13話 消えきらない灯り
居住区の下へ続く補助路は、通路というより、配管と配管のあいだに無理やり人ひとり分の隙間を残したような場所だった。
頭上では太い管が交差し、その表面を水滴がゆっくり伝っている。壁際には古い補修の跡が何重にも重なり、継ぎ足された鉄板の境目からは、乾ききらない油の匂いと湿気が一緒になって滲み出していた。足元はぬかるんでいるほどではないが、薄く張った水が靴底にまとわりつくたび、冷たいような、ぬるいような、嫌な感触を残す。灯りを少し絞っていても、その光は前方をまっすぐ照らさず、壁や管の曲面に弾かれて、狭い空間のそこかしこで揺れた。
レンは前を歩きながら、何度も肩越しに後ろを確認していた。
追手がいるかどうかだけを見ているのではないのだと、今のアリスにはわかる。ここは道が複雑すぎる。背後に誰かがいたとしても、音だけで正確に位置を割り出すのは難しい。レンが見ているのは、もっと広い意味での「変化」なのだ。気配の増減、空気の揺れ、暗がりの中の不自然な明るさ――そういうもの全部を、彼はたぶん、なんとなく、でも確かに拾っている。
アリスも黙って後を追った。
暗闇に目が慣れてきたのか、最初はただ黒いだけだった景色の中に、少しずつ輪郭が浮かび上がってきている。足場の継ぎ目。壁を這う細い管。途中で切られたケーブル。誰かが昔貼ったらしい番号札。見えてくるものが増えるほど、この場所が「ただの裏道」ではないことがはっきりしてくる。
ここは、街の下を支えている場所だ。
人が踏まなくても街は動くのだろうが、人がまったく踏まないままでは済まない場所。そういう半端な場所の匂いがした。
アリスは歩きながら、胸の前で鞄の紐を握り直した。
中には、倉庫から持ち出した記録帳と地図と、あの装置が入っている。存在を思い出すたびに妙な感覚がする。重いわけではない。むしろ見た目よりは軽いくらいだ。なのに、鞄の中でそれだけが別の重みを持っているみたいに意識へ触れてくる。
さっき触った時、ほんのわずかに反応した。
光った、と断言するには弱すぎる。振動した、と言い切るにも曖昧すぎる。ただ、何もなかったとは言えない。自分の感覚を疑う余地を残しながら、それでも「何か」があったことだけは確かに思い出せる、そういう程度の反応だった。
「……ねえ」
アリスが前を歩くレンへ声をかける。
「ん」
「この道、あとどれくらい続くの」
レンは少しだけ首を傾けた。
「ちゃんとした意味で聞いてるなら、まだ結構ある」
「ちゃんとした意味って何」
「ぼやきとして聞いてるなら、ずっと続く」
「それは嫌だな」
「おれも嫌だよ」
その返しに、アリスは小さく笑う。
重い空気の中でも、レンは時々こういう返しをする。気を抜かせるつもりなのか、自分が重くなりすぎないためなのか、そこまでは分からない。でも、その雑な軽さに、アリスは何度も助けられていた。
しばらく進むと、通路の傾きが変わった。
今まではほぼ平らに進んでいた床が、わずかに下りはじめる。足元の水も流れ方を変え、細い筋になって暗がりの方へ消えていく。耳を澄ますと、どこか遠くで別の水音がしている。溜まっているのではなく、一定の方向へ吸い込まれるような音だった。
レンが灯りを少しだけ上げた。
「段差ある」
その声に従って足元を見ると、鉄の床が途中で切れ、低い階段に変わっていた。三段だけの、小さな段差。だが水で濡れているせいで、金属の縁がいやに鋭く見える。
アリスが慎重に足を下ろすと、階段の表面は思った以上に滑った。
「うわ、危な」
思わず声が漏れる。
「だから言ったろ」
レンが振り向かずに返す。
「先に言うのはずるい」
「転んでから言う方がずるいだろ」
「それはもっと嫌」
「だろうな」
短い会話のあいだにも、空気の中にはあの不規則な揺れがあった。水滴の落ちる間隔が、きちんと同じにならない。頭上を流れる圧の唸りが、ほんの少しだけどこかで外れて聞こえる。街の上では気づかなかった種類の狂いが、ここでは隠れずに剥き出しになっている気がした。
階段を下りきったところで、レンが足を止めた。
片手を軽く上げる。待て、の合図だ。
アリスも動きを止める。
前方の暗闇の奥から、かすかな明かりが見えた。
揺れている。
人の手にある灯りだ。
レンの背中がほんの少しだけ固くなる。
アリスも息を浅くした。
相手が誰なのかは分からない。監察の人間かもしれないし、ただの住人かもしれない。どちらにせよ、ここで不用意に音を立てる気にはなれなかった。
明かりはしばらくその場で揺れていたが、やがてゆっくりと遠ざかっていく。
金属が擦れるような小さな音が二度して、それきり気配は薄くなった。
レンがようやく小さく息を吐いた。
「……見回りじゃなさそうだな」
「住んでる人?」
「たぶん」
「いるんだ」
「いるだろ。地図にも区画残ってたし」
アリスは少しだけ目を丸くする。
「でも、こんなとこに?」
「こんなとこだから、だろ」
その言い方に、アリスはすぐには返せなかった。
たしかに、上から見ればこんな場所はただの下だ。表通りのきれいな灯りも、店の賑わいも、工房の熱も届きにくい。けれど、届きにくいからこそ、残る人は残るのかもしれない。
二人は慎重に進んだ。
やがて補助路は、配管の隙間を縫うだけの場所から、少しずつ“通るための道”らしくなっていく。天井は相変わらず低いが、足元の床は平らになり、壁際には古びた柵のようなものが設けられていた。使われなくなった運搬用の小さなレールも埋まっていて、その一部は途中で切られている。
さらに進むと、空気の匂いが変わった。
鉄と油に混じって、別の匂いがする。
煮炊きのあとに残るような、かすかな熱の匂い。濡れた布の匂い。人が長く留まった場所の匂い。
「……生活の匂いだ」
アリスが小さく言う。
レンがほんの少しだけ顎を引いた。
「近いな」
その先で通路がひらけた。
といっても広場のようなものではない。大きな配管の通る空洞を利用し、無理やり人が住めるように整えたような場所だった。壁沿いには板や布で仕切られた小部屋が並び、ところどころに明かりが灯っている。明かりはどれも弱く、色も安定しない。白く点くもの、赤みを帯びるもの、時々ちらつくもの。上の街の照明よりずっと頼りない。
通路の中央には、金属箱を逆さにして作ったような台と、その周囲に置かれた椅子代わりの木箱があった。さらに奥には、水を溜めるための樽が幾つか並んでいる。そのうち半分は空で、残りも底が見えそうなくらいしか入っていない。
人がいた。
全部で七、八人ほどだろうか。
年寄りが二人。中年の女が三人。若い男が一人。あとは子どもが二人。みんな一様に顔色が悪いわけではないが、表の街の人たちより明らかに痩せて見える。服も、何度も継ぎを当てて着続けているのが分かった。
最初にこちらへ気づいたのは、樽のそばで布を絞っていた女だった。
手を止める。
視線が鋭くなる。
その視線に気づいた周囲の人間たちも、遅れてこちらを見る。
空気が一気に張りつめた。
レンは足を止めると、両手を少しだけ見える位置へ上げた。
「通るだけだ」
最初に言ったのはそれだった。
「騒ぐ気はねえ」
女はすぐには返事をしなかった。
じっとレンとアリスを見比べる。目つきは鋭いが、怯えよりは警戒の方が強い。慣れているのだろう。外から来る人間を、まず疑ってかかることに。
「どこから来た」
女が言う。
「工房A区画の方」
レンが答える。
「上からじゃない」
女の目が少しだけ細くなる。
「それをどう信じろって?」
「信じなくていい。でも追われてるのは事実だ」
「余計悪いじゃない」
その返しに、アリスは少しだけ困ってレンを見る。
レンは顔色を変えなかった。
「だったら今ここで追い返してくれりゃいい」
「できると思う?」
「思ってねえよ」
ほんの少しだけ、女の口元が動く。
皮肉に対して皮肉で返す。そういうやりとりができる程度には、即座に危険物扱いされてはいないらしい。
女の背後で、小さな子どもがアリスをじっと見ていた。女の腰ほどの背丈しかない。黒ずんだ布を上からすっぽり被っていて、そこから覗く目だけがやたら大きい。
「その子、見ない顔だね」
子どもが言う。
「そりゃそうだろ」
レンが答えるより早く、アリスの方が少しだけ笑って言った。
「初めて来たから」
子どもは納得したような、していないような顔でさらに見つめてくる。
女が一歩前へ出た。
「……ヘイズの知り合いか」
その名前に、レンがはっきり反応した。
「知ってんのか」
「知ってるよ。たまに来てた」
女は視線を外さずに言う。
「測って、見て、何も言わずに帰る。そんな男だった」
アリスは思わず身を乗り出した。
「最近も?」
「最近も」
女は短く頷く。
「三日前。いや、四日前だったかもしれない」
その一言で、このコミュニティがただの通りすがりの背景ではなくなった。
ヘイズは本当にここへ来ていたのだ。最近まで。この人たちと接触していた。
「……何を測ってたの」
アリスが聞く。
女は少しだけ首を傾ける。
「詳しくは知らない。水の流れだの、圧の抜け方だの、そんなことを言ってた。あとは、ここは下だけど下じゃない、とか。意味の分からないことも」
レンが小さく息を吐いた。
「それ、ヘイズっぽいな」
「ヘイズって、そういう人なの?」
アリスが聞くと、レンは少しだけ真顔になった。
「たまに、分かるやつにだけ分かればいいって顔で喋る」
「今それ悪口?」
「半分はな」
そのやりとりを聞いていたらしい老人が、小さく笑った。皺の深い顔に、片方だけ少し欠けた歯が見える。
「悪く言うなら、あいつは“後で分かること”を前に言う奴だった」
老人はそう言って、アリスたちへ近づいた。腰は少し曲がっているが、足取りは思ったよりしっかりしている。
「ここに来るたび、もうすぐ止まる、もうすぐ薄くなる、ってな。何がだと聞いても、見てりゃ分かるとしか言わん」
「今は?」
レンが聞く。
「見てりゃ分かる」
老人はわざとらしくヘイズの口調を真似たらしく、周囲の空気が少しだけ緩んだ。
女が呆れたように眉をひそめる。
「冗談言ってる場合じゃないよ」
「冗談にしとかなきゃ、ここじゃ息も詰まる」
老人はそう返し、アリスたちを改めて見た。
「で、あんたらは何しにここへ」
レンは少しだけ言葉を選んだ。
「上に行く」
それだけ言う。
「ヘイズを取り戻す」
老人も女も、少しだけ顔を変えた。
完全な驚きではない。けれど、軽い話ではないと分かった顔だった。
女が低く言う。
「やめときな」
「やめられる話じゃない」
レンが返す。
「もう向こうに見られてる」
老人はしばらく黙ったあと、アリスへ目を向けた。
「嬢ちゃんは?」
その問いに、アリスは少しだけ迷う。
けれど、目を逸らさずに答えた。
「行く」
「怖くないのか」
「怖いよ」
すぐに言う。
「でも、行かない方がもっと嫌」
老人はしばらくアリスを見ていたが、やがて「そうか」とだけ言った。
それから、女の方へ顔を向ける。
「水、まだ残ってるな」
女は顔をしかめる。
「余裕はないよ」
「少しなら死なん」
「その少しがいつも無くなるんだ」
「無くなる前に無くなる場所を通るんだろ、あいつらは」
言い方は乱暴だったが、結局、女は樽の横から金属の小さなカップを二つ取ってきた。中に残っていた水を半分ほどずつ分ける。
「飲みな」
ぶっきらぼうに差し出される。
アリスは思わず目を見開いた。
「いいの」
「よくはない。でも倒れられても困る」
レンは素直に受け取った。
「ありがと」
アリスも慌てて頭を下げる。
カップの水は冷たくなかった。むしろ少し生ぬるい。それでも、喉を通ると、思っていた以上に身体へしみた。地下へ入ってからずっと、空気の重さに押されるようにして呼吸していたせいかもしれない。
老人がアリスの持つ鞄へ視線を向ける。
「その鞄、重そうだな」
「ちょっとね」
アリスが答えると、子どもが横からひょいと顔を出した。
「何入ってるの?」
「おい」
女がたしなめるが、子どもは気にしていない。
アリスは少し迷ってから、答えを曖昧にした。
「地図とか、紙とか」
「武器は?」
「ない」
「嘘だ」
子どもが即座に言う。
「そのお兄さん、腰に何かあるもん」
レンが鼻で笑った。
「よく見てんな」
「見えるよ」
「見えなくていいもんまで見てるんじゃねえのか」
「それはそっちでしょ」
子どもがさらりと返す。
その瞬間、老人と女がほんの少しだけ互いを見る。アリスはその短いやりとりを見逃さなかった。
「……何」
アリスが聞くと、老人がゆっくり言った。
「いや。あんたも“そういう目”をしてるなと思ってな」
アリスの胸がわずかにざわつく。
「どういう目」
「見えなくていいものまで拾う目だ」
その言葉に、レンの表情がほんの少しだけ固くなる。
女が老人へ眉をひそめる。
「余計なこと言わないで」
「余計じゃない。似てるってだけだ」
「誰に」
アリスが聞く。
老人は少しだけ黙った。
それから、曖昧に言う。
「昔、ここを通った奴に」
アリスは息を止める。
老人は続けない。
それ以上を言うつもりがないのだと分かった。
けれど、今の一言だけで十分だった。
誰かがいた。ここを通った誰かが。そしてその誰かは、自分と何か似たものを持っていた。
「男?」
アリスが聞く。
老人は首を傾ける。
「どっちだったかな」
その答え方は、はぐらかしているようでもあり、本当に断定したくないようでもあった。
「覚えてないの?」
子どもが口を挟む。
「覚えてるくせに」
「うるさいよ」
女が子どもの頭を軽く叩く。
老人は苦笑した。
「覚えてないことにしといた方が、長く生きられる時もある」
その言い方は、冗談のようでいて冗談ではなかった。
アリスはそれ以上追わなかった。
追えば、何かが一気に近づきすぎる気がした。
その時、コミュニティの奥の方で急に灯りがちらついた。
一つではない。二つ、三つと、弱い灯りが順番に明滅する。
女が振り返る。
「……また」
吐き捨てるように言う。
レンがすぐに周囲を見る。
「何だ」
「供給が落ちてる」
女はカップを奪うように受け取りながら奥へ走った。
老人も続く。
アリスとレンも自然とその後を追う。
奥には、壁際へまとめられた配管と、そこへ繋がる簡易の弁があった。家庭用に落とした供給をここで分配しているらしい。管の一本が、細く震えている。灯りはその振動に合わせるように明滅していた。
「また赤線側だよ」
女が舌打ちする。
「こっちまで薄くなってる」
レンが低く言う。
「赤の近くが落ちたのか」
「落ちたか、切られたかだろうね」
女は弁を握るが、回しても手応えが薄い。元の圧自体が弱まっているのだ。
アリスはその場で立ち尽くしかけた。
空気が変だ。
音が変だ。
振動が、一本だけじゃない。ここに来るまでに感じた小さなズレが、もっと濃く、もっと露骨になって現れている。
そして、鞄の中で、装置がはっきりと存在感を持ち始めた。
「……レン」
「分かってる」
レンは短く返し、アリスの顔を見る。
「出せるか」
アリスは少し迷った。
ここで出していいのか分からない。
けれど、今の違和感は、さっきまでのものより明らかに強い。
アリスは鞄から装置を取り出した。
手のひらに乗せる。
今度はすぐに分かった。
冷たい金属の奥で、細い振動が生き物みたいに脈打っている。中心の結晶も、灯りの反射ではない淡い色を内側に含んでいた。白にも青にも見えない色が、深くなったり浅くなったりを繰り返している。
「……光ってる」
アリスが小さく言う。
レンが顔を寄せる。
「今度は分かるな」
装置の外側の環の一つが、ごくわずかに震えていた。音はない。けれど、その震えが向きを持っているような気がする。どこか一点へ引かれているみたいに、ほんの少しだけ偏っている。
アリスはゆっくりと装置を動かした。
右へ。
何も変わらない。
左へ。
振動が少し強くなる。
前へ。
結晶の色がわずかに濃くなる。
「……こっち」
思わず呟く。
女と老人がこちらを見る。
レンがすぐに問う。
「何が」
「分かんないけど」
アリスは装置を握ったまま言う。
「こっちの方が、変」
言葉が足りないのは自分でも分かった。けれど、今の感覚は確かだった。
この場所にあるズレは、ただ全体が弱くなっているだけではない。どこか特定の一点から、細いひびみたいに広がっている。
老人が低く言う。
「……あの人と同じこと言うな」
アリスは顔を上げる。
「誰が」
老人は装置を見つめていた。
「昔来た奴も、そうやって言ってた。ここじゃない、もっと奥だってな」
レンの目が鋭くなる。
「そいつ、どこ行った」
「知らん」
「ほんとかよ」
「ほんとだ。知ってりゃ、今ごろこの下にゃいない」
会話の途中で、灯りがさらに二つ消えた。
子どもの一人が短く悲鳴を上げる。
女が振り返る。
「ミナ! そっち行くな!」
名を呼ばれた子どもは、点滅する灯りの近くへ寄っていた。足元の金属板がわずかに沈み込み、嫌な音を立てる。
レンがすぐに動いた。
「下がれ!」
駆け寄り、子どもを引き寄せる。
その瞬間、壁際の細い管がガン、と短く鳴り、継ぎ目から蒸気が噴いた。白い煙が一気に視界を曇らせる。
アリスは反射的に目を細める。
熱い。
けれど火傷するほどではない。
それでも子どもがそのままいたら危なかった。
レンが子どもを抱えて戻る。
「大丈夫か」
「……う、うん」
子どもは震えながら頷く。
女が走ってきて、強く抱き寄せた。
「だから行くなって言っただろうが!」
怒鳴る声の奥で、本気で怯えていたのが分かる。
老人が蒸気の漏れた継ぎ目を睨む。
「今まではこんな出方しなかった」
その言葉に、アリスは装置を持つ手へさらに力を入れた。
振動はまだ続いている。
結晶の色も消えない。
まるで「ここじゃない、もっと先だ」と繰り返しているみたいだった。
レンがアリスを見る。
「やっぱり、変な場所に近づいてる」
「うん」
今度ははっきり頷けた。
「これ、たぶん……どこかに集中してる」
「ズレが?」
「たぶん」
アリスは自分の言葉に自信があるわけではなかった。けれど、今ここで感じているものは、ただの故障とも、ただの供給不足とも違う。
街のいろんな場所で起きている小さな狂いが、どこかへ引っ張られている。そういう感じがした。
女がこちらを見る。
「……あんたたち、上に行くんだろ」
レンが頷く。
「行く」
女は少しのあいだ躊躇っていたが、やがて小さく息を吐く。
「だったら、北寄りの補助路はやめな。今日みたいに落ちる時は、あっちから先に死ぬ」
「他は」
「西へ回る」
老人が答える。
「遠いが、まだ持つ」
レンが地図を開く。
アリスも覗き込む。
老人が骨ばった指で一本の線をなぞった。
「ここを抜けて、旧水路の横へ出る。その先に、昔の昇降機の残骸がある。そこからなら、外縁の保守路へ入れる」
「なんでそんな詳しいんだ」
レンが聞くと、老人は苦く笑った。
「ここで長く生きると、死なない道だけは覚える」
その答えが、この場所そのものみたいだった。
女はまだ厳しい顔をしていたが、子どもを抱えたまま小さく言った。
「ヘイズに借りがある」
レンが顔を上げる。
「借り?」
「止まる前に教えてくれたことが何回かあった。水が落ちる日も、灯りが切れる日も。全部を止められたわけじゃない。でも、知らないよりはマシだった」
アリスの胸に、少しだけ別の感情が灯る。
ヘイズは、工房だけ見ていたわけじゃない。ここにも来て、見て、残していた。止めきれないまでも、少しでも被害を減らそうとしていたのだ。
だからこそ、向こうにとっては邪魔だったのかもしれない。
老人がアリスを見る。
「嬢ちゃん」
「……うん」
「上に行くなら、見えたもの全部をすぐ信じるな」
アリスは少し目を丸くした。
老人は続ける。
「止まって見えるもんが、止まってるとは限らん。動いて見えるもんも、ほんとは止まってるかもしれん。この下じゃ、そういうことがある」
意味ははっきり分からない。
でも、その言い方は妙に耳へ残った。
「……覚えとく」
老人は頷く。
その時、装置の振動がふっと弱まった。
結晶の色も薄くなる。
アリスはゆっくり息を吐いた。
「……落ち着いた」
「何が」
レンが聞く。
「これ」
アリスは装置を見せる。
「さっきより静か」
レンが装置と蒸気の漏れた継ぎ目を見比べる。
「じゃあ、今の出方に反応してたのか」
「たぶん……でも、もっと奥にも何かある気がする」
女が眉をひそめる。
「気がするで動くのかい」
アリスは少しだけ迷ってから答えた。
「今は、それしかないから」
女は何も言わなかった。
でも、その目つきはさっきより少しだけやわらいでいた。
レンが地図をたたむ。
「助かった」
老人が肩をすくめる。
「助かった分、上で返せ」
「どうやって」
「知らん。若いんだから考えろ」
その返しに、アリスは思わず笑いそうになった。
レンも一瞬だけ顔をしかめてから、ふっと息を漏らす。
「無茶言うなあ」
「年寄りはいつも無茶を言うもんだ」
老人の言葉に、場の空気がほんの少しだけ軽くなった。
けれど、その軽さの下には、ずっと冷たい現実がある。
見捨てられかけた街。
不安定な供給。
切られそうな線。
上からの再編。
そして、その下で工夫しながら生きている、小さなコミュニティ。
アリスはその全体を胸の中へ刻むように見渡した。
弱い灯り。
空の樽。
補修だらけの壁。
子どもを抱く女の腕。
まだ温かい湯気の残る小鍋。
少しだけ笑う老人。
ここは終わった場所ではない。
終わらされかけている場所だ。
その違いが、今のアリスにははっきりと分かった。
レンが歩き出す。
「行くぞ」
アリスは装置を鞄へしまい、最後にもう一度だけコミュニティの方を見た。
子どもが小さく手を振る。
アリスも振り返す。
老人は何も言わず、ただ顎を引いた。
女は相変わらず厳しい顔をしていたが、それでも追い返す気はもうないのだと分かった。
二人はまた暗い通路へ戻る。
今度は、ただ“逃げている”感じではなかった。
行く先が少しだけ見えた。
上が何をしようとしているのか、その輪郭もわずかに見え始めた。
それでも、まだ分からないことの方が圧倒的に多い。
だから進む。
青い線の先へ。
西へ回る補助路の先へ。
そして、上へ。
レンが一度だけ振り返る。
「行けるか」
アリスは迷わず頷いた。
「行ける」
その声は、自分で思っていたよりもずっと強かった。
灯りがあるだけでそこは安全のような気がします。
見えない恐怖のせいでしょうか。それとも何か別の理由が?
それでも寝る時は暗い方が安心して眠れますよね。
なんだか不思議ですね。




