八、空言流言
「あの妖の所為だ……」
「あんな素直な子が、おかしくなってしまった。妖が取り憑いたからだ!」
「早くあいつを倒してくださいよ! そのためにあんたたちを呼んだのに……この役立たず!」
残念なことに、兼盛の人々は何も解っていないようだった。美弥の心の叫びが、まるで聞こえていなかったようだ。
燈架は、珍しく頭に血が昇り、兼盛に食ってかかろうとした颯季をどうにか宥めた。近くにいた玄門の妖祓いに後を託し、二人で雨の中を追う。
水を吸った土と顔に掛かる雨が、燈架たちを阻もうとする。しとしとと降るだけだった雨は、勢いを増していた。大きくなった雨音が不安を掻き立てる。
その中で、ぽつりと颯季は溢した。
「僕は、美弥さんの気持ちが分かるような気がします」
雨粒を避けてか、颯季の顔は俯き気味だ。髪から水が滴って、こめかみから頬にかけて流れていく。
「僕も、あんな風に押し付けられたことがあります。みんな僕を不吉だと言って近寄りさえしないくせに、何かあると僕の所為にするんです。『お前が妖を呼んだのだろう』って」
悪戯も盗みも、怪我も殺しも、何もかもが颯季の所為にされた。否定しても、本当の犯人を伝えても、誰一人耳を貸すことなく、罪を颯季に押し付けた。
――全部全部私に被せるくせに!
美弥の叫びが脳裏に木霊する。彼女は家族の都合を押し付けられていた。彼女の意思を全く聴くことなく、自分たちの都合で押し固めて。
「彼らは、美弥殿に甘え過ぎたな」
彼女の必死の訴えを、妖の所為だと無視して。先ほど燈架たちに浴びせた罵声の中身からも、彼らがどれほど美弥を都合よく扱っていたかが知れる。美弥が、唯一話を聞いてくれる妖に縋るのも、無理はない。
ただ一つ。何故、蔭把の狗が現れたのか、それだけが分からない。
「あの女――蔭把は何者なんだ?」
走る最中に問い掛けるが、颯季はゆるゆると首を横に振った。
「僕も、よく知りません」
惟織は、颯季と蔭把を会わせないよう、殊更気を遣っていたらしい。この春までは、颯季も蔭把の姿を遠くから見たことがある程度だった、と。
妖艶で蠱惑的で強欲な様子を見せた、青藍の着物の女。颯季に執着し、惟織の命を奪った。〈花守〉の命を狙い〈常世の庭〉を欲しているようだが、その理由は何だろうか。
そして、今回美弥との関係は。
雨音が鼓膜を叩く。燈架の着物も、颯季の詰襟も、水を吸って重くなっていた。脚に貼り付く裾を鬱陶しく思いながら苦労して走り、辿り着いたのは立葵の咲き誇る湖岸だ。この雨の中でも背をしゃんと伸ばして灰色の湖岸を囲い、白い花で雨粒を受けている。
揺と美弥は、その真ん中にいた。美弥は砂利の上に蹲り、湖を背中にした揺が心配して彼女の前に立っている。
「美弥さん!」
颯季が声を掛けると、美弥は力なく顔を上げた。水を吸った髪が顔の前に垂れるのを、払い除けようともしない。
「ごめ、ごめんなさい。私、なんてことを……」
赤ん坊のように這うように手を動かす美弥の前に颯季は滑り込み、彼女を宥めた。
「落ち着いて美弥さん。大丈夫ですから」
妖を家族にけしかけておいて大丈夫も何もないのだが、一歩離れたところで彼らを見守っていた燈架は黙っていた。燈架まで彼女を追い詰める気はない。が、どうしたものか。空を仰いでも灰色の重い雲しかなく、今ここで希望を見出すのは難しそうだ。
「〈桜守〉」
揺が颯季に向き直る。颯季はしゃがみ込んだまま、揺を見上げた。そして、すぐに俯く。
「ごめんなさい、揺さん。任せろって言ったのに」
「オマエのセイではない。蔭把がチョッカイを出したセイ」
やはりあの狗は蔭把の狗だったのだ。狙いはやはり揺だろうか。だとして、いつ美弥に接触し狗を仕込んだのだろうか。
それにしても厄介な女だ、と燈架は思う。春の少年連続殺人の件といい、人間の社会を少なからず掻き回してくるのだから、敵わない。妖の騒ぎなら、妖同士で済ませてくれれば良いものを――というのが、燈架の言わざる本音だ。
ごめんなさい、と今度は蹲ったままの美弥が謝る。
「私があんなことをしたから……私の所為で、貴方を悪者にしてしまって……」
牛鬼は人の身体でしゃがみ込み、美弥の肩に手を置いた。牛の頭の異形とはいえ、その仕草は人のものと変わりなかった。
「アヤカシはもともと人間の嫌われ者。気にしない。オレもそろそろ帰る。だから、存分にワルモノにしてしまえばいい」
それで、美弥と狗の件が収まるのなら。
あまりの提案に、誰もが目を瞠る。確かに揺が明都を去るのなら、人間社会はそれでどうにか収まるかもしれない。とはいえ、謂れもない罪を被せられては、妖だろうと心穏やかではいられないだろうに。
何故この妖は、こうも優しく在るのか。燈架は愕然とする。『獰猛で残忍、毒を吐き人を襲う』――彼からは、その片鱗もない。本当に彼は牛鬼なのか。妖は、祓うほどのものなのか。
「見つけたぞ!」
草の向こうから届いた声に、燈架は振り返った。背の高い草の隙間から、芥子袴の物々しい連中が見えた――黄門だ。
燈架は舌打ちした。朱門でも玄門でもない妖祓いが、何故ここに来たのかを気にする余裕はなかった。ひとまずこの場を収めなければならない。燈架は刀を抜き、揺に襲い掛かった。もちろん、〝振り〟だ。外したように見せかけながら、揺の躯のすぐ隣に刀を振り下ろす。
「頼りなくて申し訳ないが、帰るならすぐに明都を去れ。これ以上は庇ってやれない」
「無論」
草の向こうから、芥子袴が何人か現れた。燈架は彼らからの盾になるように身を移動させながら、揺に斬りかかるふりをする。
揺は、燈架の刀の、柄にほど近い辺りを掴んだ。
軽く力を入れてみて、驚く。燈架の力の入れ方に応じて返す揺の力は、かなりのものだった。場合によっては刀を折られかねない――幸いにして、互いに本気ではないから、そのようなことにはならないが。
「待って! このヒトは何も悪くないんです!」
美弥の声が背後から聴こえた。視線を向けると、彼女はさらに揺を庇うように、燈架たちと黄門たちの間に割り込んで、両手を広げて立っていた。
黄門の妖祓いたちが蹈鞴を踏む。女性に刃を向けるわけにもいかず、刀を抜いたまま戸惑って、一人先頭の者を振り仰いでいた。
黄門の頭首・緋坦。堅物の彼も、躊躇せざるを得まい。美弥の行動は危ういものであったが、今回ばかりは助かるものだった。
「お嬢さん。いったいこれはどういう状況なのか――」
緋坦は気難しい顔をさらに顰め、美弥の庇うこちら側の者を順繰りに見回した。揺、燈架、颯季と目にしたところで、驚きと不審をないまぜにした表情を浮かべる。その理由を燈架は察した。状況は、春に惟織が本性を現したときと似ていた。
その既視感を彼がどう受け止めるか。燈架はそれに賭ける気はなく、従って刀を収めなかった。話すにしても、揺を逃がしたほうが良い。
力比べから離れ、刀を振り回して揺を逃げ道に――黄門から遠く、かつ湖岸の接線となるほうへ、誘導する。
疼ぎつつも、時が停まったような静寂の中で。
いざ逃げんと身を翻した揺の背を、美弥の影から飛び出した狗猿が斬り裂いた。




