十一、雨降不止
「いったいこれはどういうことなんだ?」
敵前で呑気にそんなことを問う圻延に、狗猿の爪を躱していた燈架は苛立ちを覚えた。年の功による余裕だろうか。しかし、今の燈架には、寝惚けているとしか思えない。
「何故妖に攫われた子どもを追わない? この女を相手にすることがそんなに大事なのか?」
「それ、今である必要がありますか?」
颯季の身を案じてのことだと知って、少しだけ評価を修正するが……しかし、やはり今のんびりと状況説明をしているだけの余裕はないので、苛立ちは収まりきらなかった。
雨に打たれながら、草切れが飛ぶ。
揺と颯季を目の前で逃した蔭把は、相当の鬱憤が溜まっているようだ。身の丈ほどの大太刀を、片手で乱暴に振り回している。その剣筋は粗く、いなすのは容易い。とはいえ、彼女は膂力も十分にあり、振り回されているだけの大太刀も立派に凶器となっているのだが。
狗猿の援護もあり、やりづらい。
一つ幸いなことは、蔭把や狗猿たちがその牙を美弥へと向けないことだった。緋坦がきちんと守ってくれているからだろう。もっとも、この場を離れてくれれば一番良いのだが。どうやら揺を心配した美弥がそれを拒んでいるようだ。
雨の中、燈架は火を呼び出し、叢にばら撒いた。雑草たちは既にたっぷりと雨を浴びているため、火は小さく、燃え広がることもなかったが、狗猿たちの牽制にはなったようだった。
その間に、圻延が蔭把を襲う。彼が振るうのは燈架と変わらぬごく一般的な刀だったが、体格ゆえか玩具を振り回しているようだった。だからなのか。それとも、熟達した技によるものか。蔭把の青藍の振袖が切り裂かれていた。圻延の体格による錯視だけが原因ではない。雨を吸い重みを増した着物に、蔭把自身もてこずっているようだ。身のこなしも何処か鈍い。
――否、それだけではないようだ。
宙を舞う草切れの合間から見る蔭把の蠱惑的な顔は、ずっと歪んでいた。〝屈辱〟の色だった。燈架たち妖祓いに向けたものではない。おそらく揺への――
燈架の頬に皮肉が浮かぶ。
「憎み、嫉み。怒りで我を忘れ、他者を虐げる快楽に酔い?」
口を開くと、圻延と斬り結ぶ蔭把の目がこちらを向いた。
「どうやらお前さんも含まれるようだな。しかもお楽しみを邪魔されて、餓鬼のように駄々こねるとまで来た」
目が火を噴いた、と錯覚するほどに、彼女は憤りを露わにした。
「だいっきらい!!」
圻延を無視し、燈架へと向かう。草を踏み倒しながら両手で大太刀を振りかぶり、燈架に向けて振り下ろす。型も何もあったものではない、衝動に――感情に任せた一撃。刀で受け流す必要さえなく、燈架はただ足捌きでこれを躱した。
大太刀が水を含んだ土を叩く。泥が刃に纏わりついた。抜くのに僅かな抵抗がかかったのか、隙が生まれた。燈架はすかさず敵の懐に潜り込み、柄尻を鳩尾の辺りに叩き込んだ。
女は大太刀を取り落とし、よろよろと後退する。そして、鳩尾のあたりを押さえながら燈架を睨み上げた。
「どきなさい!」
蔭把が吠える。苛立ちと焦りが、蔭把の心を占めているようだった。燈架は目を眇める。この女は、そんなにも揺を仕留めたいのか。
口の中から石を噛んだような音がした。
燈架は改めて刀を構える。何が何でもここで彼女を止める。その覚悟で挑む。
蔭把は獣のように身を屈め、両手を腰の辺りで構えた。掌を窄め、槍のようにする。素手で挑むつもりのようだ。それでも油断ならないのは、彼女がかつて惟織を手刀で殺めていることを思えば分かる。
慎重に足を動かす。足裏を地面に擦り付けるように、右へと回りこむ。蔭把も応じた。お互いに相手の隙を窺っている。狗猿は、圻延が相手をしているようだ。何体か斬り払ったのか、時折悲鳴が聞こえる。その度に蔭把の眉が跳ね、彼女の苛立ちが増しているのが見て取れた。
「やめてください」
少年の声が、突如として割り込む。燈架も蔭把も顔を上げた。いつの間に戻ってきたのか。雨の中、詰襟服の少年が立っている。
「もう無意味です。〈庭〉は閉ざしました」
「颯季……」
燈架は思わず構えを解く。颯季は人形のように表情もなく落ち着いていたが、その立ち姿には哀愁が漂っていた。
「〈葵の庭〉も、貴女のものになることはありません。今は僕のものです」
悟ってはいても、改めて突きつけられると、世界から音がなくなったような気分に陥る。そして、それほどの衝撃を受けている自分にも驚いた。相手は妖。それも、前に一度会ったきりの関係だというのに――
蔭把は丸めた背を起こし、再び妖艶な女に戻った。先ほどまでの剥き出した感情も何処へやら。澄ました様子でツンと顔を背けた。
「……なら、もう追いかける必要はありませんね。揺の死に目に会えなかったのは残念だけど」
唇を尖らせて拗ねた様子が、わざとらしく感じられた。
「颯季が、二つの〈庭〉を手に入れているなら、好都合というものです」
「させると思うか?」
再び刀を構え、颯季を庇う位置取りをした燈架を、蔭把はつまらなそうに眺め、うんざりしたように首を振った。
「さすがに多勢に無勢。不利ですわね。今日のところは帰ります」
そうして蔭把は、躊躇いなく燈架に背を向けた。燈架もまた、刀を下ろす。
雨に打たれながらやるせない結末に打ちひしがれている燈架の前で、歩み去ろうとしていた蔭把がふと顔を上げ、振り向く。
その視線の先には、呆然と成り行きを見守っていた美弥。
「ああ。貴女のお陰で揺を殺すことができました。有難うございます」
燈架の頭に、再び血が昇る。足を踏み出しかけた彼の前で、彼女は足元の影に溶けるように消え失せて。
あとは、地面をより激しく叩く雨音と、美弥の慟哭だけが残った。
「燈架君。これはいったいどういうことか、説明願いたい」
状況が落ち着いて、緋坦が請う。二度も巻き込まれた彼に同情を抱きつつも、燈架は首を横に振った。
「此処では何です。お話なら、朱門へご足労いただくのが良いでしょう。今は……」
燈架が無言で示した先。さんざん踏み荒らされ、切り払われた草地の向こう、まだ無事な白い立葵の根元に蹲る美弥と、彼女を宥める颯季がいる。雨は今もなお強く振り続け、誰も彼もがずぶ濡れだった。その中でも二人は見るからにか弱く、そろそろ体調が心配になってくる。
「……私の所為だ」
だが、美弥は自身の状態にはまるで気を払っていなかった。彼女の胸の内は、まだ揺への後悔に満たされている。
「揺さんは、恨んでいませんでしたよ」
「でも!」
言い募ろうとして、しかし言葉が出なかったのか、美弥は悔恨の表情で俯いた。抑えきれない感情に、地面に何度も拳を叩きつける。
燈架は、そんな美弥の傍へ行き、しゃがみこんだ。
「一度戻りましょう」
「……帰れない。あんなことをした後だもの」
首を振る美弥の気持ちは、少しばかり燈架にも想像がついた。それに、提案しておいてなんだが、あの家に彼女を帰しても何一つ良くならないだろうことに思い至った。
「では颯季、彼女を朱門へ。俺は一応兼盛に報告をしてくる」
颯季は心得た様子で燈架を見上げて頷き、美弥へと手を差し出した。美弥は、帰らなくて良いと知り安心したのか、力なく颯季の手を取った。
任せても大丈夫だと判断した燈架は二人から離れ、再び緋坦のもとへと行く。
「恐れ入りますが、彼らに同行をお願いできませんか」
さすがにもう何もないと思いたいが、片や蔭把に狙われる少年、もう片や蔭把に利用された娘だ。身の安全に不安がある。
緋坦は神妙に頷いた。
「話は朱門で、とのことだっただろう。訪ねるついでだ、引き受けよう」
緋坦が圻延に指示し、黄門の者を撤収させる。そして、颯季と美弥が緋坦に連れ添われて湖岸を離れるのを見送って、燈架は濡れ鼠のまま兼盛の家に戻った。




