15話 断層の内側
点検路は、相変わらず人が歩くための道には見えなかった。
壁と配管のあいだに、あとから無理やり人ひとり分の隙間だけを残したような狭さ。左右の金属板はところどころ継ぎ足され、天井を走る管からは水が滲み、滴ったそれが足元の薄い水膜に落ちて、小さな輪をつくっては消えていく。
ぽつ、ぽつ、という水音だけが、妙に近い。
それ以外の音は、全部少し遠い。
街の奥底でまだ動いている大きな圧の唸りも、壁の向こうを流れる何かの振動も、ここでは薄い膜を一枚隔てた向こうから聞こえてくるみたいだった。
アリスは歩きながら、何度も後ろを振り返りそうになる。
さっきまでいた停止区画は、もう見えない。
あの壁の装置も、あの時の光も、倒れる人影も、叫び声も、今は全部暗闇の向こうへ沈んでいる。
けれど、見えなくなっただけで消えたわけではないことを、身体が分かっていた。
「そこじゃない」
あの少女の声は、まだ耳の奥に残っている。
アリスは鞄の紐を握り直した。
中に入れた装置は、今のところ静かだ。
さっきまであれほど反応していたのが嘘みたいに、重さだけを残して沈黙している。
その静けさの方が、かえって不気味だった。
前を歩くレンが、急に言った。
「振り向くなよ」
アリスはびくりと肩を揺らした。
「……見てた?」
「見てなくても分かる」
「こわ」
「今びびってるやつに言われたくねえ」
アリスは口を尖らせる。
「別にびびってないし」
「顔に出てる」
「それは……しょうがないでしょ」
レンが小さく息を吐いた。
「まあな」
その短いやり取りで、ほんの少しだけ呼吸が楽になる。
でも、胸の奥の冷たさまでは消えなかった。
怖い。
それはもう認めるしかなかった。
さっきまでの怖さは、見えないものの怖さだった。
今は違う。見えてしまったから怖い。実際に人がいて、実際に止められて、実際に犠牲が出た場所だったと分かってしまったから怖い。
しばらく進んだところで、アリスがぽつりと口を開いた。
「ねえ、レン」
「なんだ」
「ちょっと、整理していい?」
レンが少しだけ歩調を緩める。
「珍しいな」
「自分でも思う」
アリスは少しだけ苦笑した。
「でも、このままだと置いてかれそう」
レンは少しだけ考えたあと、短く言った。
「いいよ、聞け」
アリスは頷く。
「……ズレって、そんなに前からあるの?」
それが、今いちばん聞いておきたいことだった。
レンはすぐには答えなかった。足元の歪んだ鉄板を跨ぎ、低い管を避けてから、ようやく口を開く。
「小さいのはな」
「小さい?」
「音がズレるとか、位置が変に見えるとか、その程度なら、下じゃたまにある」
アリスは眉を寄せる。
「それって普通なの?」
「普通じゃねえよ」
レンは即答した。
「でも、珍しくもない」
アリスは少しだけ黙る。
珍しくない。
その感覚が、妙に生々しく胸へ落ちる。
「……じゃあ、さっきのは」
「同じ“ズレ”ではある」
レンはそう言ってから、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「でも、濃さが違う」
「濃さ」
「近いんだよ」
「何に」
「中心に」
アリスは息を呑む。
「それが……赤の線?」
レンは短く頷いた。
「赤は線じゃねえ」
「うん、それは聞いた」
「範囲だ」
アリスはそこで、ようやく地図の意味を実感として理解する。
赤い線が一本通っているのではない。
あれは、危険なものが濃く集まっている場所を示すために、便宜上“線”で描いてあるだけだ。
「真ん中が一番ヤバい」
レンが言う。
「で、そこから外にも影響が広がる」
「……じゃあ、青線は?」
「それを避けて通るルート」
「避けきれてないよね」
「完全にはな」
レンの言い方はあまりにも淡々としていたが、その方が逆に事実味があった。
「さっきの停止区画は、赤そのものじゃねえ。外縁だ。切られた影響が表に出た場所」
アリスは小さく頷く。
だから青線を通っていても、ああいう場所に触れてしまう。
だからヘイズは「赤に近づくな」と言ったのだ。
「なんで近づいちゃいけないの?」
アリスが聞く。
「危ない、以外で」
レンは少しだけ振り返る。
「理由は三つだ」
指を一本立てる。
「まず、普通に壊れてる」
「壊れてる」
「ああ。足場が落ちる、圧が狂う、蒸気が噴く、設備が途中で止まる。生きてる場所として信用できねえ」
二本目を立てる。
「ズレが濃い」
アリスは息を浅くする。
「……残像とか」
「それもだ。見える、聞こえる、位置がずれる。ひどいと今と昔が混ざる」
「見えた方を信じたら」
「死ぬ」
レンは短く言った。
アリスは何も返せなかった。
三本目の指が立つ。
「上の管理圏だ」
「……上」
「さっきのやつら」
レンは言い切る。
「見回りも来るし、観測もされてる。切るのも回収するのも、そのへんだ」
アリスは唇を湿らせる。
「回収って、人も?」
レンは少しだけ目を伏せた。
「使えそうならな」
それだけで十分だった。
背筋に冷たいものが這い上がる。
自分たちは今、“危ない場所を歩いている”だけじゃない。
見つかったら、ただ捕まるだけでは済まないかもしれない場所を通っている。
「……さっきの人たちって、ヴァルクたちとは違うよね」
アリスが小声で言う。
レンは頷いた。
「違う」
「じゃあ、何」
「再編局だ」
アリスはその名前を、頭の中で一度繰り返した。
「再編局……」
「区画監察局が“見る側”なら、あいつらは“切る側”だ」
その説明は、妙にしっくりきた。
ヴァルクは不気味だったが、どこか“観ている”側の人間だった。
でも停止区画で気配を感じた相手は違う。見ているだけではない。止める。切る。拾う。そういう気配を最初からまとっていた。
「……私たちのこと、どこまで知ってるのかな」
アリスが小さく言う。
レンは少しだけ考えてから答える。
「全部は知らねえだろ」
「全部って?」
「お前が何か、とか。なんで追われてるか、とか」
アリスは黙る。
レンが続ける。
「でも“対象がいる”くらいは共有されてる」
「対象……」
「おれらのことだ」
その言葉は、何気なく言われたのに重かった。
アリスは少しだけ顔をしかめる。
「なんか、ものみたい」
「そういう扱いなんだろ」
レンがそう言った、その時だった。
足音がした。
二人は同時に止まる。
遠くから近づいてくる。
一つではない。
二つでもない。
複数。
しかもその歩幅が、あまりにも揃いすぎている。
アリスの背中に冷たいものが走る。
「……レン」
「前だな」
レンの声が一段低くなる。
「再編局のおでましだ」
まだ姿は見えない。
だが、音だけで分かった。
普通じゃない。
人間の靴音なのに、揺れがない。
迷いもない。
ただ必要なだけの速度と間隔で、こちらへ近づいてくる。
「隠れるぞ」
レンが小さく言った。
二人はすぐに壁際へ身を寄せる。
点検路の脇に、ほんのわずかな隙間がある。人ひとりがやっと身体を押し込める程度のスペースだ。
そこへ体をねじ込む。
冷たい金属が背中に当たる。
呼吸を押し殺す。
足音が近づく。
止まる。
低い声が聞こえる。
「反応、前方」
別の声が返す。
「断続的」
アリスの心臓が強く鳴った。
反応。
間違いなく、自分たちのことだった。
レンが耳元で囁く。
「動くな」
アリスは頷く。
その時、通路へ冷たい白い光が差し込んだ。
さっきまで見ていた整備灯とは明らかに違う。揺れず、まっすぐで、必要な範囲だけを薄く削るような光。
その中に、影が現れる。
長い灰色のコート。
ほとんど皺がない。布というより、薄い板を何枚も重ねたみたいな落ち方をしている。
裾は濡れた床に触れているのに、水を吸わない。重さの感じが生身の衣服と少し違う。
男の顔は半分だけ見えた。
目の下から顎、頬にかけて、鈍い色の金属板が覆っている。そこから首元へ細い管がいくつも繋がり、襟の内側へ消えていた。
目だけが生身だ。
けれど、その目も人間のものにしては静かすぎた。
暗がりを探るというより、位置と距離を測るみたいに動く。
アリスはぞっとした。
人間だ。
でも、どこか人間じゃない。
「……ほんとに、気持ち悪い」
ほとんど息だけで呟くと、レンが小さく頷いた。
三人いる。
身長差はある。
歩幅も本来なら違うはずなのに、動きが揃いすぎていて、ひとつの機構が分かれて動いているように見える。
そのうちの一人が、腰から細い装置を取り出した。
金属の棒に、複数の環。先端には小さな結晶。
アリスの持つ観測器と似ている。
けれどあちらの方が、もっと冷たい。
“感じる”ためではなく、“測る”ための形だった。
「……似てる」
アリスが呟く。
レンもそれに気づいていた。
「観測器だな」
その瞬間——
アリスの鞄の中で、装置が小さく震えた。
「……っ」
レンがすぐに顔を向ける。
「反応したか」
「うん……ちょっと」
レンが小さく舌打ちする。
「引っ張られてるな」
外で、乾いた声が言う。
「反応強化」
「対象近接」
空気が一気に張り詰める。
レンが即座に判断した。
「移動する」
「でも——」
「来るぞ」
その一言で、アリスは頷いた。
二人は静かに隙間から抜け出し、点検路の奥へ進む。
だがその瞬間、後ろで声が飛んだ。
「確認」
「対象、移動」
見つかった。
完全にではない。
けれど、位置はもう絞られている。
「走るな」
レンが低く言う。
「うん」
「でも急げ」
「そういうとこなんだよね……!」
アリスが小さく言い返しながらも、足を速める。
狭い通路を抜ける。
配管をくぐる。
足場を跨ぐ。
後ろから、再編局の規則的な足音が追ってくる。
速い。
無駄がない。
距離が少しずつ縮まっていく。
前方に、薄い灯りが見えた。
保守路だ。
レンが言う。
「抜けるぞ」
その瞬間、後ろで声がした。
「捕捉」
アリスの背中へ冷たい感覚が走る。
レンが手を引く。
「今だ!」
二人は保守路へ飛び出した。
そしてアリスは、思わず息を呑んだ。
点検路のような閉じた通路とは、まるで違う。
そこは、巨大な空洞の内壁に張り付く足場だった。
保守路はある。
だが、それは“床”ではない。
壁沿いに渡された長い足場。
その外側には、何もない。
ほんの一歩、踏み外せば、そのまま下へ落ちる。
どこまでも。
アリスは反射的に下を見た。
遠い。
ずっと下の方に、まだらな灯りがいくつも散っている。
小さな区画。
暗い区画。
ところどころに光る細い線。
それがさっきまでいた下層なのだと、感覚で分かった。
「……高い」
アリスが呟く。
その声が、広い空間の中で少し遅れて返ってくる。
「見るな」
レンが言う。
「落ちるぞ」
「見ないと余計怖い!」
「見ても怖いだろ」
「そうだけど!」
上を見る。
そこにも、空はない。
あるのは、はるか上に重なった巨大な構造物だ。
管と足場と板が幾重にも重なり、ところどころから人工灯が滲み出ている。
「……空、見えないんだ」
アリスが言う。
「上が蓋だからな」
レンが答える。
「上の街が乗ってる」
その一言で、アリスはこの場所の意味をようやく掴んだ。
ここは地下ではない。
街の内側だ。
さっきまでの点検路は、その内側のさらに“中”を通る閉じた道だった。
でも今は、同じ構造の外側へ出たのだ。
「……ほんとに、息苦しい」
「分かる」
レンが短く答えた。
「広いのに、閉じてる」
その感覚が一番近かった。
後ろから白い光が差す。
再編局も保守路へ出てきたのだ。
「対象、上方移動」
「追跡継続」
乾いた声が空洞に反響する。
広いのに逃げ場がない。
その音の残り方だけで分かる。
レンが言う。
「右!」
アリスは迷わず従う。
保守路は壁沿いに折れながら続き、ところどころ橋で別の足場へ繋がっていた。
足元の格子から、下の空間が見える。
見ないようにしても、視界の端へ入る。
風が下から吹き上がる。
湿った金属の匂い。
油の古い匂い。
下層のどこかで流れる水の冷たさ。
この街は縦に裂けているのだと、アリスは思った。
積み重なっているんじゃない。
裂けた巨大な構造の内側へ、人と設備と区画が貼りついている。
その途中途中を、二人は走っている。
橋を渡る。
細い。
揺れる。
足元の格子の隙間から落下のイメージが勝手に浮かぶ。
「……やだここ」
アリスが小さく言う。
「おれも嫌だ」
レンが返す。
「でも止まる方が嫌だろ」
「それはそう」
前方に少し広い足場が見える。
レンがそこへ飛び込む。
アリスも続く。
足場は橋よりは広いが、その分、背後がよく見えた。
再編局がはっきりと見える。
灰色のコート。
顔の半分を覆う金属。
整いすぎた姿勢。
揃いすぎた動き。
「……なんか、同じ人みたい」
アリスが呟く。
「似たようなもんだろ」
レンが返す。
「そういうまとめ方するから怖いんだって」
その瞬間、視界が揺れた。
再編局の一人の動きが、ほんの一瞬だけ先に見える。
装置を向ける。
踏み込む。
腕の角度。
「来る!」
アリスが叫ぶ。
「どこ!」
「右寄り!」
レンがすぐに身体を流す。
次の瞬間、白い線が走った。
足場の端が裂ける。
火花。
金属片が、暗い下へ落ちていく。
音が下へ吸い込まれていき、どれだけ深いのかそれだけで分かる。
「……っ」
アリスは息を呑む。
「見えたか」
レンが言う。
「ちょっとだけ」
「それでいい」
その一言が、妙に力になる。
前方に、主管路へ沿って設置された小型の昇降台が見える。
レンが即座に判断する。
「乗る」
「動くの?」
「祈れ」
「雑!」
アリスは言い返しながらも昇降台へ飛び乗る。
レンが起動盤を叩く。
一度。
反応なし。
二度。
まだ動かない。
「うわ、これ……」
三度目で、ようやく低い唸りが返ってきた。
昇降台がぎし、と音を立てて動き出す。
「動いた!」
「遅い!」
レンが返す。
昇降台がゆっくり上がる。
だが、遅い。
後ろでは再編局がすぐそこまで来ていた。
一人が装置を構える。
アリスの視界がまた揺れる。
今度ははっきり見える。
狙いは——支柱。
「下!」
アリスが叫ぶ。
「支柱切る!」
レンが即座に補助鎖を引き寄せる。
白い線。
鎖が弾け飛ぶ。
支柱は無事。
昇降台が大きく揺れる。
「うわっ!」
アリスは手すりにしがみつく。
「落ちる!?」
「落ちねえ!」
「“今は”って感じなんだけど!」
「その通りだよ!」
こういう時でもレンがちゃんと返すのが、妙に腹立たしくて、でも少しだけ安心できる。
昇降台はぎしぎしと音を立てながら上昇する。
下を見ると、さっきの足場がもう遠い。
再編局の姿も小さくなる。
けれど、完全には追跡をやめていないのが分かった。
一人が装置を構え、もう一人が昇降路の脇へ回り、三人目はすでに別のルートを探っている。
迷いがない。
“次の手”が速い。
「……まだ来るね」
アリスが息を切らせながら言う。
「来るだろ」
レンが答える。
「仕事だからな」
その一言が、妙に冷たく響いた。
ここで人を追うことも、切ることも、捕まえることも、全部ただの業務なのだ。
上へ近づくにつれて、空気が変わる。
湿気が少し減る。
匂いも薄くなる。
灯りはまだ弱いが、間隔が均一になっていく。
「……変わってきた」
アリスが言う。
「ああ」
「上に近い」
その言葉に、少しだけ緊張が走る。
昇降台が停止する。
二人は飛び降りた。
そこは主管路の中腹にある保守足場だった。
左右に通路が伸び、さらに上へ向かう構造が見える。
さっきより広い。
新しい。
整っている。
でも——
その整い方が、逆に不気味だった。
「……ちゃんとしてる」
アリスが言う。
「上に行くほどな」
「それ、安心していいの?」
「見られやすいって意味だ」
「最悪じゃん」
「そうだな」
下で、再編局の光がまた動く。
完全には振り切れていない。
レンが周囲を見回す。
主管路の途中、古い整備室へ繋がる扉。
その先に細い補助階段。
さらに先には、圧逃がし弁のついた古い保守設備。
レンの目がそこに止まる。
「……使える」
「何が」
「蒸気」
アリスはすぐに意味を理解した。
「目くらまし?」
「それと音」
「また勢いで言ってない?」
「ちゃんと見て言ってる」
「それならちょっと安心する」
二人は保守設備へ駆ける。
下では再編局の一人が、別ルートから足場へ上がってくるのが見えた。
速い。
だが、まだ間に合う。
レンが弁の脇の盤を叩く。
古い。
硬い。
動きが重い。
「アリス、補助栓!」
「どっち!」
「白!」
「それ先に言って!」
アリスは白く剥げかけた栓を掴む。
硬い。
全然動かない。
「回らない!」
「両手!」
「やってる!」
レンは歯を食いしばって主弁を動かそうとしている。
その間に、再編局の足音が近づく。
「対象停止」
「確保優先」
アリスの心臓が跳ねる。
“確保優先”。
自分だ。
そうとしか思えなかった。
そのせいで一瞬だけ手が止まりかける。
でも、止まっている暇はない。
両手で力を込める。
ぎり、と補助栓が動いた。
その瞬間、配管の中で圧が変わる音がした。
「レン!」
「もう一回!」
アリスはもう一度力を込める。
今度は一気に回る。
次の瞬間、壁際の弁が甲高い悲鳴みたいな音を立て、大量の蒸気を吐き出した。
真っ白な蒸気が、主管路と足場を一気に満たす。
熱い。
だが火傷するほどではない。
視界だけが、真っ白になる。
再編局の一人が後退る気配。
別の一人が観測器を上げる。
だが光が蒸気に散り、位置が読みにくくなっているのが分かった。
「行くぞ!」
レンがアリスの腕を掴む。
二人は蒸気の中を走る。
前方には、外壁に沿って上へ伸びる古い整備階段が見える。
半分崩れているが、まだ使える。
「上!?」
アリスが叫ぶ。
「下は追いやすい!」
レンが返す。
「上なら足場が分かれる!」
「その説明、最初にちょうだい!」
「今してる!」
蒸気の中を抜け、整備階段へ飛び込む。
金属の段が濡れていて滑る。
手すりは片側しかない。
その向こうは、巨大な空洞。
アリスは視界の端で、下の灯りが揺れるのを見た。
怖い。
でも、同時に少しだけ——
すごいとも思ってしまう。
こんな構造が、この街の中に隠れていたのか。
人の暮らしも、設備も、捨てられた区画も、全部がこの巨大な縦の空間へ貼りついていたのか。
「今、景色に見惚れるなよ!」
レンが怒鳴る。
「分かってるよ!」
「顔に出てる!」
「なんでそういうの分かるの!」
言い返した、その瞬間。
視界がまた揺れた。
今度は、さっきよりもはっきり見える。
再編局の一人が、蒸気の向こうから階段の脇へ回る。
その動きが“先に”見えた。
「左から来る!」
アリスが叫ぶ。
レンが即座に位置を変える。
次の瞬間、蒸気の中から白い線が走り、さっきまでレンがいた手すりを裂いた。
金属片が下へ落ちていく。
「……ほんとに見えてるな」
レンが低く言う。
「私が一番びっくりしてる!」
そのまま階段を上り切る。
そこは、また別の細い橋状通路へ繋がっていた。
今度は空洞の内壁から少し離れている。
つまり——下が、もっとよく見える。
アリスは思わず息を呑む。
街の下層が、さっきよりずっとはっきり見えた。
暗い区画。
灯りの残る区画。
そのあいだを通る細い橋。
縦横に走る管。
どこかで蒸気が白く噴き、どこかで水が流れ落ちている。
そして、その全部を覆うように、はるか上には“蓋”がある。
空ではない。
上層の底。
この街そのものが、巨大な機構の中に閉じ込められているのだと、目で見て分かる。
「……ほんとに、空ないんだ」
アリスが呟く。
「今さらか」
レンが言う。
「今ようやく、ちゃんと分かったの!」
その時、後ろでまた足音がした。
再編局だ。
蒸気を抜けて、追ってきている。
「しつこいなあ!」
アリスが言う。
「仕事熱心なんだろ」
「その良さ、いらない!」
前方に、半開きの整備扉が見える。
その先は暗い。
でも、閉じた空間だ。
レンが即座にそちらを指す。
「入るぞ!」
二人は扉へ飛び込む。
中は狭い保守室だった。
壁一面に圧計。
止まった時計。
棚には古い記録板。
油と埃の匂い。
そして、奥にはもう一つ扉。
レンがそれを見る。
「まだ行ける」
「どこに!」
「分からん!」
「それは怖いって!」
背後で橋の金属音が響く。
再編局がもう来ている。
アリスは、ふと棚の上の記録板へ目をやった。
区画番号。供給切替補助記録。日付のような記号。
全部読む時間はない。
けれど、この場所もただの逃走路じゃない。
上と下をつなぎ、切り、守り、見捨てるための仕事の痕跡だ。
この街はどこまでも、設備と人の暮らしが絡み合っている。
その一部を切るということが、どれだけ多くを切ることなのか。
追われながらなのに、それが少しだけ見えてしまう。
「アリス!」
レンの声で我に返る。
奥の扉へ向かう。
開ける。
その先は、短い螺旋階段だった。
「下!?」
「ちょっとだけだ!」
「なんかもう上下の感覚おかしくなる!」
「おれもだよ!」
二人は螺旋階段を駆け下りる。
背後で、保守室の扉が開く音。
再編局が入った。
「対象、螺旋路へ移動」
「追跡維持」
乾いた声。
アリスは歯を食いしばる。
本当に、どこまででも来る。
螺旋階段を下りきると、横に長い渡り廊下へ出た。
片側は壁。
もう片側は格子になっていて、外の巨大空洞が見える。
床は古い木板の上へ金属板を継ぎ足したような、頼りない作りだった。踏むたびにわずかに軋む。
「ここ……落ちないよね?」
アリスが言う。
「今その質問する?」
「気になる!」
「落ちる時は落ちる!」
「やっぱり雑!」
前方に、大きな手動レバーが見える。
その先には、天井へ収納された厚い隔壁。
レンの目が止まる。
「……閉める」
「閉まる?」
「途中で止まるかもな」
「それ最悪のやつじゃん!」
「でもやる!」
レンがレバーへ飛びつく。
力を込めて引く。
ぎりぎり、と音を立てて、隔壁がゆっくり下がりはじめる。
「アリス、先!」
アリスは隔壁の向こう側へ抜ける。
その瞬間、また視界が揺れた。
次に起きることが、一瞬だけ見える。
隔壁は最後まで下がらない。
途中で止まる。
「最後まで閉まらない!」
アリスが叫ぶ。
「分かってる!」
案の定、隔壁は半分ほど下がったところで止まった。
床とのあいだに、人ひとりが屈めば潜れそうな隙間が残る。
「最悪だなあ!」
アリスが言う。
「今のは同意する!」
レンも返す。
隔壁の向こうに、再編局の足が見える。
しゃがんで、潜ってこようとしている。
レンは近くの工具箱を蹴り込む。
金属箱が隔壁の隙間にぶつかり、半分ほど詰まる。
「完璧じゃないけど!」
「時間は稼げる!」
二人はまた走る。
渡り廊下の先には、太い主管路へ出る大きな口が見える。
そこはこれまでよりずっと整っている。
上に近づくほど、設備は新しく、管理は濃くなる。
「……嫌な予感しかしない」
アリスが言う。
「正常だな」
レンが返す。
主管路へ飛び込む。
幅が広い。
灯りは均一。
管も新しい。
空気も少し乾いている。
下層の湿った暗さとは違う。
上に近い。
そのことが、逆に怖かった。
「……ちゃんとしてる」
アリスが言う。
「だから怖いんだよ」
レンが短く答える。
その一言が、この層の気味悪さを全部言い表していた。
後ろで隔壁が破られる音。
再編局がまた来る。
レンは周囲を見回す。
作業用の昇降台。
主管路沿いの支柱。
補助鎖。
「乗るぞ」
「また!?」
「これが一番早い!」
「分かった!」
二人は昇降台へ飛び乗る。
起動盤を叩く。
一度。
二度。
動かない。
「うわっ、これ嫌な予感」
「三回目だ」
「それ、験担ぎ?」
「黙ってろ!」
三度目で、ようやく昇降台が動き出す。
ぎし、と低く鳴り、ゆっくり上昇を始める。
再編局の一人が主管路の入口へ現れた。
装置を構える。
アリスの視界が揺れる。
次の光。
狙いは——支柱。
「下!」
アリスが叫ぶ。
「支柱!」
レンが補助鎖を引き寄せる。
白い線が走る。
鎖が弾ける。
支柱は無事。
昇降台が大きく揺れる。
「うわっ!」
アリスは手すりへしがみつく。
「落ちる!?」
「落ちねえ!」
「信用しきれない!」
「じゃあ信じるな、掴まっとけ!」
その言い方に、思わず笑いそうになる。
怖いのに。
なのに、少しだけ面白い。
この街はひどい。
でも、そのひどさの中に、とんでもない構造と景色がある。
自分がいま見ているものは、たぶん誰にでも見られるものじゃない。
そのことが、ほんの少しだけ胸を高鳴らせる。
昇降台がさらに上がる。
下を見ると、さっきの主管路がずっと遠くなっていた。
再編局の姿は小さくなる。
それでも、諦めていないのが分かる。
整った動きが、まだ“追跡中”だと告げている。
「……まだ来るかな」
アリスが言う。
「来るだろ」
レンが答える。
「でも、一回は切れた」
それは、ほんの少しだけ希望のある言い方だった。
昇降台が、次の足場へ近づく。
そこはさっきよりもさらに高い位置にあり、広く、整っていた。
灯りも安定している。
湿気も薄い。
だが、空はやはり見えない。
見上げてもあるのは、上層の底。
人工の蓋。
光の漏れ。
この世界には空がない。
その代わりに、“上”がある。
昇降台が止まる。
二人は飛び降りる。
ほんの少し息を整える。
レンが言う。
「……見られたな」
アリスは頷く。
「うん」
「もう“たぶん”じゃない」
「うん」
「追われてる」
その言葉を、今度のアリスははっきり受け止められた。
怖い。
でも、ただ怯えるだけの怖さじゃない。
見てしまったものがある。
知ってしまったことがある。
だから、ただ元の場所には戻れない。
アリスは鞄の紐を握る。
中の装置は、また静かになっていた。
けれど、その静けさは終わりじゃない。
たぶん、もっと先でまた反応する。
もっと上で。
もっと中心に近い場所で。
「……行こう」
アリスが言う。
レンが少しだけ目を細めた。
「大丈夫か」
「全然大丈夫じゃない」
「だろうな」
「でも、止まりたくない」
レンは短く息を吐き、それから小さく笑った。
「そういうとこだよ」
「それ、褒めてる?」
「半分」
「残り半分は?」
「今は知らん」
アリスは少しだけ笑った。
怖い。
でも動けている。
それでいい。
二人は、上へ続く通路へ歩き出す。
見上げても空はない。
見下ろせば、下層が遠く沈んでいる。
そのあいだを、細い通路が壁沿いに走っている。
この街は積み重なっているんじゃない。
内側が縦に裂けている。
その巨大な裂け目の中を、二人は進んでいる。
下ではまだ再編局が動いている。
上では、もっと別の何かが待っている。
見られていると知りながら。
それでも、見返さずにはいられない世界の中へ。
勢いで書いているせいで、今自分が何を書いているのか、彼らは今何をしているのか、何がしたいのか一瞬分からなくなるときがあります。
ただ、なんだか面白いですね。




