九、女禍再来
「――え」
誰もが凍り付いた。揺の大きな身体が傾ぎ、水の中へと倒れ込む。大きく水が跳ねる音が静寂を飲み込み、湖面に血が滲んだ。
刀を握ったまま硬直していた燈架は、革の長靴に冷たい水が染み込む不快感で我に返り、辺りを見渡した。燈架の肩を飛び越していった、憎きあの狗猿はもういない。
「……どうして、そんな……私……っ!」
脚の力をなくしたか、美弥が座り込む。
疑問符だらけの中、さらに足を湖に浸そうとしたところで、女の高笑いが響いた。鈴を転がすような、けれど金属を引っ掻いたような不快感も同時にもたらす軽やかな声。
辺りを見渡す一同の前で、美弥の影の中から、妖艶な女が姿を現した。豊かな身体の、青藍の振袖の女。開いた花弁から蜜を滴らせる毒花。
「大変素敵な茶番でした。良い働きでしたよ、お嬢さん」
蔭把は美弥の前に屈みこみ、男を誘うような蠱惑的な笑みを突きつけた。
「貴様……っ!」
燈架は踏み出しかけ、結局その足を止めた。蔭把の手の中には、女の細腕では操れるとは到底思えないあの大太刀があり、美弥の後ろ首に添えられている。
颯季は美弥を気にする一方で、蔭把への拒絶感に抗えないようで、身を仰け反らせたまま固まっていた。その様子を、蔭把はたまらなく嬉しそうに眺め、それから当てつけるように細い指で美弥の頬をなぞった。
「人間が信じられなくなった、可哀想なお嬢さん。お茶屋で声を掛けただけのわたくしの言葉にさえ、簡単に惑わされて」
捨てられた仔犬を憐れむような声で囁いて、さらに魚のように口を開閉させて目を瞠る美弥の唇を撫ぜる。
「人間なんて、他愛もないこと。憎み、嫉み。怒りで我を忘れ、他者を虐げる快楽に酔い。そして、全てを壊す、愚か者ばかり」
口付けるのではと思わせるほどに、その顔を近づけて、女は愉悦する。思わず燈架の身体が動くが、見越していた蔭把は、牽制するように大太刀を軽く揺り動かした。
男たちがなすすべなく立ち竦む中で、蔭把は美弥に残酷な事実を告げた。
「貴女が上手に踊ってくれたから、わたくしはようやく、あの愚鈍な牛を打つことができました」
「え……」
「ずっと狙っていたの。でも、なまじ力が強いから、なかなか手を出すことができなくて。確実に痛手を負わせるために、貴女の影の中でずっと隙を窺っていました」
す、と女の表情が消える。
「殺せなかったけれど」
美弥の瞳がますます見開かれる。口が何かを訴えようとしているが、声が封じられているかのように、彼女は言葉を発せずにいた。
そんな美弥の絶望する様子に、心が躍る、といった様子で蔭把は身を捩らせた。自らの身体を抱き、空を仰いで吐息を漏らし。天からの涙を一身に浴びて、顔の縁に貼りついたほつれ毛から雫を滴らせる。蠱惑的でおぞけの走る女の仕草。
「まあ、良いです。甚振る楽しみができました。積年の恨み、じっくりと晴らさせていただきますよ?」
声を弾ませて青藍の振袖を翻した女の動きが止まる。雨音が地面を叩く音が蘇り、蔭把は訝しみと不快感をあらわにした。
燈架の背後から、水が揺り動く音がする。霧のような冷たさが、燈架の横を通り過ぎた。牛の頭を持つ鬼が、着物の合わせから血と水を滴らせて、ゆっくりと岸に上がろうとしていた。
「アワレ」
揺の声は、変わらず淡々としていた。つまらない文章を読み上げるような単調さだった。その中に、真に同情していることが感じ取れるのは、多少なりと燈架も付き合いがあるからだろうか。
「オレが居なくても、オマエが〈花守〉に選ばれることはない。惟織を殺しても、オレを殺しても、〈常世の庭〉はオマエを受け入れない」
「……うるさい」
蔭把の大太刀を握る繊手が、硬く拳を作る。揺は、己の傷も蔭把の様子も構わずに、砂利の転がる岸を歩いた。石を、草を、滴り落ちた血が穢していく。雨がすぐさまそれを薄めた。滲むように薄まっても、牛鬼から流れた血は消えなかった。
「アワレに思う。オマエは誰よりも〈庭〉に焦がれていた。だが、オマエに〈庭〉は渡せない」
揺が近寄ったのは、美弥でも、その前に立つ蔭把でもなかった。彼女たちから距離を置いた颯季の前だった。
「え……」
揺は片方の手で颯季の腕を掴み、もう片方の手を宙に翳した。曇天の下、夜よりも深い闇の穴が現れる。昏い虚は、周囲の景色を喰い潰し、しかし雨水は呑み込まず、揺らぎながらそこに在った。
「〈庭〉は穢れを厭う。滞りて澱むのであれば、なおさらに。故に、我らは選ぶ」
揺は颯季の手を引っ張り、そのまま虚の中に放り込んだ。戸惑い慌てる少年の姿が、青と黒の光陰が混じる闇の中に消えていく。
蔭把は歯を食いしばり、艶やかな顔を鬼のごとく歪ませて、揺を睨みつけた。
「蔭把よ、お前に罪はない。しかし、定めだ。赦せ」
そう言い残して、揺は倒れこむように虚の中に飛び込んだ。
不安定な闇の揺らぎが、煙のように立ち消える。誰もが呆然と、その様を見送った。
「…………おのれ」
雨音が辺りを支配する中で、蔭把の憎悪が地を這った。燈架は弾かれたように地を蹴った。怒りに顔を歪めて虚空に手を伸ばした蔭把に一気に詰め寄り、斬りかかる。
燈架の攻撃を察した蔭把は、手を引っ込めて足を引いた。相変わらずの木履だが、砂利だらけの足場の悪さなどものともせず、彼女は軽やかに身を翻し、燈架へと大太刀を叩きつけようとした。愛刀でそれを受け止め、すぐに側方へと流す。滑り落ちる刃とともに傾ぐ豊満な身体に手を伸ばし、着物を掴み、地面へと引き倒す。
「あなた、また邪魔をっ」
わめく女に刀を振り下ろそうとした燈架の右側から、黒い気配が飛び掛かった。いつの間に喚んだのか、蔭把の狗猿が二頭。燈架はたちまち刀を返し、狗猿を続けて斬り払った。
「退きなさい!」
その隙に体勢を整えた蔭把が、太刀を振るう。燈架は後ろに大きく飛び退いた。着地したその横に、まだ呆けたままの美弥がいた。
燈架は彼女を引っ張り起こし、叢の向こうへと突き飛ばした。
「緋坦殿、彼女を!」
彼女が倒れた先には、状況が飲み込めずに置き去りにされた緋坦がいる。しかし、元来生真面目な彼は、燈架の呼びかけに応じて美弥を受け止めて、すぐさま匿った。頭たる自身が退く代わりに、部下へと指示を出す。進み出たのは、岩のような壮年の大男――圻延という名の、側近だった。
四角四面の緋坦よりも融通の利かない男だが、頭首を支えるだけあって、実力は確かだ。
「本っ当に無粋な男」
強力な助太刀を得て、今度こそ、と意気込む燈架の前で、蔭把は昏く淀んだ眼に怒りを滲ませた。




