って言葉を一回忘れろ」


「それ最近よく言うね」


「忘れてないから何回も言うんだよ」


アリスは思わず笑いそうになる。


その笑いを飲み込みながら、深く息を吸った。


次の場所へ行く。


停止区画を越えて。

死んだ場所を越えて。

まだ動いているもののそばを抜けて。


上へ近づく。


その時、鞄の中で装置が、ごく小さく鳴った。


今までで一番弱い反応だった。


でも、それははっきりと告げていた。


まだ終わっていない。


もっと先にある。


アリスは、暗い通路の先に見える小さな灯りを見つめたまま、小さく呟く。


「……ほんとに、ひどい街」


レンが壁に手をついたまま答える。


「今さらだな」


「今さらだよ」


「でも、まだ見終わってない」


「うん」


それだけ言って、アリスは頷いた。


次の一歩を踏み出す。

トカゲの尻尾切りって凄いですよね。

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