十、葵守散華
虚を歩いているときから、気づいてはいた。彼の命の灯火が消えかけていることを。
それでも颯季は彼を止めることができなくて、揺に肩を貸したまま、導かれるままに歩いた。
やがて、目の前が白くなる。
目が慣れた頃、足を止める。いつの間にか颯季たちは、真っ暗な夜空から半月のみが見下ろしている〈庭〉の中に立っていた。
「我が庭だ」
空にあるのは、半分に割れた月のみだ。だが、不思議と周囲の景色は克明に見えていた。
素朴な庭だった。惟織の〈桜の庭〉と比べると、遥かに。周囲を白塗りの塀で囲われた正方形であるところは同じ。閉ざされた門があるところも同じ。だが、足元は玉砂利ではなく、剥き出しの土に苔が生していた。丸い飛び石が誘う庭の中央は、わずかに盛り上がっており、そのてっぺんに素朴な木の長椅子と、大きな赤い番傘が添えられていた。
そして、傘と腰掛けを囲うように、乱雑に生えた白い立葵。
「ひどく粗末だろう」
「いえ……」
辺りを見回しながら、颯季は否定する。確かに、華やかさも煌びやかさもない。まるで、揺の為人を表したような庭だったが。
「他の〈花守〉にも整えるよう、よく言われるのだが。あそこに座って眺めると、満足してしまう」
つまりこの庭の様相は、ただの面倒や無精が作り上げたわけではない。手入れされておらずとも、揺なりの愛しさが作り上げた庭なのだ。
そう思うと、庭を見渡す颯季の胸も締め付けられる。彼はどこまでも――
瞼が熱くなるのを抑え込みながら、颯季は必死に庭を見た。そうしてようやく、言葉が浮かぶ。
「侘び寂びって、こういうことを言うのかなって思います」
華やかさも煌びやかさもない。『荒れ果てている』と評する人もいるかもしれない。それでも、苔が隙間なく敷き詰められた様子に、いじらしさを覚える。葵が所狭しと背比べをする様子に、口元が綻ぶ。風が胸を吹き抜けて、月の光が身体を包み込むのを感じて。小さくとも胸が揺さぶられる庭が、粗末であるはずがない。
揺が颯季の評価をどう感じたのか、分からなかった。彼はただ、盛り土の上の長椅子に行きたい、と指を差した。
命を喪いかけた牛鬼の身体は、小柄な颯季には重かった。大柄な身体がのしかかるのを必死に耐え、颯季は長椅子のところまで揺の身体を引っぱり上げた。ただ黙々と。
揺の言葉が流暢になったことは、言及しなかった。どうでもいいことで、彼の残り僅かな命の蝋を無駄使いしたくなかった。
血が歩いた道に、点々と落ちていく。しばらくして、それらは苔土に吸われて消えた。
「やはり良い」
毛羽立ち灰色になった木の長椅子に腰掛けた揺は、座ってもなお自らの身体を支える力はないようだった。半ば颯季にもたれるように力なく座っている。颯季の薄い肩に頭を乗せて庭を眺める揺は、とても満足そうだった。この場で死ねることに幸せさえ感じているようにも見えた。
揺は頭を動かし、片手を上げる。
「傘も好きなのだ。だから、この闇に不要と知りつつも、置いてしまった」
遮るような日差しも雨もない場所で、茶屋などで見られるように長椅子に添えられた番傘。緑とわずかな白ばかりのこの庭で、その赤は鮮明で存在感を放つ。〝ただの飾り〟と揺は笑うが、この傘も庭の一部分を為しており、決して不要とまで言えなかった。
その傘の陰で、颯季は一心に庭に目を向ける。緑と白以外のものを目にしたくなかった。
だが、時はそんなことは許しはしない。颯季の目の前に、揺の拳が翳される。土気色の肌に、握り込めない黒く長い爪。
「我が〈庭〉も、お前に託そう」
意を汲み、颯季は両掌をその拳の下に差し出した。土気色の手が開き、中から光の珠が溢れる。颯季の親指の爪ほどの、真珠のような珠だった。
「日は昇り、沈む。月もまた、同じく。花は芽吹き、咲いて、散る。生は流転の中にある。流れ行くままに在るべきだ」
揺のかすれゆく声を聴きながら、颯季は掌の上で珠を転がした。弄ばれた珠は、右に左に移ろうのを繰り返し、やがて手の合わせ目に引っかかって止まった。
その隙間から零れ落ちんかのように、白い珠は形を崩した。溶けて、消える――颯季の体内へと入り込む。
「停滞も悪ではない。凪いだ水面は美しい。だが、過ぎれば澱む。澱めば病む。病めば死ぬ。死ねば滅びる」
顔を上げた颯季の目の前で、先ほどまで白かった立葵の大ぶりの花が、徐々に赤く染まっていた。惟織のときと同じ――揺の落とした血を吸って、その身を穢してしまったのだ。
〈花守〉の妖は、〈常世の庭〉の花を守るために在る。なのに、その〈花守〉がまた、庭の花を穢してしまった。
花が穢れると、〈庭〉は澱む。それは〝悪い〟のだ、とかつて〈葵守〉は言っていた。
「むやみに押し流すのも良くはないが、時としてその強さも必要となる」
熱いものが流れる颯季の頬に、硬いものが触れた。顔を動かしてみれば、涙を拭うように揺の爪が当てられている。
「どうか、〈庭〉を頼む。世界が正しく廻るよう、新しい風を入れてくれ」
「でも、僕は――っ!」
惟織の死のきっかけとなり、揺をも守れなかった。颯季こそが〈庭〉を穢す原因となっているのに。
揺は牛の顔で、確かに微笑した。
「我らの想い、お前に託した」
颯季の頬から揺の手が離れ、長椅子の上に落ちた。手の甲が座面を硬く打つ。音のほとんどないこの場所で、それはひときわ大きく響いた。
「彼女もまた、澱みを押し流すことができれば良いが――」
どうだろうな。
憂う溜め息を溢し、揺は口を閉ざした。
肩の重みがいっそう増えるのに気づきながらも、颯季はただ、すっかり赤く染まった葵の花々を睨みつけていた。




